ミルカの森と、幸運を呼ぶ猫
美味しいバタークロワッサンとお粥でお腹が落ち着いた頃、布団の上でのんびりしていた。
窓から差し込む光はすっかり日差しを増し、部屋にはまだバターと麦の甘い香りが微かに漂っている。
そのとき、階段の方から軽やかな足音が近づいてくる。
「ユウマちゃん、おかわり要る?」
ミーナがバタークロワッサンを手に、にこにこ笑っている。
何もつけていないのに、どうしてこんなに美味しいんだろう……やばい、まだ食えるぞ。
「……じゃあ、あと一つだけ……」
「ふふ、どうぞ。いっぱい食べてね」
ミーナが布団の端をそっと直しながら、じっと俺の顔を見つめてくる。
その視線はどこか確認するような、でも温かい目だった。俺の心と体が本当に元気になっているのか、心配してくれているようだ。
背後から、ゆっくりとガランも上がってくる。
「食欲があるのは良いこと。元気になった証拠じゃの」
「はい……パンはいくら食べても飽きません!」
「ほっほっ。寝起きに涙を流しながらパンを食べる者など初めて見たが……ただの『パン愛』だったようで安心したわい」
「うっ……」
顔が熱くなる。思い出すだけで恥ずかしい。でも、しょうがないよな? あんな美味しいパン、久しぶりだったんだし。
「そういえば、ユウマちゃん」
ミーナが声のトーンを少しだけ落とした。
「……あなたは、どこから来たの?」
(やっぱり、聞かれるよな)
曖昧に首をかしげ、少しだけ間を置く。異世界から来たなんてそう簡単に言える話じゃない。
「……あまり覚えてないというか。気がついたら森の中で、出口を探してたら魔物に遭遇して……なんとか倒したくらいまでは覚えてるんですけど」
(転生してきたなんて、信じてもらえないだろうしな……)
「ふむ、やはりのう」
ガランが腕を組み、穏やかに頷いた。
「森の入口で倒れておったんじゃ。ちょうどわしが薬草摘みに出ていての。偶然通りかかってな。村に応援を呼んで連れてきたのじゃよ」
「草を抱えたまま倒れてたって……」
「うむ。発酵草を握っておった。あれはパン作りに欠かせぬ素材での」
(確か、魔物からパンの素材がドロップするんだったよな……)
「発酵草って、どんなふうに使うんですか?」
「おお、パンの話となると食いつきが良いのう」
ガランは口元を緩めた。
「発酵草はの、生地に練りこむとほんのり甘い香りが立つんじゃ。食感もふわっと柔らかくなる。村のパン屋でよく使われる基本的な素材なんじゃよ」
(……それ、絶対美味いやつだ)
「この村ではな、魔物からさまざまな素材が得られる。パンの材料はもちろん、鍛冶や薬にも使えるんじゃ」
「魔物から……材料を?」
「不思議じゃろう? 特にこの辺りでは、パンに使える素材を落とす魔物が多い。まるで誰かがそう仕組んだようにな」
(これも、「パンタニア」の世界設定の一部? 面白いな……。そして──)
「……もしかして、ここに来たのって、パン好きの神様の導きだったりかもしれません」
「ふふっ、ほんとにパンが好きなのね」
ミーナが微笑み、ふっと手を伸ばして俺の耳元に触れた。その指先は、やさしくて、くすぐったくて――どこか、実家の布団に顔をうずめた時の感じに似ていた。
「ユウマちゃん、この村には古い伝承があるの。『ミルカの森から現れた猫は、幸運をもたらす』って」
「幸運を……?」
「ただのおとぎ話よ。猫の獣人なんて、私は生まれて初めて見たわ」
ミーナはそう言いながら、嬉しそうに笑った。
「あなたが来てくれて、なんだか良いことが起こりそうな気がするの」
「ふむ、わしもそう思うのう」
(幸運をもたらす……? 俺はただの、ブラック企業で過労死した、しがない元社畜だぞ……? こんな俺が、誰かの幸運を呼ぶなんて……。でも、『パンの御使い』と言われれば、そうだと自信を持って断言できるんだけどねっ!……立候補も視野)
「伝承というのはの、誰かにとって希望になればそれでええ。真実かどうかは問題ではないのじゃ」
「はあ……そういうものですか」
「それに、ユウマちゃん」
ミーナがいたずらっぽく笑う。
「あなた、すっごく……愛らしいし?」
「えっ、あの、その……」
「ふふふ、ふわふわで、やわらかくて、耳も尻尾も……」
その瞬間、ミーナの手が伸びてきた。
「ちょ、ちょっと!?」
「うむ、モフりがいがあるのう」
ガランまで参戦してきた。
「話ズレてません!? 俺はモフモフ要員じゃないんですけど!!」
抵抗虚しく、耳をくしゅくしゅ、喉元をすーりすり、そしてふさふさの尻尾を優しく掴まれてふりふりと…………二人にたっぷり愛でられる羽目になった。
くすぐったさに身をよじるたびに、猫らしい低いゴロゴロ音が喉の奥から漏れる。
(おお! やっぱりゴロゴロ鳴るんだな……。でも……嫌じゃなかった……。誰かとこうして心を通わせるの、久しぶりだったからね)
◆
やがて、ガランがふと声をかけてきた。
「もしよければ、この後、村を案内しようと思ってのう。どうじゃ?」
(体力も戻ったし、ちょうどいいな。それに……)
村がどんな場所なのか、パン屋がどこにあるのか、確認したい。──猫的なナワバリ意識ってやつかもしれない。
「はい、お願いします!」
「村のみんなも会いたがっておるぞ」
「はい! 俺も挨拶したいですし!」
「よろしい。では、準備ができたら声をかけてくれ。あ、それと――言葉遣いはもっと砕けていいぞ。ミーナにもじゃ」
「うふふ。そうよ」
ミーナが頷きながら、手をわきわきさせている。
(……なんか怖いんだけど)
でも、楽にしていいって言われたなら――猫らしく、気ままにいこうかな。
「分かった! ガランさん、ミーナさん、よろしくね」
「おお、その方が自然じゃの」
「ふふ、その調子よ」
ふたりと話していると、不思議と心が軽くなる。自然と笑顔になってしまうんだよなあ。




