夢紡ぎミストブレッドを紡いで その十七
意識の海に、どこまでもどこまでも続く霧が渦巻いていた。
あの瞬間に触れた記憶の濁流――それは誰かの記憶であり、誰でもない何かの感情そのものだった。喜びや哀しみ、祈りにも似た断片たちが渦となって心をめぐる。いや、そんな言葉すらももどかしい。ただ、風のように漂うことばの欠片だった。
ユウマは荒れ狂う心を鎮めながら、ひとつずつ──記憶のかけらを手繰り寄せていく。その中で先ほど聞こえた詠唱が蘇る。香りが記憶を呼び覚ますように、鮮明に。
『ふたつの声が、綴りをなす』
『ことばは種となり、やがて風に解かれ、繭となる』
『いのちをむすぶ名は、やがてその身をむすぶもの』
――あの声は確か、ミミとロッコに似ているような? いや、それだけじゃない。もっと深く、遠くから届いたような響きだった。
ユウマはその声を思い返す。夢の中で聞いた、あの祈りのことば。あれは二人の声であり、重なり合う祈りだったのかもしれない──そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(そもそも、コイツは何者なんだ?)
風、霧、記憶、ことば──それらを編んで繭にする存在。これまでの試練の最中に得た素材も、すべてこの性質と呼応しているように思えた。
『白繭の風粉』『眠語の記録種』、そして……ミミとロッコのものらしき声が導き出した祝詞。どれもがコイツの本質に近づくための、細い細い糸口だとしたら?
祝詞の一節──
『ことばは種となり、やがて風に解かれ、繭となる』
これは明らかに目の前の存在を想起させる。霧のような羽毛に包まれ、舞い散る言葉の欠片。ユウマは「種」「繭」と小さく呟きながら、自分の中で風のように揺れる記憶の糸をもう一度手繰り寄せようとした。
――そうだ。
最初にリビの図書館で見た、古文書『香んちがいしないでよね』。
そこに記されていた名は、確かこう綴られていたはずだ。
──『Wisp Cocoon』
「Wisp」――霧のように淡く、風のように軽やかで。
「Cocoon」――繭、つまり殻に閉じこもった存在。
これは、まさしくウィスプの性質を表している呼称に過ぎないのだ。けれど、それだけではまだ足りない。この存在は、自分の本当の名を忘れ──深い霧の中でもがき苦しんでいるようにも思える。
この名もなき存在が求める真名は、さらに奥底に秘められているのだ。
「Wisp Cocoon」――その言葉の響きをもう一度胸の中でころころ転がしながら、ユウマはゆっくりと目を閉じた。
(風……繭……コクーンじゃない。いや、繭の中にあるもの。やがて羽ばたく、ことばの雛……)
意識の深層で、二つの単語が重なり合う。
──ん? 二つ?
…………待てよ。これは偶然じゃない。
でも、その前に時系列を整理しておこう。
この騒動の発端は、ミーナの体調不良から始まった。彼女は香りへの感受性が強すぎるあまり調子を崩してしまったのだろう──彼女自身も確かにそう分析していたはずだ。
つまり、ウィスプが直接的に試練を与えて苦しめたというより、副次的に影響が出てしまったと予想できる。一日で異常な香りに適応できていたしね。
次に、ミミが深い眠りから醒めないという異変。この出来事に巻き込まれていった双子の弟ロッコ。試練はユウマと双子たちとは別々であったが、最後に会ったときは──より一層ミミとロッコ、二人の絆が深まっているように思えた。
となると…………やはり、二つに関する言葉が突破口になり得るのか。
「doubleは安直すぎるか?……いや、dualはどうだろう? そういえば前世で辞書を引いたときに、仏語にdouleur(苦悩)という似た単語を見つけたことがあったな……響きがきれいで覚えてたんだ」
(いや、待て。単なる語呂合わせじゃないか? でも……)
ユウマは、自分の推理を疑う。
だが、胸の奥で何かが――確信めいたものが、うずいている。
さらに思考の糸をぐるぐる手繰り寄せていく。
「……まとめると、コイツはミミとロッコの双子に影響を及ぼし、その後俺と彼らを二つの道に送り込み、試練を課し苦悩させた。そして、基本素材と試練素材を、それぞれ二つずつ入手させた。それにも関わらず──」
ユウマはふと息を呑む。
「……自分の名前すら分からず、彷徨っている。苦悩してるのは、コイツ自身なんじゃないか」
そのとき、耳の奥で何かがささやいた気がした。
──『……リア』
微かな風が耳を撫でるように、その音が脳の奥深くに響いた。それは混濁した記憶の底から最も強烈に──最も切実に語りかけ続けていたような響きだった。
(そうだ、この声だ。そして『苦悩』を意味する言葉をかけ合わせれば……)
ユウマの脳裏で、散り散りだったピースが――風に吸い寄せられるようにひとつへ重なった。
──コイツの真名は
──『ウィスプリア・ドゥール』。
声ではなく『名』そのものが、ユウマの口を通じて世界に解き放たれた。
風が──揺れた。
霧がきらめき、『深層夢』が歓声をあげるように応えた。
その名が紡がれた瞬間、空間を覆っていた白き繭は、深遠なる黄金の光を放ち、数多の記憶片が歓喜するがごとく脈動を始めた。
それは、失われた物語が今、ふたたび息を吹き返した証。存在の輪郭を取り戻したその瞳には──遠い日の祈りにも似た、静かで確かな喜びの光が灯ったように見えた。
まるで、もつれにもつれた毛糸玉が、やっと一本の美しい糸として紡ぎ上げられたように。
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