01 転校初日
職員室から教室へ向かう彼女の足は、重かった。
これからしなくてはならない、転校生ならではの義務である「自己紹介」。それが憂鬱でたまらないから。
四月に済ませたはずなのに。知り合いのいない新しい場所に来て、あの辱めを、また、受けなければいけないなんて。
そう思いながらも、観念して足を進めていく。
両親が念願のマイホームを購入したのは、とてもめでたい。
自分の部屋も新しくなり、家具も新調され、欲しかった個人用のパソコンまで買ってもらった。
その代償が、転校。以前の中学に通うには距離が少しばかり遠すぎる。
仕方がない これも運命 諦めよう
うしろ向きな五・七・五を心の中で詠みながら、担任教師の背中を追っていく。
まだ義務教育の真っ最中。
学校生活を拒否することもできなくはない。
けれど、自分からすべての可能性の放棄をするまでの度胸はまだ、ない。
とうとう教室にたどり着いていた。
ドアの上には「1年D組」のプレートが掲げられている。
今日、ここは戦場になる。
少女は、静かに目を閉じた。
担任の教師は気の良さそうな男性で、チャイムが鳴って、扉が開いても、教室はざわざわと話し声であふれていて静かにはならない。
しかしその後ろにもう一人、誰かがいると気がついて、ほとんどの生徒が席へ戻った。
十月二日。中途半端な日に現れた見知らぬ少女。
指定のセーラー服ではないブレザーを身に着けている。
転校生だと全員が察知し、視線をまっすぐ前にうつした。
少しうつむいて入ってきたのが女子生徒だとわかって、期待に満ちた空気が男子生徒の間にあふれていく。
しかしその顔が上がると、たいした美少女ではなかったガッカリ感がそこかしこで小さくはじけた。
「えー、みんなおはよう! 今日はごらんの通り、転校生が来たので紹介するぞ」
ちなみに担任の名は、風巻透で、教師生活七年目の二十九歳。
無駄と思えるほどにハキハキとした風巻教諭は、みんな仲良くするんだぞ~と言いながら、新しい仲間の名前を黒板に強く大きく書いていく。
美 女 井 華 恋
「みめいかれん君だ! じゃあ、自己紹介をしてもらおうかな」
教室中で起きている色んな反応が、前に立たされた少女からははっきり見て取れた。
背の高さは、中学一年生にしてはスラっと高い一六二センチ。
肌は白く美しいが、ほめられるのはこの二点くらいだろう。
四角い顔の中には、丸くて少し低めの鼻。
眉毛は濃く太く、目はたいして大きくもない奥二重。
口はガンコそうに閉じられていて、美しい歯並びが奥に輝きを秘めているかどうかはわからない。
髪は肩より下まで伸ばされ、校則どおり二つにわけて結ばれているが、ぱっと見ただけで硬そうだとわかる。
「みめいです。よろしくお願いします」
珍しい苗字に対する驚きや興味以上に、地味極まりない本人とど派手な名前のアンバランスさに対する失笑。反応の九〇パーセントはそれだ。
遠慮のない中年なら大声で笑ってくることすらある。
なので華恋は、世界で一番嫌いなことはなにか問われれば、「自己紹介」と答える。
そんな十三歳は、短く手早く、世界で一番嫌いなことを一瞬で終わらせていた。
簡素な自己紹介を済ませて黙り込む華恋にどうやらそれ以上なにも言う気がないと、風巻教諭がやっと気がついて、最後列の席につくように指示が出された。
一番後ろには空いている席が二つ並んでいる。窓際の方が女子の列のようなので、おそらくそちらが自分の席だろうと判断し、華恋は左側の席から椅子をひいて座った。
周囲からはひそひそと声がしている。
それがなにについて話す声なのか、華恋は一切気にしない。
名乗るたびにふりかかる試練を乗り越えた結果身についた最終奥義、「無の境地」である。
この後、転校生のお約束、休み時間に集まってきたクラスメイトたちからの「興味津々わくわく質問タイム」が待ち受けているはずだ。
「お前の名前すごくね?」「似合わなくね?」など、心を傷つける以外なにものでもない言葉を投げかけられる可能性がある。
それまでの暮らしの中で様々な声をなげかけられてきた。その結果、華恋はこの年、あらゆる罵詈雑言を「無の境地」で切り抜けるという究極の技を身につけていた。
気の利かない男子たちの発言の後に付け加えられる、人のいい体の女子からの「やめなよ! かわいそうじゃん!」もそれで対処できる。
華恋の完璧な無の表情は他人を一切寄せ付けず、周囲の関心はそれでゼロになるのだ。
この「無の境地」の副作用として、友人ができなくなる。が、もう構わない。
傷つくのを恐れてひきこもるよりも、下らない声に惑わされずに勉学に励む。それが散々両親を恨んだ末に行き着いた、華恋なりの美学だった。
案の定、休み時間になるとわらわらと周囲の席の生徒たちが寄り集まってくる。
「どこから来たの?」
「珍しい苗字だね」
さまざまな声が飛んでくるが、正面から名前と容姿の不釣合い具合について心無い言葉を投げかけてくる無礼者はいない。
そういえばこの当たりは治安のいい地域なのだと両親は話していた。
穏やかな土地に住んでいる子供たちは、悪意がなく、配慮のできるタイプが多いのかもしれない。
ここしばらく頑なにこりかたまっていた心が少しだけほぐれた気がして、華恋の口元に小さく笑みが浮かぶ。
「あれー! なに、だれ、もしかして転校生?」
そこにいきなり、小柄な男子生徒が乱入してきた。
一時間遅刻して、空いていた隣の席の主が登校してきたらしい。
「藤田くん、遅いよー!」
「ちょっと夜更かししちゃってさ」
くりくりとした大きな目が可愛らしく、柔らかそうな髪はふわふわくるくる、少し癖があるのかこれまたラブリーな顔に花を添えている。
藤田くんと呼ばれた少年は大きめの学ランを脱ぐと、カバンの整理そっちのけで、華恋に向けて屈託のない明るい笑顔を向けた。
「オレは藤田良彦。よろしく!」
また自己紹介をしなくてはならないのか――。
勿論、憂鬱でたまらない。しかし、ここで無視するのはあまりにも感じが悪い。
せっかくのいい雰囲気なのだから。
「ミメイです。よろしく」
「ミメイ? それ、苗字なの?」
良彦の明るい声に、ゆっちと呼ばれている女子生徒が勝手に答えた。
「苗字だよ。美しいに、女に、井戸の井でみめいさん」
みぽこと呼ばれている女子生徒が、更に勝手に付け加える。
「豪華の華に、恋愛の恋でかれんちゃん! 素敵な名前だよね」
美女とひとことで言えばいいものを、わざわざ「美」と「女」に分けて説明するという気配り。
自分で言った方が良かったのか、説明する手間が省けて感謝するべきなのか。
迷う華恋の前で、良彦は女子生徒たちに言われた単語を頭の中で組み合わせ、はっきりと思い浮かべ、転校生のフルネームを理解したようだ。
「あははははは! マジで? すっごい、派手な名前だね! 美女に華に恋?」
ケラケラと大きな声で笑う良彦につられて、おそらく我慢の限界が来たのだろう。クラスメイトたちも一斉に、朗らかに笑い出した。
「たしかに、ありえねー苗字だよね!」
「つーか、名前負けしすぎでしょ!」
休み時間が終わるまで、一年D組の教室は若々しい笑顔と笑い声に包まれた。
かくして華恋の「普通の学校生活」へのほのかな期待は、あっさりと一人の少年に破られたのだった。