54 憧れの人 2
お隣のもう一人のメイクも終わり、軽いトークがあって一時間強。
華恋はようやくたくさんの視線から開放されていた。
頼まれていたサインをお願いしてみると、ジョーは快く承諾して、優しい微笑みを浮かべている。
「華恋ちゃんへ、でいいかな?」
この質問に、悩んでしまう。宛名はいりませんなんて、なんだか変に思われるのではないだろうかと。
馬鹿正直に「良彦君へ」でお願いしますというのも、気が引ける。
自分はファンじゃないんですよとカミングアウトするようなもので、この気のいいカリスマメイクアップアーティストに対して失礼すぎる。
「あの、よっしーへ、でお願いします」
「よっしー?」
「はい。私のあだ名で……」
ジョーはちょっと不思議そうな顔をしていたが、最終的にどこか納得いく着地点があったのか、再び笑顔を浮かべると気持ちよくよっしー宛のサインを書いてくれた。
それに丁寧にお礼を言って、ステージから降りていく。
良彦はまだジョーへ熱い視線を送りたいらしく、きゃあきゃあ騒ぐ女性たちの群れに混じっていたので、華恋は先ほどみかけた部活の仲間がまだいるのではないかと客席後方に向かって歩き始めた。
「よお、ビューティ。奇遇だな!」
やっぱり見間違いではなかった。
華恋が近づくと号田は笑顔でこう声をかけてきて、隣にいる礼音も軽く右手を挙げている。
変態副顧問は以前見たものと同じような白い大きな襟のシャツの上にミリタリー調のコートを着ていて、初めて見る副部長の私服は黒いパーカーにジーンズというラフなものだ。
「ぶらりと買い物に来てみたら、どこかで見た覚えのある子がいるじゃないか。これはこれは、って見学させてもらったよ」
「藤田が来るのわかってて、ただ単に会いたくて来たんじゃないの?」
「えっ? 藤田君がいるのかい? 一体、どこにいるというんだ!」
ラズベリー賞もののわざとらしい演技に、華恋は冷たい視線を送る。
中学生らしからぬ渋みにあふれる礼音は、たまたま来ていて、このこうるさいおっさんに捕まってしまったに違いない。
「先輩も買い物ですか?」
「ああ」
簡単な返事と同時に、紙袋を持った右手があがる。
無地の紙袋にはなにが入っているのかわからないし、説明も特にない。
「今日は随分トレンド感のある顔になったな」
号田は華恋を見て、ニヤニヤとこんな感想を口にした。
「トレンド感ね」
「どうだった。カリスマメイクアップアーティストの腕前は?」
「そうだな……」
手際は素晴らしく良かった。
肌をぽんぽんと彩る手の動きはとても滑らかだったし、丁寧に解説しながらでもスムーズに作業が進められて、さすがプロだなと思わされた。
カチコチに固まった女子中学生へも紳士的な態度で接してくれたし、できあがった顔にも一切手抜きはない。そう感じさせられる見事な出来栄えだった。
「すごいんじゃないかな」
「なんだビューティ、そんな程度か?」
号田の呆れた顔に、華恋は続きを言おうか言うまいか少し悩んだ。
そして、結局正直な気持ちを吐き出そうと決めた。
「藤田とそんなに変わらない気がしてさ」
副顧問と副部長が、顔を見合わせている。
並んでみれば礼音の方がだいぶ背が高い。
教師と生徒だなんて、きっとみんな思わないだろうな、なんて華恋は考える。
「それを聞いたら、藤田君も喜ぶんじゃないのか?」
「調子に乗ったらいけないから、言わないでおくよ」
この言葉に礼音が愉快そうに笑い出して、そこにようやくジョー見学を終えた噂の藤田君が姿を現していた。
「ミメイ、どこ行ったか探しちゃったぞ。で、なんでゴーさんと一緒なの? レオさんも」
「たまたま買い物に来たんだってさ」
愛しのスピリットちゃんが現れたことに気を良くしたのか、号田がおごるからみんなでお茶でも飲もうと提案してきて、四人はモール内にあるファーストフード店へと移動した。
「いやー、あんな間近でジョーを見られるなんてさ。もう感動だよ。最高だったなー!」
席に着くなり、良彦が幸せそうに話し始めている。
「そうだ。これ、返すね」
「お! サインもらってくれたんだな……。わー! よっしーへって書いてあるぞ!」
「華恋ちゃんへじゃイヤでしょ」
「それでもやむなし! って思ってたんだぜ? すっげーすっげー!」
キャッキャキャッキャうるさいことこの上ない。もうちょっと静かにと注意をすると、良彦はニヤニヤしたまま貴重なサイン入りの雑誌をぎゅうっと抱きしめ、うっとりした顔で黙った。
「ううむ。そんなにジョーが好きなのか? 別にそこまでの男前でもないのに」
「見た目は関係ないでしょ」
華恋は嫉妬丸出しの号田に突っ込みを入れ、礼音は静かにビッグなハンバーガーを食べている。
「なにか役に立つようなテクニックは見られた?」
「そうだなー。やっぱりジョーはすごくてさ。ゴッドハンドの異名は伊達じゃなかった。お前もわかっただろ? あのブラシの使い方とか、半端ないよな。あれだけ素早く色を馴染ませて……」
良彦の念願通り、お役立ちテクニックが満載の時間を過ごせたらしい。
マシンガンのように今日の総括を述べる姿を見てくれる係が一人いるので、華恋はメイク話を聞き流しつつ、ウーロン茶を吸いながら呟いた。
「早く化粧を落としたいなあ」
「……そうなのか?」
答えてくれたのは、斜め前に座っている礼音だ。
「こんな顔で外を歩いたことないから、落ち着かないんですよ」
「なるほど」
部活でやってもらったメイクは、毎回すぐに落として元通りの顔で帰宅していた。
今日はこんな顔で家まで帰るのだろうか。
なんだか顔がムズ痒い。
この顔で帰ったら、家族にどんな反応をされるのやら。
見せてもいいような、見せたくないような。なんともいえない気分だった。
「ちょっと」
そう言うと礼音が立ちあがって、席を外した。
良彦はまだうっとり顔のままマシンガントークを続けていて、その斜め前の号田もこれまたうっとりと可愛い教え子を見つめている。
気持ちわるっ、と思いながら会話が終わるのを待っていると、すぐに頼もしい副部長が戻ってきた。
「これ」
差し出されたのは、ふき取るシートタイプのメイク落とし。思わず、華恋は礼音の顔を見つめた。
「……ありがとうございます」
さりげなく紳士的な心遣いに、妙に照れてしまう。
華恋がうつむきながらそれを受け取ろうとしたら、横から出てきた手がメイク落としをガシっと掴んだ。
「なんだそれは、ミメイ!」
良彦の小さな手は想像を超えたパワーを秘めていたようで、腕がまったく動かない。
「ダメだぞ、落とすなよ、まだ写真に収めてない!」
「え? さっきも撮ってなかった?」
「あれはジョーを撮ってたんだ! ほれ、止まって。ちょっとニッコリしてくれ」
めんどくさいなあ、という表情を注意され、仕方なく華恋はちょっとだけ微笑んだ顔を作ってやる。
「すっげえなー、ミメイは。ジョーじきじきにメイクしてもらっちゃってさあ」
「だったらアンタがやってもらったら良かったのに。正子の服ならぴったり入るでしょ」
「そうだそうだ、どうしてそうしなかったんだ?」
「ゴーさんは黙ってて。ミメイも止まれ」
はいはい、と返事をして華恋はしばらくの間写真を撮られ続けた。
撮影して満足したらしく、やっとメイクを落としてよいと許可が降りる。
「どうせなら、家族に見せたらいいのに」
「そのカメラで見せたらいいでしょ」
とにかく顔の上になにかが乗っているようで、このままでは帰れない。
そしてもう一つ。このメイクは自分には合ってないと華恋は思っていた。
それはきっと、良彦にされているのとは目的が違うから。
最新のテクニックとかアイテムを使うことを目的にした講座用メイクには、華恋の顔をより良く変える力が乏しいように感じられる。
だからきっと、あの無礼なお調子者の方がすごいと思えるんだろうなと考えながら、華恋はパウダールームでいつもの自分に戻った。
「お、元通りだな」
良彦は笑顔を浮かべているが、少しばかり残念そうな様子だ。
「でも、落ち着くな」
続けて、礼音がこう呟く。メイク落としの代金を払おうとしたら、そんなのはいい、とこれまた紳士的な態度で、華恋はちょっと悩んでからその好意に甘えることにした。