町が買えるほど高価な私の似顔絵をぽんぽん置いて行かないで
今日もあの有名なピンテ画伯がうちの宿屋にやってくる。
この何もない辺境の地には宿屋が少なく、必然的に彼を泊めるのは私の役目となるけど……。
彼が来るたび私は頭を抱えるハメになる。
なぜなら彼が毎回「宿代がわり」と称して、私――ケイティの似顔絵を置いていくからだ。
◇
初めて彼がこの辺境の地にやってきた時、町中はお祭り騒ぎになった。
「あの宮廷で有名なピンテ画伯!?」
「行商の息子から成り上がった巨匠が……。田舎で風景画でも描きたいのか?」
しかし悲しいかな、この町は田舎すぎてまともな宿がない。必然的に白羽の矢が立ったのは私が切り盛りしている宿だった。
「ケイティちゃん、くれぐれも丁重にもてなしてくれよ?」
にこやかに私の肩を叩く町長の目は一ミリも笑っていなかった。
無理もない。
何せ相手は宮廷御用達の有名画伯。
少しでも機嫌を損ねれば町長の首など軽くすっ飛ぶ権力者なのだ。
「よろしくお願いします!」
そう言ってハキハキと挨拶をしてくれたのはお弟子さんたち。
宿での細々としたやり取りはすべて彼らが引き受けてくれた。
画伯本人と話さなくて済むのはこちらとしてもありがたい。滞在中もこれといった問題は起きず、平和に終わるはずだった。
――そう、終わるはずだったのだ。
画伯が数日滞在し、いよいよ迎えた最終日。
無事にお帰りいただけることに密かに胸をなでおろしていた時のこと。
今まで一言も会話を交わさなかった画伯本人がふらりと私の前にやってきた。
最後のお礼でも言ってくれるのかしら?
私がそう呑気に構えていると、ピンテ画伯はおもむろに荷物から一枚の絵を取り出してスッと私に差し出してきた。
見ればそこにはキラキラと輝くような美女がにこやかに微笑む美しい肖像画が。
さすがは天才画伯。ただの絵だというのに、えも言わぬ気迫に満ちている。
「何これ?」
私の口から思わずそんな言葉が出る。ピンテ画伯は少し俯きがちにぼそりと言った。
「……宿代の代わりだ」
……宿代ならすでにお弟子さんから気前よく前払いで頂いているけれど。
無下に断って機嫌を損ねるのも怖いので、私はありがたく受け取ることにした。
背を向けて宿を出ていく一行の背中を見送ってから改めて手元の絵を見下ろす。
……あれ?
この絶世の美女、どこかで見覚えのある服を着ている。
あ、これ私が昨日着ていた服だ。
もしかしてこれ、私の似顔絵のつもりだったの!?
「ふふっ……」
あまりの美化っぷりに思わず笑みがこぼれる。
お弟子さんたちは礼儀正しく金払いも良い。
画伯も無口ながら最後に似顔絵をプレゼントしてくれた。
なんだかんだ、悪い人たちじゃなかったわね。
「いやぁ、丁重なおもてなしをしてくれてありがとう!」
画伯一行と入れ違うように満面の笑みを浮かべた町長が宿に飛び込んできた。
「画伯は大層この町を気に入って、また来てくださるそうだ!君のおかげだよ!」
上機嫌の町長は私の肩をバシバシと遠慮なく叩いてくる。
ふと、町長の視線が私の手元にある絵でピタリと止まった。
「ふぁあっ!?」
突然、蛙が潰れたような奇声を発する町長。
「その絵は…!」
「これですか?なんか宿代の代わりにって画伯が置いていったんです」
「か、かかか寡作の美人画家と呼ばれるピンテ画伯の真筆!?」
町長はガクガクと震える手で私から絵を取り上げると、血走った目で高らかに宣言した。
「よし決めた!この絵は町の共同財産として町役場に飾ろう!」
「はぁ?ふざけてんの!?」
私が思わず叫ぶと、町長も負けじと叫び返してくる。
「大まじめに決まってる!この絵は下手をすればこの町ごと買い取れるほどのお宝なんだぞ!?」
私は息を飲んだ。
まさか私の美化似顔絵にそこまでの価値があったとは……!
「ケイティちゃん、こんな絵を宿に飾ってみなさい。明日には強盗団が押し寄せてくるぞ!?」
「そ、それは……嫌ですけど!」
そんな恐ろしい絵は絶対に宿に置きたくない!
それに何より、自分が超絶美人に描かれた似顔絵を自分の宿に飾るなんて。
どこのナルシストよ!
絶対に嫌!
「では決まりだ。これは町の共有財産とする!」
こうして宿代わりにもらった私の似顔絵はあっさりと町長の手に渡り……。
「せっかくなら町起こしの名物にしよう!」
という町長の鶴の一声によって特注の額縁に入れられ、あろうことか町役場の特設スペースにでかでかと飾られることになってしまった。
――なんでそうなるのよ!恥ずかしくて役場に行けないじゃない!
◇
それから一月ほど過ぎた頃だろうか。
なぜかまたピンテ画伯が弟子たちを引き連れてこの田舎町にやってきた。
「今回もお世話になります!」
相変わらず礼儀正しいお弟子さんたちと、その後ろで機嫌良さそうに微笑む画伯。
一体この何もない田舎の何が彼を惹きつけるのか、私にはさっぱり分からないけれど。
「ピンテ画伯、先日は素敵な似顔絵をありがとうございました」
私が何気なくお礼を言うと、画伯はにへらっと笑った。
――あ、しまった!
もしこれで「また描いてやろう」なんて気分にさせたら私の美化されすぎた絵がさらに町役場に増殖するという恐ろしい事態になりかねない!
とはいえ「もう私の絵は描かないでください」なんて、宮廷御用達の巨匠に向かって言えない。
ならば私以外のものを描くように上手く誘導するしかない。
「そういえば、ここから数分歩いた場所に素敵なお花畑があるんですよ!ぜひそちらの風景を絵になさってはいかがですか?」
そう言って水を向けると、お弟子さんたちが「いいですね先生!」「たまには風景画も!」とノリノリで画伯を連れ出してくれた。
よしよし、我ながら完璧な誘導だ。
これでもし絵を置いていくとしても、絶対に花畑の風景画になるはず。
私はホッと胸を撫で下ろした。
迎えた出立の朝。
画伯はまたしてもおもむろに一枚の絵を私に手渡してきた。
恐る恐る覗き込むと、一面の花畑の中で美しく微笑む私の姿がそこにあった。
「……え、ふざけてんの?」
思わず素の声が口からこぼれ落ちた。
なんで私がセットになってるのよ!
ただでさえ美化されていた私が花畑の圧倒的なきらめき効果によってオーラまで放っている。
こんなもの恥ずかしくて直視できない!
私がワナワナと震えていると、画伯はにへらっと笑ってさっさと宿の出口へ向かってしまった。
――え、何?これって遠回しな嫌がらせ!?
バカにしてぇ!絶対に許さないんだから!
私は画伯の姿が見えなくなるや否や、この恥ずかしすぎる絵をバリビリに破り捨ててやろうと力を込めた。
その時。
「――ケイティちゃん、一体何をしているのかな??」
ビクッ!!
突然背後から肩を掴まれ、私は心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。
恐る恐る振り返るとそこにはにっこり笑う町長が立っていた。
「いや、これはその……」
しどろもどろになる私の手から町長は素早く絵をひったくった。
「素晴らしい!前作を超える傑作だ!これでさらに観光客を呼べるぞ!」
「あぁっ……やめてぇ……!」
私の悲痛な叫びも虚しく町長は絵を抱えたままスキップで役場へと消えていった。
かくして、またしても特注の額縁に入れられた私の似顔絵は寝ずの番までつけられて、役場の特設ギャラリーに飾られることとなった。
自分の顔がキラキラに描かれて町の名所になるなんて。
恥ずかしくて生きていけない!どうしてこうなるの……。
◇
それから数週間後。
またしてもピンテ画伯一行がやってくるという知らせが届いた。
……本当にこの田舎の何がそんなに気に入ったのよ!?
「ケイティちゃん。今回も『丁重に』おもてなしを頼むよ。……分かるね?」
ニコニコと笑う町長の目は完全に次の獲物を狙うハンターのそれだった。
「は、はい……」
ここまで圧をかけられては「もう絵は結構です」とは言いづらい。
しかし私にはまだとっておきの秘策があった。
彼らに絵を描く気力すら起こさせない究極の『おもてなし』をしてやるのだ!
「毎度お世話になりますー!」
やってきた元気なお弟子さんたちに私は満面の笑みで応えた。
「長旅でお疲れでしょう?まずは温かいお食事をどうぞ!」
そして喜び勇んで食堂にやってきた彼らの前に私はこれでもかと料理を並べ立てた。
山盛りのパン!バターを限界まで吸い込んだ芋のグラタン!そして蜂蜜たっぷり焼き菓子!
炭水化物、炭水化物、炭水化物の波状攻撃である!
圧倒されて目を丸くする彼らに私はにっこりと微笑んだ。
「張り切って作りすぎちゃいましてー」
名付けて『炭水化物ですやすや気絶大作戦』!
これだけの糖質を摂取すれば必ず強烈な睡魔に襲われるはず。気絶するように眠りこければ絵筆を握る気力など湧くわけがないのだ!
「残すのはマナー違反ですからね!」
私が圧をかけると、彼らは必死に山盛りの料理を胃に詰め込んだ。
結果「もう一歩も動けません……」と腹をさすって机に突っ伏した。
――ふふっ、作戦勝ちね。
私は厨房の陰で勝ち誇った笑みを浮かべたのだった。
それから数日間、私は朝昼晩と容赦なく炭水化物爆弾を投下し続けた。
お弟子さんたちが「なんだかズボンのホックが……」と言い始めた出立の日。
画伯はまたしても私におもむろに一枚の絵を差し出してきたのだ。
――え、まじで!?一体いつの間に描いてたの!?
そこに描かれていたのは作戦成功を確信してニチャアと笑っていたはずの私が、まるで慈愛に満ちた聖女のように神々しく昇華された姿だった!
「あ、ありがとうございます……」
私が顔を引きつらせていると、画伯は相変わらずにへらっとした笑顔で背を向けてしまった。
「ふはははは!でかしたぞケイティちゃん!」
その瞬間、一体どこに潜んでいたのか町長が飛び出してきて私の手から聖女の絵をひったくった!
そしてそのまま歓喜の小躍りをしながら町役場へと走り去ってしまったのだ。
――なんでいつもこうなるのよ……!
◇
しかし、町役場の特設スペースに並んだ三枚の絵をまじまじと見つめて、私はふと気がついた。
花畑の絵をもらった時は「絶対に私をからかっている!」と頭に血が上ったけれど。
――どうやら、そういうわけではないらしい、と。
キャンバスに描かれた私はどれも柔らかく感じの良い表情を浮かべている。
画伯の圧倒的な技量も相まって、モデルが自分だというのに思わず見惚れてしまうほどだ。
「……あれ、こんなところにホクロがあったかしら?」
自分自身すら気づいていなかった顔の些細な特徴まで彼は正確に、そして丁寧に描き出している。
それにずっとコンプレックスだったそばかす。それすらも絵の中の私を最高に愛らしく彩る『魅力的なパーツ』として絶妙な色合いで描き込まれていた。
……まるで魔法みたいだなぁ。
この絵には悪意なんて欠片もない。
彼がどれほど真摯な目で私を描いてくれたのかが痛いほど伝わってきた。
そして絵の力は周囲の状況まで一変させた。
なんと画伯の新作を一目見ようと遠方からわざわざ貴族や豪商が押し寄せるようになったのだ。
……町長の『町おこし作戦』が見事に大成功してしまったのだ。……死ぬほど恥ずかしいけれど!
当然、身分の高い彼らやそのお付きの者たちが泊まるのは町で唯一であるうちの宿だ。
皆こぞって気前よくお金を落としてくれるおかげで宿の経営は好転し、町全体も嘘のように活気付いていった。
「ケイティちゃんは町の女神だね!」
なんて最近では町の人たちまで拝むような目で私を見てくるようになった。
恥ずかしいけど町が潤うのは素直に嬉しい。
……いや、やっぱり自分の顔が名所になってるのは死ぬほど恥ずかしいわよ!
一方、当のピンテ画伯一行はといえば相変わらず数週間に一度というハイペースでこの宿へ来ていた。
そして出立のたびに感謝のしるしのように新しい似顔絵を置いていく。
本当に、この田舎の何がそこまで彼を惹きつけるのだろうか?
気づけば町役場のギャラリーに飾られた私の絵は十枚の大台に乗っていた。
「いつもありがとうございます」と素直に受け取ると、画伯は今日もにへらっと笑う。
その気の抜けた笑顔が、最近なんだか少し癖になり始めている自分がいた。
「ここに来るようになってから先生の筆の乗りが尋常じゃないんですよ!」
お弟子さんたちはホクホク顔でそう教えてくれた。
こんな辺境のどこにインスピレーションを刺激する要素があるのかは謎だが……。彼が楽しく絵を描けているのなら素晴らしいことだ。
そして迎えた十一回目の滞在の最終日。
相変わらず私の似顔絵を差し出してくる彼に私はふと疑問を抱いて口を開いた。
「ねえ、画伯。あなたはご自身の絵を描かれたりしないのですか?」
無口な彼への、本当に何気ない問いかけだった。
「自画像ですか?そういえば見たことがありませんね」
横にいたお弟子さんが目を丸くする。
すると画伯は小さく首を振り「……今まで、描いたことがないんだ」と珍しく自らの口で答えた。
「これだけ美しい絵を描かれるのですもの。せっかくなら、ご自身の姿もキャンバスに残してみたら素敵だと思いますよ?」
私が微笑みかけると画伯はハッとしたように目を見張り、やがて子供のように無邪気な満面の笑みを浮かべた。
いつもの『にへらっ』とした顔ではない、心の底から喜んでいるような眩しい笑顔だった。
いつも無口で少し陰気な人だと思っていたけれど――今の笑顔に私は思わず「なんだかかわいいかも」と思ってしまった。
――しかし。
あんなに素敵な笑顔を見せてくれたその日を境に、画伯一行はぱったりとこの町へ姿を見せなくなってしまった。
◇
数週間に一度は必ずやって来ていた。
それが急に途絶えれば「道中、崖から落ちたのでは!?」などと余計な心配をしてしまうのも無理はない。
しかし冷静になって考えてみれば私がそこまで彼を案じる理由がどこにあるというのだろう。
ただの宿屋の女将と客。それ以上でも以下でもないというのに。
「……この何もない田舎に飽きちゃったのかしら」
よくよく考えれば当然だ。
宮廷で名を馳せる天才画伯の興味を引くような娯楽などこの町には砂粒ほども存在しないのだから。
……頭では分かっているのだけれど。
あの絵から溢れるほど伝わってきた私への不器用で温かな好意。
それが前触れもなくふっつりと途絶えてしまったようで――私の胸の奥にはもやもやがずっと居座っていた。
気づけば私は宿の仕事の合間や買い出しの寄り道にかこつけて、町役場へ足を運ぶようになった。
あんなに恥ずかしがっていた自分の似顔絵を毎日こっそりと眺めるのが、いつしか私の秘密の日課になってしまったのだ。
そんな悶々とした日々を送っていたある日のこと。
宿に立ち寄った行商人から私は耳を疑うようなとんでもない噂を聞かされた。
『ピンテ画伯が都で展覧会を開くらしい!目玉となる展示作品は――「辺境の少女シリーズ」だそうだ!』
「――ふざけてんの?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
辺境の少女って、まさか、私?
ということは、これでもかと美化された私の顔が都の貴族たちに見世物にされているということ!?
頭に血が上る音がした。
文句を言ってやる!
いくら画伯だろうとそれは許されない!
さすがの私も今回ばかりは黙っていられないわ!
もやもやとした感情を一気に爆発させた私は弾かれたように旅支度を整えた。
「いってらっしゃい!宿は任せて!画伯に会えたら町おこし用の新作を……」
欲望にまみれた町長の声など右から左へ受け流し、私は都へ向かう馬車へと飛び乗ったのである。
馬車に揺られること数週間。
都は私たちの田舎町とは比べ物にならないほど人がいた。
圧倒的な人混みに酔いながら私の頭は急激に冷え始めていた。
――よく考えたらただの田舎娘が天才画伯の展覧会に押しかけたところで、門前払いされるのがオチではないだろうか?
「あ、ケイティさんじゃないですか!」
しかし会場の入り口でうろうろしていた私を見つけたお弟子さんの元気な声で、そんな不安はあっさりと吹き飛んだ。
「ちょうど良いところに!……いや、これは実際に見てもらった方が早いですね。どうぞどうぞ!」
なぜか目を輝かせたお弟子さんの手引きにより、私はまさかの『顔パス』でVIP待遇のまま会場へと案内されてしまった。
案内された展示会場に足を踏み入れると、そこは別世界だった。
すれ違うのは明らかに貴族や豪商といった身分の高そうな、金糸銀糸の服を着た人々ばかり。
ただの町娘の格好をした私は完全に浮きまくっている。
当然すれ違うセレブたちは一様に私を怪訝な目で見下ろしてくる。
しかし私の顔を数秒見つめた後「あっ……!」と何かを察したように目を見開き、そして納得したように頷いて絵の鑑賞に戻っていくのだ。
――なによその反応!意味が分からない!
恐る恐る壁に掛けられた絵を見上げて私は拍子抜けした。
そこに描かれていたのは私ではなく、十歳くらいの小さな少女だったのだ。
あれ?私じゃない?
ということは私の自意識過剰だっただけで、本当にただの「名もなき辺境の少女」をテーマにした展覧会だったということ?
でも、なんだろう。
この小さな女の子、どこかで見たことあるような……?
首を傾げながら順路を進むと、絵の中の少女は徐々に成長していく。次の絵は十二歳だろうか。無邪気に笑うその頬には見覚えのあるそばかすが散らばっていた。
――この子ってまさか……。
さらに次の絵では少女が少し大人びて髪型も変わり、今の私にぐっと近づいている。
そばかすの位置も小さなホクロも私自身と全く同じ場所に描かれている。
ドクリ、と。心臓が大きく跳ねた。
そして――順路の最後に神々しく飾られていた一枚は紛れもなく『今の私』の、満面の笑みを浮かべた似顔絵だった。
――えっ、ちょっと待って!これ全部やっぱり私なの!?
ていうか出会ってもいない小さな頃の私から成長記録みたいに描いてるってどういうこと!?
混乱する私に先ほどのお弟子さんがそっと歩み寄って耳元で囁いた。
「本当に良いタイミングで来てくれました。裏の工房へ来ていただけませんか?」
お弟子さんに案内され、私は展示会場の裏にある画伯の工房へと足を踏み入れた。
するとそこには――。
「先生、絶対伝わってませんって!今からでも直接言葉で伝えるためにあの町へ行きましょうよ!」
他のお弟子さんにズルズルと引きずられながら、巨大なキャンバスにセミのようにしがみついて全力で抵抗する、あのピンテ画伯の姿があった。
気づいた画伯が顔を上げ――私とバッチリ目が合った。
「「あ」」
画伯と彼を引きずっていたお弟子さんがまるで本物の幽霊でも見たように目を剥いてこちらを凝視する。
その奇妙な静寂の中、私を案内してくれたお弟子さんがやれやれとため息をついて言った。
「ほら、お迎えに行かずともご本人が来てくれましたよ先生」
いや本当にどういうことなの!?
◇
「それが聞くも涙、語るも涙の物語がありまして……」
お弟子さんのもったいぶった説明を要約すると、事の真相はこうだった。
ある日、行商の親に連れられて田舎町を訪れた平凡な少年が宿屋の娘に一目惚れをした。
以来、少年は寝ても覚めてもその可憐で美しい(と彼だけが信じて疑わない)町娘のことで頭がいっぱいになってしまったらしい。
極度の口下手だった彼は脳裏に焼き付いた彼女の姿をどうにかして絵に残そうと試みた。
溢れ出る衝動のままに「今はこれくらい成長しているはずだ」などと妄想を膨らませて十年間。
なんと彼女の絵を描きも描いたり数百枚!
そしてその異常な執念の産物がたまたま貴族の目に留まり、彼は宮廷御用達の『画伯』へと成り上がってしまった。
「先生は『ようやく彼女にふさわしい絵が描けるようになった』と、満を持してプロポーズをしにあの宿へ向かったのです」
「……え!?」
十年越しに再会した町娘は、彼の妄想をはるかに超えて可憐に育っていたらしい。
舞い上がった彼はあふれんばかりのインスピレーションをそのままキャンバスに叩きつけた!
そして情熱的なプロポーズの言葉の代わりに、渾身の似顔絵を彼女に手渡したのだが……。
『何これ?』
私が放ったその無慈悲な一言で、彼の繊細なガラスのハートは木っ端微塵に砕け散ったのだ!
『僕の画力が足りないせいで、彼女の本当の美しさを表現できていなかったんだ!だから彼女は怒ったんだ!』
彼はそう思った。
そして羞恥と絶望のあまり「宿代の代わりだ」などと訳の分からない捨て台詞を吐いて逃げるように宿を飛び出したという。
その後の彼は今度こそ彼女に認めてもらおうと命を削るように必死に筆を走らせ続けた。
そして彼女が「ありがとうございます!」と素直に絵を受け取るようになった、ある日のこと。
『これだけ美しい絵を描かれるのですもの。せっかくならご自身の姿もキャンバスに残してみたら素敵だと思いますよ?』
私のその何気ない一言を聞いて、彼は天にも昇る気持ちになったらしい。
『ついに彼女が僕の絵を認めてくれた!僕自身の姿をキャンバスに並べる許可が下りたんだ!』と。
そう確信した彼は今度こそ完璧なプロポーズを決めようと巨大なキャンバスに『私の隣に立つ自分の姿』を描き加えようとした。
……しかし。
「自分の顔が描けなくてスランプに陥ったのです」
最近になってようやく全部教えてくれたのです、とお弟子さんは語った。
真っ赤になってうつむく画伯の横で、お弟子さんが言う。
「……プロポーズの意図、少しは伝わっていましたか?」
「伝わってるわけないじゃない!!」
私は絶叫した。
いくら何でも、この男は無口の度を越しすぎている!
私は画伯が先ほどまでしがみついていたキャンバスを見上げた。
そこにはキラキラと光り輝く絶世の美女が描かれており――そのすぐ隣には一人分がすっぽり入る不自然な『空白』が残されていた。
「長年、絵の修行をしてきたんだから自分の顔くらい描けそうなものじゃない?」
私が呆れ半分で尋ねると画伯はモジモジしながら「……描いたことがないんだ」と蚊の鳴くような声で答えた。
「描いたことないって……画家なんだから、描こうと思えば自画像くらい描けるでしょう?」
「違うんだ」
「ん?」
「……僕は生まれてこの方、『君』以外の絵を一枚も描いたことがないんだ」
「「「……ええっ!?」」」
私だけでなく背後のお弟子さんたちまで一斉に悲鳴を上げた。大パニックである。
――この男の筋金入りの執念は、私やお弟子さんたちの想像など遥か彼方へと置き去りにしていったのだった。
◇
数十分後。
「動かないで!」
私は見よう見まねで絵筆を握りしめていた。
彼が自分では描けないというのなら私が彼の似顔絵を描いてやるしかない。
「できたわよ!」
勢いよく手渡したその絵は控えめに言っても上手くはなかった。……いや、正直に言おう。
赤子の落書きレベルのド下手くそだった!
だって仕方ないじゃない!
本格的な画材なんて触ったこともなかったんだから!
お弟子さんたちが「これはひどい……」と引きつった笑いを浮かべる中。
当の画伯本人はその落書きのような絵を壊れ物でも扱うかのように大事に胸に抱きしめ――いつものように、嬉しそうににへらっと笑ったのだ。
「……でもね、ピンテ画伯」
「?」
「どんなに素晴らしい絵を描けたとしても。声に出して言葉にしないと、絶対に伝わらないことだってあると思うんですよ」
そう言って私は一歩踏み出し、彼の頬を両手でそっと包み込んだ。
至近距離で視線が絡み合う。
彼の瞳が潤み、私の手のひらに触れた彼の頬がみるみるうちに熱を帯びていくのが分かった。
「ピンテ。私、あなたのことが好きよ」
「!?」
「十年間も一途に想い続けてくれた、不器用なあなたのことが好き。私自身よりも私のことを見つめて、あんなに素敵な絵に残してくれるあなたのことが、大好き」
私の顔も、今頃きっと彼と同じように真っ赤に茹で上がっていることだろう。
「……あなたはどうなの?」
答えなんて、あの絵を見て嫌というほど分かっている。
それでも私は彼の口から紡がれる言葉が欲しくて、真っ直ぐに見つめて問いかけた。
彼は耳まで真っ赤にして激しく視線を泳がせた。
そして――あろうことか、口を閉ざしたまま、隣が空白になっているあの巨大なキャンバスの上に、私が描いたド下手くそな似顔絵をそっと並べて重ねたのだ。
「――ふざけてんの?」
思わず、心の声が口を突いて出た。
本当にこの男は!
最後の最後の最後まで!
私はそんな、絵しか描けない男の唇に、宿代をつき返してやった。




