84 You and I 2
「華恋?」
猛ダッシュの途中で、父とすれ違った。
構わず、良彦の後姿をまっすぐに追っていく。
夕方のオレンジ色の光はすっかり消え去って、辺りは薄暗い。
街灯のあかりを頼りにしながら、白い息を吐きながら必死に走る。
「藤田っ!」
少しずつ差が縮まって、とうとう、華恋の指先がコートの端を掴んだ。
「うおおおおっ!」
勢いよく引き止められて、良彦が思いっきり転ぶ。
おかげで、いや、当然の結果、華恋も一緒になってひっくり返ってしまった。
「お前さ……、こういうのって一回見失って……、本部に戻って心配するとか、そういうのが普通じゃねえ?」
ぜえぜえと苦しげに息を吐きながら、良彦は華恋にこんな苦情をぶつけた。
「しょうがないじゃん……。なんか、足が速くなってたみたいで……」
見失ってしまったら、良彦がどこへ向かうのかまったくあてがなかった。
号田以外に、家の場所がわかる知り合いがいない。だから、一生懸命追った。
確かに一回くらい見失ったほうがドラマチックだったかもしれないが、この寒空の下で町をさまようなんて、いいわけがないのだから。
「ランニングで鍛えられちゃったんだな。……俺も一緒に走っておけば良かった」
人気のない道路の真ん中で二人で座り込んで、少しずつ息を整えていく。
やがて良彦は立ち上がると、無言のままゆっくりと歩き出した。
どこへ行くのかわからなかったが、華恋もあとを追っていく。
進んだ先には、誰もいない小さな公園があった。
入り口に設置された自動販売機でホットドリンクを二本買って、良彦はため息をつきながらベンチに座っている。
隣に腰を下ろすと、熱い紅茶のペットボトルが無言で手渡されてきて、華恋も無言で受け取ると蓋を開けた。
しばらくの間、沈黙のティータイムが続く。
短いペットボトルの中身が半分くらいに減ったところで、華恋は口を開いた。
「どこに行くつもりだったの?」
「ん? ……いや、別にどこに行こうなんて思ってなかったけど」
「ゴーさんのとこ?」
「それはホントに最後の手段だな」
笑顔を見せてくれたことに、華恋は少し安心していた。
良彦はしばらく地面を見つめていたが、顔を上げると遠くを見つめたままこう呟いた。
「お前はもう帰れよ。一応女子中学生なんだから、制服見て狙ってくるチカンとか、いるかもしれないし」
「この期に及んでまだそんな失礼なこと言う?」
やれやれと大袈裟に肩をすくめて、華恋はこう続けた。
「心配なら、一応男子、のあんたと一緒に帰るべきじゃない?」
「それもそうだな」
あははと笑う声が、冬の公園に響いていく。
いつもよりもずっとパワーのない声が寒々しくて、華恋はじっと良彦の顔を見つめた。
すぐに視線に気が付いて、良彦は眉毛を困ったような八の字の形にしている。
「ミメイ、ケガしてないか?」
「ん? うん、まあ大丈夫だと思う。ちょっと痛かったけど、もう平気」
「そうか。良かった。明日本番だもんな」
「藤田は?」
「なんともない」
会話が途切れる。
お茶の中身はあっという間にコールドになって、冷たくなってきた空気に、二人とも小さく体を震わせてしまう。
「藤田、帰ろうよ。家に帰りたくないなら、うちの、ゆうちゃんの使ってる部屋に泊まればいいし」
「さすがにそうはいかないよ。親父とちゃんと決着つけないと」
「そう思ってるなら、なんで逃げたの?」
華恋の問いかけに、良彦はふっと笑った。
「ホントだな。おかしいな」
公園の真ん中には時計が立っていて、もうすぐ七時になるぞと二人の中学生を急かしている。
しかし、どちらもベンチに座ったままで、動かない。
「……父ちゃんはさ、優しい人なんだ。だけど、頼りなくってさ」
囁くような声で、良彦は話し始めた。
言葉と一緒に白い息を吐き出しながら、冷たくなった手をこすり合わせて暖めている。
「母ちゃんはいっつも明るくて、頼もしい、どんな時にも笑ってるような豪快な母ちゃんだった。美人じゃあなかったけど、俺や姉ちゃんが転んだりしてもゲラゲラ笑って、大丈夫だって背中叩いてくるようなタイプ」
良彦はじっと地面に目を向けたまま話している。
その視線は、転がっている石よりもずっとずっと遠くを見ているようだと華恋は思った。
「だから俺も姉ちゃんも、全然泣かない子供だったよ。どんなことがあっても笑っちゃえばいいよって母ちゃんに教えられてたから。父ちゃんが気が弱くて、客に散々値切られてガックリして帰ってきても、しょうがねーなーってケラケラ笑ってた」
「タクシーの運転手だったっけ」
「そう。向いてなさそうに思うんだけどな、俺は」
ようやく小さく笑うと、良彦は顔を上げて華恋を見つめた。
黙ってこくんと頷いて、話の続きをじっと待つ。
「うちは母ちゃん中心でなにもかも回ってたんだ。家のことも、俺と姉ちゃんのことも、父ちゃんのことも全部母ちゃんが面倒みてた。父ちゃんの稼ぎがいまいちだからって、仕事にも出てた。夕方には急いで帰ってきて、飯作って、俺たちの面倒見て、夜遅くまで父ちゃんの帰りを待ってさ、きっと、忙しすぎたんだな」
良彦の口にぎゅうっと力が入って、閉じてしまう。
大きな瞳に涙が浮かんで、目の端にいっぱい溜まって、一気にぽろぽろと頬をつたって落ちていく。
「パート先でいきなり倒れたんだ。学校に連絡がきて、父ちゃんが迎えに来て、病院に行った。だけど、結局まともに目が覚めないままいなくなった」
「藤田……」
こんな弱さを見せ付けられるとはまったくの予想外で、華恋は目の前で泣く男子中学生をどうしたらいいのかわからない。
「どんなことも笑ったらいいって言われてたけど、母ちゃんがいきなりいなくなったのは笑えねえよ」
鼻をすすりあげる音を聞きながら、華恋はじっと黙ったまま地面を見つめている。
なんと声をかけていいか、どう慰めたらいいのかわからない。
だから仕方なく、黙ったまま、隣に座って言葉の続きを待った。
「だけど」
少し間が空いてからした声に、華恋は小さな声で応えた。
「うん」
「父ちゃんがさ……、すっげえ落ち込んじゃったんだ。母ちゃんがいなくなって、なにをどうしたらいいのかわかんなくて抜け殻みたいになっちゃってさ。そしたら、姉ちゃんが言ったんだ。自分たちが明るく笑ってないとダメだって。俺たちで母ちゃんの代わりになろうって」
「そうなんだ」
「でも姉ちゃんも頑張りすぎたんだな。俺たちがなにを言っても父ちゃんは立ち直れなくて、仕事から帰ってきたらぼんやりしてばっかり。なんとか励まそうとしてたけど、姉ちゃんの方が病気になっちゃってさ。もう散々だよ」
良彦はコートの袖で涙を拭くと、これまでに見せたことのない情けない顔で少しだけ笑った。
「ごめんな、ミメイ。俺がこんなところでメソメソしてたらお前も帰るに帰れないよな」
「……まあね」
「でも遠慮しないで帰ってくれ。俺はまだちょっと、こんな気分じゃ親父には会えないからさ」
「じゃあ落ち着くまで待つよ。あの制服は女子中学生だーって狙われて、チカンに会ったら困るし」
華恋は立ち上がると、自動販売機でホットコーヒーを二本買ってベンチに戻った。
片方をしょぼくれた相棒に渡して、少し考えて、こう語り掛ける。
「今日はもう全部吐き出していけばいいんじゃないの? 私の四角い顔相手にさ。あんたがシクシク泣いてたなんて誰にも言わないから」
「そいつはありがたいな」
良彦はまた小さく笑うと、アツアツの缶コーヒーの蓋を開け、目を伏せたまま呟いた。
「じゃあ早めに全部ぶちまけるか。風邪なんてひいたら、明日みんなに迷惑だもんな」
「よし。じゃあマキで行こうか」
急ぐ時に祐午が口にする言葉を真似して言ってみると、良彦はハハ、と声をあげて笑った。
「お前の足が速くて助かったかも」
「そう?」
「最悪ゴーさんのとこに行こうかって思ってたんだ。なにも言わずに受け入れてくれるだろうからさ」
「さすがにゴーさんだって、なにがあったのか心配するんじゃない?」
「それは俺の態度でどうにでもできるから」
さすがになにを言ってんだと華恋が突っ込むと、いつもの明るい笑い声が少しだけ戻ってきて、静かな夜の公園に響き渡った。