29 トップブリーダー華恋 1
まずはシャンプーを済ませると、号田は奥から何本ものボトルを抱えて戻ってきた。
「お前の髪をこれからサラッサラにしてやるからな! 覚悟しておけ!」
ひどく威圧的な言い方だったが、ごく普通の客の立場なら単に嬉しいだけの挑戦だ。
なにをやっているか聞くと、トリートメントだと返事があった。
髪になにかが丁寧に塗りこまれ、最後にビニールのようなものが頭にかぶせられる。
「しばらく浸透させる」
「はあ」
「お前、やってみたいヘアスタイルはあるのか?」
「……お前っていうのやめてもらいたいんですけど」
号田は構わず、台の前に置かれた雑誌を何冊か取り上げた。
しかしどれも、釣りや将棋、下世話なゴシップ誌など、おっさん向け丸出しのものばかりのようだ。
「ちょっと待ってろ!」
狭い店内を駆け抜けて外に行ったかと思いきや、モグリの理容師はすぐに戻ってきた。
手にはオシャレガール満載のヘアカタログが三冊あって、おっさん向けのものとはまず表紙の色味が違う。
「今の長さだったらこの辺りか」
号田はページをパラパラとめくり、肩辺りまでの長さのモデルが集中している部分を開く。
「こういうのはどうだ?」
ふわっとエアリーな柔らかいふくらみ。果たしてこんな髪型が自分に可能なのか。まずそこがわからない。
「こっちもいいんじゃないか」
シャギーを入れたサイドの髪が、さらさらっと頬にかかる。これ、ツンツンプスプスかゆくならない?
「これもよさそうだぞ」
頭はまあるく、後ろ髪は思い切って外にはねさせて元気スタイル! うーん。こういうの、自分のイメージじゃない。
「どれがいいんだ?」
「……えーと」
「四角い顔を丸くするヘアスタイルだな。よしわかった」
さっきまでの提案と質問に意味はなかったようで、号田は勝手に一人で納得してどんな風に仕上げるのか決めてしまった。
「客の意見は?」
「無料でやるんだからどう仕上げるかはこっちの自由だ。大体返事もしなかっただろう」
浸透は終わったのか、頭のキャップがはずされる。
シャンプー台が仰向けに倒れると、号田のやけにかっこいい顔が華恋の目に入った。
「ついでにシャンプーの仕方も徹底指導してやる!」
手の構え方がどうとか、すすぎをしっかりしろとか、床屋でここまでこうるさく話しかけられたのは初めてだった。
今までの担当が無口な人間だっただけで、普通、理容師、美容師というのはこんな風におしゃべりなものなのだろうか。
「ゴーちゃん、ノってるわね」
「スピリットの依頼だからな! 今日の俺の真剣な仕事ぶり、ちゃんと伝えてくれよ?」
「月曜日にね」
よう子の返事に、号田は悲しそうな表情を浮かべている。
「今日言っておくよ。うちに来るだろうから」
「……なに?」
「来るの? ビューティ」
「ええ、まあ」
簡単な返事に、モグリの理容師は納得いかなかったようだ。
「どういう関係なんだ! 藤田君と!」
「え? いや、なんかうちのご飯が気に入ったらしくって」
「餌付けか! この四角いのはとんでもないな!」
「なんだそりゃ」
良彦は勝手にやって来たのであり、今では姉も同伴している。
いや、同伴どころか半日いて養生している。
美女井家は最近、一日の半分は四人姉妹のにぎやか一家と化していた。
やんややんやと文句を言われている間に、シャンプーは無事に終了したらしい。
「こんにちはー」
GOD・Aのドアが開き、若い男性客が入ってくる。
「いらっしゃい!」
「フェアリーテイルにあこがれちゃう!」
まだ大学生くらいだろうに、もう頭が腐ってしまっているのだろうか。
かわいそうに。華恋はそんな気持ちで入り口の方に目をやる。
「すいません、今日はちょっとできなくって」
「え? ツヨさんそこにいるじゃない」
「まだちょっとかかるんで。明日ならいいんですけど」
店主の篤にそう言われた男性客は、もし手が空いたら連絡してほしいと携帯電話の番号をメモして渡している。
一体なにかと思っていたら、すぐにまた別の客が来ておかしなことを口走った。
「フェアリーテイルお願いします!」
それも「今日は無理」と断られ、推定二十代の男性はすごすごと帰って行く。
「もしかして、合言葉を言えばモグリに切ってもらえるのって本当だったの?」
「モグリとはなんだ」
「あんたのことだよ」
来週からは学校の先生になるはずのモグリの理容師に対して、華恋は思わずタメ口で突っ込んでしまう。
本当だったとは。まったく馬鹿馬鹿しいファンタスティックな理容室があったものだ。
合言葉はどうやら「フェアリーテイル」のようで、客にどれだけ羞恥プレイを強要したら気が済むのだろう。
そして店主であり、きちんと免許ももって長年営業しているであろう篤には誰も頼まないのか。
華恋の脳裏にそんな疑問が次々と浮かび、五秒後にはまあいいやと結論が出る。
「そんなことはいい。藤田君が家に来るなんてどういうことだ」
「勝手に来てるだけだよ」
号田は納得いかないのか、ブツブツと文句を言っている。
ブツブツ文句を言いながら、さりげなくヘアカットを始めていた。
「どういう髪型にするつもり?」
「お前にふさわしい四角い頭にしてくれるわ! いや、三角にしておでん串にしてやろうか?」
「ちょっとゴーちゃん、秘蔵の一枚いらないの?」
「全力を尽くさせて頂きます、お嬢様」
良彦はよくこんなヤツにハアハアされながら写真なんか撮られたものだな、と華恋は感心するような同情するような、恐れおののくような複雑な心境だ。
すべての要素の中で「変態でモグリ」という部分が真っ先にクローズアップされてしまっている号田だが、カットをする手先と真剣な表情はなるほど、なかなかカッコイイものだった。
細かく動くハサミはリズミカルに音を立て、パラパラと髪は流れ、目にもとまらぬ速さで毛先が踊り、切られた先端がハラハラと舞い落ちる。
一体どういう髪型にするつもりかはわからなかったが、「はい終わり」と言われて改めてのぞいた鏡の中の自分は……。
「どういう髪型?」
結局わからない。濡れて乾いていないペッタリとした髪の毛では、どう仕上がっているかまったく予想ができなかった。
ただ、あれほど針金だのバリカタだの言われた髪が、なんとなく艶めいて輝いて、見たことのない柔らかさで下に流れている。
「今からブローしてバッチリ決めてやるからな! 覚悟しろよ!」
この口調はなんとかならないものだろうかと華恋は思った。
しかしチラリと鏡越しに表情を見ると、映っているのは真剣な顔だ。
理容師として作業している間は人格が変わってしまうのかもしれない。
いや、逆だ。良彦が関わると変わってしまうのだ。
本来は真剣に髪と向き合うイケメン。しかし、モグリ。
ドライヤーでブンブン乾かされ、最後にヘアスプレーで整えられた自分の髪に華恋はかなり衝撃を受けた。
「なにこれ……」
「変わりすぎて言葉も出ないか! そうだろうそうだろう! あの針金が、妖怪の武器として使えそうだった硬い髪の毛がこんなにもサラッサラになってしまったんだからな!」
後ろで笑う号田はまあいい。本当に、サラッサラのツヤッツヤだった。
ためしに手をやって触れてみると、髪はツルンと指の間から逃げていった。
今までは「鉛筆の芯のような濃いグレーが鈍く輝いているよう」だったのに、今では「真っ黒いのにあらゆる光を反射して輝いている上、滑らか」になっている。
そういう風に見える。どんな魔法を使えばこんなに変わるのか、華恋にはわからない。
「どうもー、タイム弁当ですー」
十二時になったらしく、理容室のドアが開いて、限定スペシャル幕の内弁当が届いた。
それに店主が礼を言って、お金を払っている。
「よし、飯にするか! これからヘアーの手入れについて、じっくり講義させてもらおう!」
もしかしたら、長くなるのかもしれない。
だけど顔の横でサラサラと波打つ髪の毛に胸がワクワクしていて、華恋はこんなド変態の話もちょっと前向きに、素直に聞く気になっていた。