85 You and I 3
「父ちゃんはなかなかホントに立ち直れなくてさ」
「うん」
「家のこと一生懸命やって、なんとか姉ちゃんが生活を立て直してくれたんだよ。食事作ったり、洗濯したり掃除したり。だけど、やっと軌道に乗ったところで病気になっちゃったんだよな。今は元気になったけど、病気になったばっかりの頃はひどかった。落ち込んで、悲しそうな顔しててさ、父ちゃんはますますショックでどうにもならなくって」
華恋は黙って頷く。
ただ、白い息と一緒に吐き出されていく少年の心のうちを、静かに聴いていく。
「いい大人なのにメンタル弱すぎなんだよ、まったく。なんとかしなきゃって色々頑張ったけど、父ちゃんには結局全然効果がなくて。仕方がないし、先に姉ちゃんを元気にしようって考えてさ」
「それでメイク始めたんだ」
「まあ、だいぶ脱線しちゃったけどな。脱線したおかげでいいこともあったけど」
押し入れにしまわれていた、中学生には似つかわしくない金庫を思い出す。
あの中にはいったい、どれだけの秘密が隠されているのだろう。
「俺の部屋のメイク道具が増えてきて、父ちゃんに見つかって、なんだこれはって驚かれちゃったんだよな。俺は姉ちゃんを励ましたいからって説明したんだけど、量が多すぎたからかな。なんか変な勘違いしたみたいで」
「ああ……」
「あれ以来、疑惑の目で見てくるんだよ。ハッキリ聞いてくれたらいいのに。姉ちゃんの服の洗濯とかしてると、黙ってじーっと見てきてさあ」
「ふふっ」
「ここは笑うところじゃねえぞ」
そう言いつつ、良彦も口元が綻んでいる。
「なんでも笑い飛ばしたらいいんでしょ? ここは笑うところだよ」
「まあ、はたから見たらとんだ笑い話だよな。だけど、俺は道を外しかけるし、姉ちゃんは現代医学じゃ治らない難病だしで、父ちゃんの逃避には拍車がかかった。誰かに助けてもらいたかったけど……、保護者なしだとなかなか難しくって」
「親戚とか、いないの?」
「いるけど遠いんだよ。普段から交流もなくて頼みづらかったし、姉ちゃんも移動が難しいし、大体、家族がバラバラになったらイヤだったから」
「それでうちに来たの?」
「……そうだな。俺もちょっと限界かなって思ってたところに、ミメイがやってきたんだ。すごく不思議な感じだった。隣の席にいきなりお前が座ってて、ぐっと歯を食いしばってこらえてるみたいな顔しててさ、どんな不幸を背負ってるんだって興味が沸いたんだぜ」
興味が沸いただけで、出会い頭であそこまで容赦なくつっこめるものだろうか。
人間って奥深いと、華恋は思わず感心してしまいそうになっている。
「俺は笑ってごまかしてたけど、お前は真正面から鉄砲水食らい続けてるみたいな堪え方してたから。どうやってメンタル鍛えてるのか参考にしようかと思って」
「ホントに? 大げさに言ってない?」
「バレたか。適当に今作った」
笑う顔を見つめてみても、良彦の言葉が嘘なのか本当なのか、華恋には判別がつかなかった。
「だけど、お前と出会えて本当に良かった。おかげで姉ちゃんも元気になったし。俺も毎日美味しいご飯にありつける。おまけに長い間続いてた父と息子のいざこざも今夜カタがつくかもしれない」
「すごいじゃん、私」
「ああ。ミメイはすげえよ」
いつもは可愛らしいはずの横顔が、今夜はやけに大人びて見える。
ゴーさんの望むスピリットちゃんは、もう良彦の中から消えてしまうかもしれない。
「悩みはたいしたことなかったけどな」
「まあ、あんたに比べたらそうだね」
「お前はいいよな。あんな頼もしい父ちゃんと優しい母ちゃんがいて。うらやましいよ」
ふうっと息を吐いた良彦に、視線を向ける。
一度は止まったはずの涙がまた出番を待っているらしく、瞳は潤んで、街灯の光をキラキラと反射させている。
「俺は早く大人になりたい。早く独立して、なんでも一人でできるようになりたい。だけど、父ちゃんみたいになりたくない。母ちゃんは優しくて可愛い人だなんて言ってたけど、あんな風になりたくない。似てるなんて言われたくない。俺もあんな風になんにもできない大人になったらどうしようって、不安で仕方ない」
さっきよりも控えめに零れ落ちた涙を見て、華恋は少し乾いてきた唇を開いた。
「うちのお父さんだって、別にそこまで良くできた人じゃないよ」
コーヒーを一口すすって、コホンと咳払いをして更に続ける。
「五年生の時にね、いきなり言われたんだ。ビジョイなのにブス、って。クラスの男の子たちに。なんなんだいきなりって思った。それなりに仲良くやってきたはずなのに」
人生初の、あまりにも容赦ない奇襲攻撃を思い出して、ふっと笑う。
あの時は悲しくてつらくてどうしようもなかったけれど、今はこうやって笑っている。
それが全部、隣でしょぼくれている少年のおかげなんだとわかってほしくて、華恋は笑顔を浮かべて話した。
「そんなことがあったなんて、お父さんにもお母さんにも言えなかった。苗字なんて変えられないし、原因は父さんそっくりの顔だからね、知ったら悲しむって思ったんだ。それで、家ではなにも話せなくなっちゃった。最初はどうしたんだ、なんなんだって心配されたんだけどね、私があんまりにも頑なに話さないから、とうとうお父さんも怒り出しちゃってさ」
ちらりと隣の良彦に目をやると、涙をキラキラさせたままこくんと頷いている。
「それでね、正子ばっかりあからさまに可愛がるようになったんだよ。正子は素直で可愛いなー、とか。誘拐されたら心配だとか言ってケータイなんか持たせてさ。ホントあの頃のせいだよ、あいつがつけあがるようになったのは」
母は心配してくれていたが、あまりしつこく口には出さなかった。
そのおかげでなんとかグレずに済んだのだとこの瞬間理解できて、華恋はこくこく頷いている。
「そういうしょうもないところもあるんだよ、うちのお父さん。私の態度は中学に入っても変わらなかったから、さすがにまた心配になったみたいで、引っ越しを決めたみたい。ちょっとでも気分が変わったらいいって。これは大正解だったから、良かったね」
「そうだな」
良彦の小声の返事は、震えている。
「うちのお父さんはかっこつけてるだけで、なんかわかったように見えるだけで多分、藤田のお父さんと変わんないよ。お母さんがいなくなったら、おんなじようにふにゃふにゃになっちゃうよ、絶対」
「そんなことない。おじさんならちゃんとなんでもできるよ」
「わかんないよ、そんなの」
「経済力もあるから、再婚相手だってすぐに見つかるだろ」
「……でもブサイクだし」
「ひでえなあ! お前、自分の父ちゃんだろ?」
目をこすりながらケラケラ笑う良彦と、華恋も一緒になって笑う。
しかし、それが収まると少年はなにか感じるものがあったのか、再び大粒の涙をこぼし始めた。
「俺、もうお前ん家に行くのやめるよ。これ以上迷惑かけられないから」
「なに言ってんの。迷惑じゃないよ」
「いや、父ちゃんの言うとおり、いくらなんでもどっぷり世話になりすぎだよ。姉ちゃんだって随分元気になったし、俺が部活辞めたらなんとかなるだろ」
聞き捨てならないセリフに、華恋は思わず立ち上がる。
「そんなことしたら、ゆうちゃんが心配するでしょ、どう考えたって」
華恋の目にも涙が浮かんでいた。
そんなの、寂しすぎる。
いきなりこの楽しい日々が終わってしまうのはどう考えてもイヤで、どうしても止めたくて、引き留めるための言葉を捜していく。
「藤田たちが来てくれた方がうちの家族も嬉しいし、なんならあんたのお父さんには内緒にしておけばいいよ。それに、部活に来なかったらみんな寂しがる。今度はゴーさんがショックで立ち直れなくなっちゃうだろうし、あと……」
グズグズし続ける自分を良彦が真剣な表情で見ていることに、少女はなぜかイライラして怒鳴った。
「バカ、お前の泣いてる顔、すげえヤバいなって言うところでしょ!」
「お前、……自分で言うなよ」
「言わせてるのはそっちじゃんか」
華恋が涙をこらえて頬を膨らますと、ようやく良彦が笑い出した。
よっぽどおかしな顔に仕上がったのか、笑い声は段々大きくなっていって、最後はいつも通りのゲラゲラになっている。
「ホントヤバイな。お前の今の顔、最高に面白い」
「でしょ! こんな楽しい生活やめることないよ。部活やめたり、おうちに引っ込んでたらダメだって。藤田の笑い声が聞こえなくなったらつまんない。私も前みたいに死んでるみたいなキャラに戻っちゃうよ。そんなの本当に困るから。うちが年中お通夜状態になっちゃう。藤田、あんた世話になった家庭をどん底に叩き落す気?」
華恋は困り顔で笑う良彦の腕を掴むと、引っ張って立ち上がらせた。
「ね、部活辞めても良くないことばっかりだってわかったでしょ。さっさと帰ってお父さんと決着つけよう。泣くのはお互い今日だけにして、明日からはまた元通りでいかなきゃ」
「……わかった」
腕を引っ張ったまま、自動販売機のところまで二人で歩く。
飲み終わった缶とペットボトルをゴミ箱に放り込んで時計を見上げると、もう七時半を過ぎていた。
「ミメイ、ありがとな」
「礼を言うのはまだ早いわっ!」
「なんだ、それ」
おかしなテンションの華恋の返事に、良彦はふっと笑った。