【連載開始】「妹が先よ。あなたは手がかからないから」と母が言うので、三回言って届かないものは自分で取りに行きます
連載版を始めました(https://ncode.syosetu.com/n6674mx/)。短編のお話を、辺境伯ダンカン・妹ジニー・兄ジャーヴィスの視点を足しながら書き直し、第7話から、ウィラが北の辺境伯領へ嫁いでからのお話に進みます。よろしければ、そちらもどうぞ。
「妹が先よ。あなたは手がかからないから」
母はそう言って、私のドレスを衣装台から外した。
白の絹に、裾と胸元へ菫の刺繍を散らしたドレスだ。王宮の春の舞踏会でお披露目される娘は白を着る決まりで、飾りの色だけは好きに選べる。菫は私が選んだ。仕立て屋のマダム・ロシェが私の寸法で一から縫い、今朝が最後の試着だった。袖を通したのは、ついさっきのことだ。
「マダム、ジニーの寸法に詰めてちょうだい。身頃だけでいいわ。裾の菫は切らないでね。四日あれば間に合うでしょう?」
ドレスを差し出されて、マダム・ロシェは針山に伸ばしかけた手を止めた。
妹のジニーは、母の腰に抱きついて鼻をすすっている。ジニーのドレスは、昨日の夕方、袖のレースが気に入らないと泣いて、自分で鋏を入れた。今は衣装部屋の隅で、片袖のないまま人形に掛かっている。
「だって、お姉様の菫のほうが、私に似合うもの」
「そうね。ジニーは菫がよく似合うわ」
母はジニーの髪を撫でてから、ついでのように私を見た。
「あなたは、二年前の白を出せば足りるでしょう」
二年前の白。私がお披露目のために仕立てて、一度も袖を通さなかったドレスだ。その年はジニーがポニーから落ちて腕を折り、一家は領地に残った。次の年は、ジニーがまた家庭教師と揉めて辞めさせ、母が付きっきりになった。どちらの年も、母は同じことを言った。あなたは来年でも大丈夫でしょう。
(一回目)
「お母様。そのドレスは私のです。返してください」
「ジニーが泣くでしょう」
母は振り向きもしなかった。
(二回目)
「返してください」
今度は返事もなかった。母はジニーの髪を撫で続け、ジニーは私の菫を胸に当てて、鏡の前で裾をつまんでいる。
開いたままの扉の向こうを、書類の束を抱えた父が通りかかった。足を止めて衣装部屋を覗き、泣き顔のジニーと、母の腕の白いドレスと、私を順に見て、いつもの声で言った。
「ウィラ、お前は聞き分けがいいから、わかるだろう」
父はそれだけ言って、書斎のほうへ歩いて行こうとした。
(三回目)
「私のドレスを、返してください」
ジニーが、わっと泣き出した。母がジニーを抱き寄せ、引き返してきた父が「どうした、ジニー」と膝をついた。三人の背中が、私のほうを向いていた。
届かなかった。
小さいころのことを思い出す。お茶の時間に、林檎のタルトが一切れだけ残った。私が欲しいと言うと、母は「ジニーが先よ」と言って、まだ幼いジニーの皿に載せた。ジニーは一口かじって、床に落とした。
その夜、祖母のイモジェンが、私を膝に乗せて言った。
「ウィラ。欲しいものは、はっきり三回言いなさい。三回言っても聞き届けられなければ、それは相手に聞き届ける気がないの。そのときは泣かずに、自分の足で取りに行きなさい」
次の朝、祖母は私を馬車に乗せ、町の菓子屋で林檎のタルトを丸ごと一つ買わせた。代金は、私の貯金箱から出した。
祖母はもういない。けれど教えは、まだ使えるはずだった。
「わかりました」
私が言うと、母は振り向かないまま「いい子ね」と言った。ジニーに言ったのか、私に言ったのかは分からなかった。
私はマダム・ロシェに向き直った。
「マダム。午後、お店に伺ってもよろしいですか」
マダムは針山から待ち針を一本抜いて、私の目を見て、一度だけ頷いた。
* * *
マダム・ロシェの店は、王都の仕立て屋通りの角にある。侍女のグウェンを連れ、家の古いほうの馬車で行った。新しいほうは、ジニーが午後に髪結いへ行くので使えなかった。
マダムは、私が持ってきた二年前の白を作業台に広げ、私の肩に巻き尺を当てて、すぐに首を振った。
「肩も丈も足りません。縫い代を全部出しても届きませんね。あれから、お育ちになりましたから」
「では、新しく仕立てていただくと」
「舞踏会までに、一からは縫えません」
マダムは奥へ行き、白い布を掛けた人形を押して戻ってきた。布を取ると、飾りのない白のドレスが現れた。
「ある子爵家のお嬢様のお仕立てでした。お身内にご不幸があって、今年のお披露目をお取りやめになったんです。先様には取り消しのお代だけを頂いて、ドレスは店のものとしてお引き取りしました。ですから、私の裁量でお譲りできます。お嬢様の寸法に直すだけなら、舞踏会に間に合います。お代は、金貨二枚と銀貨五枚」
私は財布を開いた。毎月の小遣いを、本と刺繍糸のほかにはほとんど使わずに残してきた。なんとか足りる。
「お願いします」
お代を払うと、財布はずいぶん軽くなったけれど、林檎のタルトよりはずっと大きなものが買えた。
マダムは待ち針をくわえて、私に直しの白を着せていった。しばらく黙って針を打っていたが、腰の線を合わせながら、ぽつりと言った。
「今朝のお話ですけれど。私は、針と布のことしか申しません」
「はい」
「お嬢様の寸法で一から縫ったドレスを、身頃だけ詰めて、裾は切るなと。妹御はお嬢様より指三本分お背が低い。裾が長いまま着れば、菫は床を掃きます。歩くたびに、半分は踏まれるでしょうね」
マダムは待ち針をもう一本抜いた。
「前のお仕立ても、一度も袖を通していただけませんでした。私はお嬢様のお披露目のドレスを、これで三度縫うことになります」
鏡の中の私は、まだ待ち針だらけで、少しも令嬢らしくなかった。三度。マダムも、数えていたのだ。
「飾りは、どうなさいます。菫をもう一度入れることもできますけれど」
「菫は、もういいです」
少し考えてから、私は言った。
「銀糸で、一筋だけ。裾に」
マダムが、今日はじめて笑った。
「お似合いになりますよ」
店を出ると、後ろでグウェンが鼻をすすった。グウェンは祖母に長く仕えて、今は私に付いてくれている。
「大奥様がご覧になったら、手を叩かれますよ。お嬢様が、ご自分で取りにいらしたって」
春の舞踏会は、もう目の前だった。
* * *
王宮の大広間は、天井から下がる大燭台で、昼より明るかった。
白いドレスの娘たちが、壁際に並んで名を呼ばれるのを待っている。奥の壇には国王陛下と王妃陛下がお座りになっていて、お披露目の礼と、はじめの何曲かをご覧になるのが習わしだ。
ジニーは私の菫を着ていた。身頃だけを詰めて裾は切らなかったから、マダムの言ったとおり、余った裾が床を掃いている。ジニーが歩くたびに、菫は半分ずつ、床と靴の陰に見えなくなった。
「ペンローズ伯爵家、ジニー嬢」
名を呼ばれると、母はジニーの手を取って壇の前へ進んだ。ジニーは震える声で礼をして、壁際へ戻ってくるなり母の胸に顔を埋めた。
「ペンローズ伯爵家、ウィラ嬢」
母は胸にすがるジニーを、渋々といった顔で離した。私と並んで歩きながら、目はずっと後ろのジニーを見ていた。私が壇の前で膝を折ったとき、母の体はもう半分、ジニーのほうへ向いていた。
王妃陛下が、私の銀糸の裾に一度だけ目を落とされた気がした。
お披露目が済むと、デビュタントの一曲目になる。最初の一曲はデビュタントだけが踊る円舞で、相手は父か兄が務める。兄のジャーヴィスは北の騎士団にいる。ひと月前に兄から届いた手紙には、休みを取って私の一曲目を務めたいと父に書いた、とあった。父の返事は「ウィラは聞き分けがいいから、一人で大丈夫だ」だったそうだ。
だから私の相手は、父のはずだった。
(一回目)
「お父様。一曲目は、どなたと踊ればよろしいでしょう」
「ジニーが震えている。少し待ちなさい」
父はジニーの手をさすっていた。楽団が弓を構え始める。
(二回目)
「お父様、もうすぐ一曲目です」
「お前は聞き分けがいいから、誰か見つけなさい」
父はそう言って、ジニーの手を取った。
(三回目)
「お父様。私の一曲目のお相手を」
父の背中は、もう広間の真ん中へ歩き出していた。菫の裾を床に引きずるジニーと並んで、一度も振り向かなかった。
届かなかった。
広間を見渡す。ほかのデビュタントたちは、それぞれ父や兄の腕に手を掛けている。一曲目に誰の手も取られなかった娘は、その夜、ほかの誰からも申し込まれにくい。そういうものだと、作法の本で読んだ。
では、取りに行く。けれど、誰のところへ。
壁際の夫人たちが、扇の陰で囁き合っていた。
「ご覧になって、あの柱のそば。北の辺境伯ですって」
「久しぶりの王都だそうよ。陛下がお呼びになったとか」
「踊らないのよ、あの方は。前にいらしたときも、一曲も」
「頬の痕、凍傷ですってね。北の峠では、冬に兵の指が落ちるそうよ」
柱のそばに、背の高い男の人が一人で立っていた。黒の礼装で、頬に白く引きつれた痕がある。その人のまわりだけ、ぽっかりと空いていた。
北の辺境伯。兄の手紙に、何度も出てくる名前だった。ストラウド辺境伯ダンカン。兄の上官で、言葉が短く、一度聞いたことは忘れない人。
私は広間を横切った。父の腕にも兄の腕にもいない白いドレスが一人で歩いていくのを、広間じゅうが見ていた。
「辺境伯閣下」
その人が私を見下ろした。思っていたより、ずっと静かな目だった。
「私と一曲目を踊っていただけませんか」
「喜んで」
返事は、私が言い終わるのとほとんど同時だった。差し出された手は大きくて、手袋越しにも温かかった。
広間の空気が、目に見えるほど揺れた。
「踊るわ」
「北の辺境伯が……」
「どこのお嬢さん?」
「ペンローズ家の、上のお嬢さんよ。お父上は、さっき下のお嬢さんと……」
楽団が一曲目を始めた。
辺境伯の踊りは、噂と違って少しも下手ではなかった。大きな手が、私の背中のちょうどいい位置を支えている。くるりと回されて、裾の銀糸が一筋だけ光った。
「ウィラ・ペンローズ嬢だな」
「ご存じなのですか」
「君の兄上は、私の副官だ。王都へ発つ前に、妹を一目見てきてくれと頼まれた。誰かに聞かれたら、兄上の代わりに踊ったと答えておこう」
兄らしい、と思った。
「父上のそばで、三回、口を動かしていたな」
私は危うく足を止めるところだった。
「……見ていらしたのですか」
「数えていたのか」
隠しても仕方がない気がした。私は回りながら、祖母の教えを話した。林檎のタルトのことも、試着の朝のドレスのことも、マダムの店のことも。
話し終えると、辺境伯が笑った。
最初は喉の奥で、それから堪えきれないように、声を上げて。近くで踊っていた組が、そろって振り向いた。ジニーと踊っていた父も、初めてこちらを見た。
「すまない。笑うところではないな」
「いいえ。笑っていただけて、少し楽になりました」
「北では」
辺境伯は、笑いの名残のある声で言った。
「大事なことは一回で言う。吹雪の中では、二回目を言う前に声が届かなくなるからだ。言われたほうも、一回で聞く」
「では、北に生まれていたら、私は三回も言わずに済んだのですね」
「君の家に、聞く耳が一回分もなかっただけだ」
曲が終わった。辺境伯は私の手を離す前に、一回だけ言った。
「明日、伯爵家を訪ねてもいいか」
私も、一回で答えた。
「……はい」
辺境伯に壁際まで送られると、待っていたように、年配の夫人が扇を閉じて近づいてきた。
「ペンローズ家の、上のお嬢さんね。一曲目、拝見しましたよ。お父上を待たずに、ご自分で歩いていらしたのね」
夫人の後ろには、次の曲を申し込みたいという若い子爵が立っていた。その後ろに、そのまた次を申し込みたいという誰かのお兄様も。父の手に取られなかった娘は、その夜、一度も壁の花にならなかった。
広間の向こうで、ジニーの声がした。
「お姉様ずるい! 北の辺境伯と踊るなんて!」
母が、すぐにジニーのほうへ駆け寄って行った。
* * *
翌朝、玄関に箱が一つ届いた。
添えられたカードには、角ばった字で一行だけ。
午後二時に伺う。ダンカン
箱を開けると、焼きたての林檎のタルトが丸ごと一つ入っていた。舞踏会で、私が回りながら話したタルトだ。
「わあ、タルト! 私が先に食べる!」
朝食の席から、ジニーが手を伸ばした。母がナイフを取って、いつものように最初の一切れをジニーの皿へ運ぼうとする。
その前に、グウェンが箱ごと持ち上げた。
「奥様、こちらは辺境伯様から、ウィラお嬢様にと承っております。届けに来た従者の方が、そう念を押していかれました」
母のナイフが、宙で止まった。
グウェンは私の前に箱を置き、一切れ目を私の皿に載せた。この家の食卓で、林檎のタルトの一切れ目が私の皿に載ったのは、初めてだった。甘くて、まだ温かかった。
二切れ目は、私がジニーの皿に載せた。ジニーは、今度は落とさなかった。
その日の午後、母は昼前からジニーを着飾らせていた。
「辺境伯様は、昨夜ジニーをご覧になっていたのよ。ウィラと踊ったのは、ウィラから申し込んだからでしょう。お断りになれなかっただけよ」
母の中では、そういうことになっていた。
「でも、北なんて寒いところ、嫌よ。お母様、私、王都にいたい」
「大丈夫よ。ジニーが行くなら、お母様もついていくわ」
私は客間の隅で、八人目の家庭教師に宛てる引き継ぎの手紙を書いていた。ジニーがどこまで習って、何を投げたかを書いておかないと、次の先生もすぐに辞める。
辺境伯は、約束の時刻ちょうどに来た。客間に通されると、父に一礼して、前置きなしに言った。
「ウィラ嬢に、結婚を申し込みに来た」
母の手から扇が落ちた。
「まあ……ウィラ? ジニーではなく?」
「ウィラ嬢だ」
ジニーが鼻を鳴らした。
「北なんて寒いところ、お姉様にちょうどいいわ」
父は咳払いをして、椅子に深く座り直した。
「閣下、身に余るお話ですが、お受けできません。ウィラは家に要るのです。あの子がいなくなれば、ジニーの面倒を見る者がいなくなる」
そして、私のほうを見た。
「ウィラ、お前は聞き分けがいいから、わかるだろう」
(一回目)
「お父様。私は、お受けしたいです」
「話は終わりだ」
(二回目)
「お受けしたいのです」
父は答えず、辺境伯に向かって「北の冬は、娘には厳しすぎましょう」と話し始めた。
(三回目)
「お父様。お受けします、と言いたいのです」
そのとき、ジニーの手から紅茶のカップが滑った。一番気に入りのドレスの膝に、茶色い染みが広がる。ジニーが泣き声を上げ、母が「誰か、布を!」と叫び、父が立ち上がってジニーの肩を抱いた。
届かなかった。
三人の背中を見ながら、私は不思議なくらい落ち着いていた。三回は言った。祖母の教えに従うなら、もう泣く理由も、待つ理由もない。
私は辺境伯に向き直った。
「閣下。取りに行くには、どちらへ伺えばよろしいでしょう」
辺境伯は、上着の内から一通の手紙を出した。封筒の字に見覚えがあった。兄の字だ。
「君の兄上から預かってきた。父上がまた『ウィラは聞き分けがいいから』と言ったら、妹にこれを渡してくれと」
手紙には、兄の几帳面な字で、王宮の古い定めが書き写してあった。春の舞踏会でお披露目された令嬢は、その季節、夏至の日まで王妃陛下の後見を受ける。後見を受ける令嬢の縁組に、当主が正当な理由なく同意しないとき、令嬢は自分で王妃陛下に申し立てることができる。正当な理由とは、相手の家の不行跡、本人が望まないこと、家の存続に関わることに限る。
最後の一行だけは、兄の言葉だった。
ウィラ、三回言ったら、ここへ取りに行け。
手紙から顔を上げると、辺境伯が私を見ていた。
「順番が逆になった。一回で言う」
辺境伯は、私の前に片膝をついた。
「ウィラ。私と結婚してほしい」
ジニーの泣き声が、ぴたりと止んだ。
「はい」
一回で、言えた。
「待ちなさい!」
父がジニーの肩から手を離して振り向いた。
「当主は私だ。私の同意なしに――」
「だから、王妃陛下に聞いていただく」
ダンカン様は立ち上がり、父の目を真っ直ぐに見た。父は何か言いかけて、口を閉じた。
その夜、私は申し立ての書面を書いた。父の「お前は聞き分けがいいから、わかるだろう」も、そのまま書いた。翌朝、ダンカン様の馬車が、それを王妃宮の取次の女官へ届けた。
数日して、王妃宮から迎えの馬車が来た。王妃陛下が謁見の間で、私と父の話をお聞きになるという。
* * *
王妃陛下の謁見の間は、思っていたより小さな部屋だった。窓から春の終わりの光が入り、壁際に女官たちが並んでいる。陛下の椅子の斜め後ろには、分厚い帳を抱えた紋章院の書記が控えていた。
迎えの馬車は、私だけを乗せた。申し立てた本人は、当主と別の馬車で呼ぶのが慣例なのだそうだ。父と母は家の馬車で来た。母の後ろには、ジニーがいた。一人で家に残るのは嫌だと泣いて、ついてきたらしい。
縁組の相手として呼ばれたダンカン様が、私の隣に立った。
「ペンローズ伯爵」
王妃陛下は、穏やかな声で父を呼んだ。
「ウィラ嬢とストラウド辺境伯の縁組に同意しない理由を、聞かせてちょうだい」
父は一礼した。
「ウィラは、聞き分けのいい娘です。家には、あの子が要ります。下の娘は手がかかりますので、ウィラがおりませんと」
「下の娘御の世話のために、上の娘御の縁組を止める、と」
「……家の事情でございます」
「そう」
陛下は、膝の上で指を組み直した。
「わたくしは、春の舞踏会の夜、壇の上から見ておりました。一曲目の前、ウィラ嬢はあなたのそばで三度、口を開きましたね。あなたは一度も振り向かずに、下の娘御の手を取って、広間の真ん中へ歩いて行った」
父の顔から、血の気が引いた。
陛下は、全部見ていらしたのだ。
「ウィラは、手のかからない子なのです」
母が、たまりかねたように口を挟んだ。
「昔から、何も欲しがらない子で。ですから、ジニーを先に――」
「伯爵夫人」
陛下は、母のほうへ顔を向けた。
「手がかからないのではなく、手をかけてこなかったのでしょう」
謁見の間が静まり返った。女官の一人が目を伏せた。母は口を開けたまま、何も言えなかった。
「もう一つ」
陛下は、書記を振り返った。
「縁組には、婚資の預けが関わります。紋章院の帳を持たせました。読みなさい」
書記が帳を開いた。
「先代ペンローズ伯爵夫人イモジェン様より、金貨三百枚のお預かり。使い道は『孫娘ウィラの婚資として』」
私は息を止めた。祖母が、そんなものを遺してくれていたとは知らなかった。
「お引き出しがございます。いずれも当主ペンローズ伯爵のご署名です。ポニーの代金、辞めた家庭教師たちへの謝礼と違約の金、東方の磁器の壺の弁償、今年の春の衣装の代金。合わせて、金貨百二十枚」
私は、読み上げられたものを順に思い返した。ポニーは、ジニーが乗って落ちて、腕を折ったあの子だ。家庭教師は、ジニーが追い出した先生たち。東方の壺は、ジニーがよその家のお茶会で割った。衣装は、ジニーがこの春に作らせたドレスだろう。
私の結婚のための金が、そのたびに、ジニーのほうへ回っていた。
「家のためでした」
父の声は、かすれていた。
「遺言に背く引き出しです」
陛下の声は、少しも高くならなかった。
「婚礼までに、全額を戻しなさい」
それから陛下は、初めて私のほうへ顔を向けた。
「ウィラ嬢。あなたの申し立ては読みました。けれど、あなたの口から聞いておきたいの。あなたは、何が欲しいの」
何が欲しいのか、と誰かに聞かれたのは、祖母が亡くなってから初めてだった。
私は、一回で言った。
「ストラウド辺境伯様と結婚して、北へ行きたいです」
陛下は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「一回で言えるのね。結構です。ウィラ嬢の縁組への同意は、わたくしの名で代えます。ストラウド辺境伯、異存はありますか」
「ありません。陛下に感謝いたします」
ダンカン様が頭を下げた。私も膝を折った。
そのとき、ジニーが泣き出した。
「嫌よ! お姉様がいなくなったら、誰が私の謝りの手紙を書くの! 誰が先生に謝りに行くの!」
女官たちが、そろってジニーを見た。母がジニーの肩を抱き、それから私を見た。
(一回目)
「ウィラ、帰ってきて。ジニーが手に負えないの」
(二回目)
「ウィラ、家に戻りなさい。話はそれからだ」
父が言った。
(三回目)
「お願い、ウィラ。帰ってきて」
母が、もう一度言った。
私は顔を上げた。
「三回、伺いました。三回とも、ちゃんと聞きました」
母が、ほっとしたように息をついた。
「お断りします」
母の息が、途中で止まった。
「お父様もお母様も、聞き分けのいい方ですから。わかってくださいますね」
父も母も、何も言わなかった。ジニーだけが、しゃくりあげていた。
王妃陛下が、小さく咳払いをなさった。
「ジニー嬢」
ジニーが、びくりと顔を上げた。
「秋から、王都の女学院の寄宿舎にお入りなさい。わたくしから口を利いておきます。自分の身の回りのことを、自分でするところから習うといいわ」
* * *
父は夏至の前に、引き出した金を紋章院へ戻した。王都の東の小さな別邸と、ジニーのポニーを手放したそうだ。
グウェンが王都の侍女仲間からの手紙で聞いてきたところでは、ジニーには、その季節、踊りの相手がつかなかったという。舞踏会の夜、姉の菫を床に引きずって踊った妹と、三度呼ばれて振り向かなかった父の話は、あの広間にいた人の数だけ広まっていたらしい。ジニーは秋から、女学院の寄宿舎に入る。
発つ前に、マダム・ロシェの店に寄った。婚礼の衣装をお願いすると、マダムは巻き尺を首から外して言った。
「お嬢様のドレスを縫うのは、これで四度目になりますね。今度は、喜んで」
二年前の白は、北で着る普段着に仕立て直してもらうことにした。一度も袖を通さなかったドレスは、北でなら毎日着られる。
私はグウェンを連れて北へ来た。婚礼は夏至の後で、それまではダンカン様の叔母様の屋敷にお世話になっている。
兄は、北の館で私を出迎えてくれた。両親には「ウィラの分の手を、今度はご自分でかけてください」と書いて送ったという。私には、着いた日の晩に一言だけ言った。
「よく、三回で済ませたな」
北の辺境伯領の館の庭からは、雪の消えた峠が見える。夏の手前でも、風はまだ少し冷たい。
ダンカン様と庭を歩いていて、私はふと足を止めた。言いたいことがあった。口を開きかけて、いつもの癖で、心の中で数え始める。
(一回目――)
「一回でいい」
ダンカン様が言った。私の顔を見ただけで、分かったらしい。
「ここは北だ。一回で言えば、一回で聞く」
私は少しだけ迷ってから、一回で言った。
「手を、つないでいただけますか」
ダンカン様は、返事の代わりに私の手を取った。大きくて、温かい手だった。指を絡めると、ダンカン様は峠のほうを見たまま言った。
「君は、手がかかるな」
生まれてから聞いたどの言葉よりも、嬉しそうな声だった。
お読みいただきありがとうございます。北での二人の続きも、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援していただけると嬉しいです。




