楽しい触手ライフ
政略結婚した夫がある日突然触手になった
立派な触手だ
例えるならタコかイカ
他の触手は知らないけど
さぞや本人も憔悴しているだろう
触手だからわからないけど多分
ゆらゆらと揺れる触手
人間だったときは、こんな落ち着きのない人ではなかった
不安で仕方ないのだろう
私も不安だ
明日からどうすればいいの、これ
とりあえず夫の職場に欠席の連絡をしないと
義両親にも連絡をして……
もしかしたら家系の病気とかで何か知っているかもしれない
いや、触手になる病気って何よ
呪いと言われた方がまだわかるわ
そもそもこんな難病持ちなら、夫有責の離婚理由になるわね
もうそれでいいかな
幸い子供もいないし
元から仲良くもないし
インドア派とアウトドア派、悲観主義者と楽観主義者、性格が全くあわないのよね
閨は週に一度、連れ立つのは社交のみ、ビジネス夫婦の見本だった
ところで、夫有責で離婚しようにも義両親がこの触手を息子ではないと言い張ったらどうすればいいのかしらね
ゆらゆら
ゆらゆ~ら
ゆ~らゆら
必死で目をそらしてきたけど、もう無理
絶対踊ってるわ、この触手
いや夫だった、いいか触手で
まったく、もう
「踊ってるんじゃないわよ!」
ぴたっと止まって振り返る触手
振り返ってるのよね?
どこが頭なのかわからないけど
「止まれるんじゃないの!」
あの超アウトドア系楽天家が触手になったくらいで不安がるわけなかったわ
そういうところがあわないのよね
心配するだけ無駄だった
突然触手になったら慌てなさいよ
ああ、本人にとっては慌てることではないのかしら?
「これはどういうことかしら? あなたの家系の持病なの?」
隠して結婚したなら、そちらの有責で離婚よ、離婚
子どもがいなくてよかった
触手になる遺伝病とか百年の恋も冷めるわ
恋してないけど
うにょうにょうにょうにょ
さっきと違う感じに動き出したわ
なんだろう、これ
足?が巻いたり曲がったり
「触手で文字を再現しようとしないで、わかりにくいわ!」
人文字ならぬ触手文字
意志の疎通はできるのね
このまま見せ物小屋に売り飛ばしてもいいかしら
失踪宣告は7年か
遺伝病なら義両親も知っているはずだから見せ物小屋はまずいわね
かりかりかり
「ペンを握って文字が書けるなら初めからそうしなさいよ」
『じびょうではない』
漢字は難しいのね
アウトドア派のくせに流麗な文字を書く人だったのに
文字も幼児のように大きいし、触手の限界かしら
「では原因に心当たりは? どこかの女性に手を出して報復されたとか、山でいわくつきの木を切り倒して呪われたとか」
かりかりかり
『ありえない』
「残念ね」
超楽天家なだけで嘘をつく人ではないものね、信じるわ
かりかり
『ぎゃく』
「何が逆なの?」
かりかり
『きみがとつぜんへんしんした』
「黄身が突然変身した?」
なんの暗号かしら?
それとも卵の黄身を食べたら呪いにかかった?
とんとん
しまった、誰か来たわ!
とりあえず触手を隠さなくては
家系の持病ではないのなら、使用人にも化物に見えるはず
離婚も成立していないのに騒ぎは避けたいわ
「嫌がってる場合なの? 早くベッドの下に隠れて」
いやね、触手を押し込んだ手がぬるぬるする
「どうぞ、入って」
がちゃ
「失礼します……ぎゃああああああ! 怪物が! 誰か!」
もうばれた!
って、使用人も触手だった!
どういうこと!
どこから声出してたの
夫は話せないのに
夫よりも使用人のほうが格上の触手なの?!
ありえない
そこは主人を立てなさいよ
物々しい音が響いて、抜き身の剣を持った触手たちがドアに殺到した
悪魔崇拝のミサなのこれ?
そのまま自分たちを切り身にしなさいよ
『まて』
「旦那様、危険です! 早くこちらへ! 奥様は?」
『わたしのつまにてをだすな』
まさか、触手に庇われるとは
いつ書いたのよ、それ
ベッドの下で書いてたの?
「まさかその化物が奥様だと! なんということでしょう」
「呪われているのか、奥様の家系は」
「こんな呪いを隠して嫁がせるなど!」
触手に呪われているとか言われたくないんですけど
まとめて刺身にするわよ、食べないけど
『にわのごしんぼくになにかしなかったか?』
「二羽のゴシンボク? 知らないわ」
黄身つながりなの? ゴシンボクなんて鳥は聞いた事もないわ
私はインドア派なのよ
今日した事と言えば、庭の枯れ木に暖炉の灰を撒いたくらいよ
運が良ければこれで元気になるはず
「それだ!」
どれよ?
「枯れ木ではなくて、それがご神木だ」
枯れ木ではなかったの?
ご神木ってまさかこれは罰が当たったの?
悪い事なんてしてないのに
「おそらく、ご神木様はお礼のつもりなんだろうと思う」
お礼が一同総触手化なんて斬新すぎるわ
家中みんな触手なんて、これからどうやって生きていけばいいのよ
「私たちが変身したのではなく、君が変身したんだよ」
さっきからおかしいと思っていたけど、気のせいじゃないわ!
「あなた、私の思考を読んでるわね!」
「今そこ?」
「だいたいどうして急に話せるようになったのよ?」
「普通に話していたけど、君には聞こえていなかったようだから筆談にした。今は聞こえているね。触手は話せないという君の思い込みが、ドア越しの使用人の声にまでは通用しなかったのかな?」
「そうだとしても、思考が読めるのは?」
「夫婦なんだから当たり前じゃないか」
当たり前?
夫婦だからと思考が読めるなら行き違いも起こらないから夫婦不和がなくなりそうね
あ、浮気も筒抜けだわ
修羅場が加速するわね
「浮気とかありえないからね。それと、君も私の思考が読めるはずだよ」
何を言ってるのよ
他人の頭の中なんて読めたら、相手の嫌な部分だって筒抜けじゃないの
知りたくないことだって、知らなければ幸せだったことだって、全部知ってしまうわ
「だから化物になってでも逃げたかったのかい? 私の第二夫人なんて君の勘違いだよ」
「嘘よ、あなたが考えていたのよ、第二夫人候補を集めるって」
「父のだよ」
「そうよ、お義父様の! ……お義父様の第二夫人?」
「昨年、母を亡くしてからすっかり塞ぎこんでしまったからね。母が亡くなっているから正確には第二夫人でもないのだけど、父の心情を考えるとね」
「よさそうな方がいらっしゃるの?」
「母の友人で未亡人の方を第一に考えてはいるが、他にも年若い未亡人なども候補に考えている。後見人の必要な人を支えるためにと奮起してくれるかもしれないし」
「第二夫人よりは後見人のほうがお義父様には受け入れやすいと思うわ」
「私もそう思うよ。でも世間は男性が女性を後見することを下心なしとは見てくれないし、形だけでも第二夫人のほうが女性にとってはいいこともあるからね」
「それは確かにそうね」
なんだ、あなたの第二夫人ではなかったのね
「第二夫人候補を集めるお茶会」と読んだ時点で逃げ出してしまったから、勘違いしていたわ
その後は景気づけに庭に灰を撒いていたし
「気づいてる? 君、元の姿に戻ってるよ」
!!
このハシバミ色のほっそりとした触手、私だわ!
あなたの考えていることもわかるわ
「それは良かった」
愛してるよ
知ってる
けどもっと考えて
足りないわ
空気を読んだ使用人たちは静かに退出した。
たぶん最初で最後のラブコメ




