湯谷詩織という女
湯谷詩織は才女だった。
キャリアウーマンの母親のワンマン育児のもとでまっすぐに育ち、なかば預けるように入れられたピアノスクールで、その才覚を芽生えさせた。
詩織は絶対音感を持っていた。しかも和音まで聞き取れる天性の才だ。
詩織はピアノに居場所を定め、毎日指が痛くなるまで練習した。
幼い彼女にとって、ピアノの発表会やコンクールは、忙しい母親が自分のためだけに時間を作ってくれる、大切な時間だった。
彼女には向上心もあった。より良い音を、よりよい音楽を。そのひたむきな姿勢は、才能におぼれることなく努力する、求道者のようだった。
そしてある年のピアノコンクール。
詩織はこのコンクールの連覇を最後に飾り、新たな道へと進もうとしていた。
習い事が母の負担になっていることを察する年頃になったのだ。だから、最後に優勝をプレゼントして終わりにするつもりだった。
弾き始めは静かに、穏やかな水面に綺麗な波紋を立てるような繊細な演奏。
最高の出来栄えだった。引き終わった瞬間、彼女は勝利を確信した。
結果は2位だった。
最初は何かの間違いかと耳を疑った。
しかし、優勝トロフィーは自分ではなく、隣の少年の手にあった。
彼の演奏を聴くことはなく、己の修練に時間を費やした。
次こそ、次こそはと……
時間を捻出し、指にテーピングまでして、音楽を追求した。
自分に足りないものを埋めるかのように、まるで何かに迫られるように。
次のコンクールでは、今までにないほどの完成度で挑んだ。前回のコンクールとはうってかわり、激しいバラード。熱狂的な雰囲気で会場を埋め尽くした。
しかし結果は2位。またもや優勝トロフィーは、同じ少年のものとなった。
失意の中でも練習は怠らない。もはや呪いのように、彼女は練習にのめり込んでいた。
そんなある日、珍しく母親が詩織を外に誘った。ヴァイオリンのコンサートとやらに友人づてに招待されたらしい。
気分転換にはいいだろうとその誘いを受けた詩織は、会場でありえない人物を目にする。
ピアノコンクールでトロフィーを持っていった彼が、ヴァイオリン片手にステージに立っていた。
ありえない。自分はこんなにもピアノに一途なのに、あいつは片手間にやってたというの?
しかしその評価は、一瞬で覆った。
静かで厳かな弾き出しの協奏曲。
魂を直接掴まれたかのような恐怖感すら感じる。
曲はすぐに穏やかなパートへ。しかし最初のあの味を知ってしまった者たちは、安堵しきれない不安を抱えたまま落ち着かない時間を過ごす。
転調。嵐が迫ってくる。思わず逃げ出したくなる。しかしすぐに追いつかれそうになる。加速していく曲調が、聴衆を追い立てていく。
つかの間の晴れ間が場を支配する。
ようやく一息つけたのもつかの間、その晴れ間は消え入るようにか細くなっていく。
音が消える。
一瞬の休符が、場を完全なる静寂へと変えた。
再び歩き始める。そしてそれは再び追い立てられるように、追い立てるように、自分が獲物なのか捕食者なのかも定かではなくなっていく。そこにあるのは、風と一体となる存在感だった。
最高速の速さで、曲は終幕を迎える。
拍手は随分と遅れて聞こえてきた。まるで聴衆の誰もが、一時でも長く余韻に浸っていたいかのように。
ああ、だから私は負けたんだ。
詩織は、椅子から立てなくなっていた。1音1音に情緒をぐちゃぐちゃにかき乱され、今にも泣き出してしまいたいくらいだった。
それから詩織の生活は一変した。
今までどおりピアノの研鑽は怠らない。
しかし、練習を休む機会が増えた。
練習を休んで彼女は、彼のコンサートや発表会にこっそりと入るようになっていた。
そのたびに彼の演奏に情緒を狂わされ、泣きそうな顔をしながら帰っていた。
彼女は、彼の演奏に魅入られてしまったのだった。
♪♫♪
「詩織〜?ただいま〜」
「おかえり、母さん」
帰ってきた母親を迎えに、詩織は玄関に出てくる。
「ん、いい匂い。今日はカレーかしら」
「正解。すぐ温めるね」
「ありがとうね、詩織」
母親の帰りは遅い。異例の速度で昇進した裏側には、自分の時間という犠牲がつきものだった。
だから晩ごはんの用意は、専ら詩織の領分だった。
「はぁ、美味しそう。いただきまーす」
ジャケットを脱いだ母親は、すぐに食卓へと座った。すでにカレーライスとサラダが用意されており、冷たいルイボスティーがグラスに注がれている。
「ほんと、うちの娘はいつ嫁に出してもいいわね」
「ちょっと母さん、やめてよ。まだ私、高校生だよ」
「高校生なんてすぐよ?気を抜いてるとあっという間に過ぎ去っちゃうんだから」
もりもりと食べすすめる母親は、ふと部屋の隅に目をやった。
そこには、なけなしのスペースに置かれたキーボードがあった。詩織が毎日の練習に使っているものだ。
しかし今日は違った。電源が入っていない、つまりは詩織が今日練習をしていないということだった。
「詩織。学校で何かあったの?」
「え?なに、急に」
「ピアノ、いつもならまだ弾いてる時間じゃない」
ピタリと詩織の動きが止まり、目が泳ぐ。
まさに図星だった。
「あー、えっと。きょ、今日じつは吹奏楽部の体験入部にいってね?そこで満足いくまで弾けたからいいかなって」
「そう、ならいいんだけど」
母親は再び食べ始めた。
「なら吹奏楽部にはいるのね」
しばしの沈黙。母親は何か変なことを言ったかと詩織のほうを見る。
「詩織?」
「……らない」
「え?」
詩織はぐっと何かをこらえて、そして押し出すかのように言葉を紡いだ。
「吹奏楽部には入らない……と思う」
「……そう」
しばらくカチャカチャとスプーンが器に当たる音だけが響く。
「まあ私はどの部活に入ろうと止めはしないわ」
「母さん……」
「でもね、これだけは言わせて」
母親はじっと詩織の目を見つめる。その眼差しは真剣そのものだ。
「後悔だけはないようにしなさい。高校の部活は一瞬で終わるくせに、一生の思い出になるのよ」
「……わかってる」
「ならいいわ。ごちそうさま」
食事の後片付けをした詩織は、重い足取りで自室に戻る。
鞄からプリントを取り出す。入部届だ。
ペンを持ち、しばらく悩む。
カチカチと芯を出しては、机に押し付けて芯を戻す。
「……よし」
入部届の空白を埋めた。




