夢紡ぎミストブレッドを紡いで その十六
霧はまだ晴れていない。
だが──ミミとロッコの周囲だけ、たおやかな風が渦を巻き始めていた。それは自然の風ではない。まるで二人の鼓動そのものが、大気に形を与えているかのような──そんな祈りの風だった。
「ロッコ……これって……」
「うん……わかるよ。『声』がよんでる」
二人の手のひらに、白く透き通る光が宿る。やがてその光は宙へと舞い上がり、一冊の書物の姿となって現れた。表紙は風を思わせる淡桃色に煌めき、綴られた言葉はまるで羽のように揺れている。
「「……マギブック?」」
声を重ねた瞬間、本の表面が脈打つように活動し、風が音を帯びる。
その音はまるで祝詞――万物を織りあげるような言葉の原型だった。
ミミが手を添える。ロッコが指先を滑らせる。
二人の声が重なり、溶けていく。
「「かぜに……とけることば……」」
あたたかな風が吹き抜ける
「私たちは、きっと……」
「ああ、僕たちは……」
「「祈るために生まれた」」
大地から風が立ち昇り、霧が螺旋を描き、二人の輪郭が光に溶けていく。
ハンナが差し出す羊皮紙に刻まれたある一節が、淡く光った。
「両の魂よ……風の名を名乗りなさい」
そのハンナの言葉と同時に、二人は深く息を吸い──
「「──《風香転身》」」
二人が唱えた瞬間、一瞬の静寂が村の広場を支配した。
まず──風が変わった。
それまでの穏やかな風ではなく、古い記憶を運ぶ神聖な風が巻き起こる。地面から光の筋が立ち上がり、二人の足元を包み込んだ。
そして──変容が始まった。
髪が風に舞い踊り、普段の衣服が光の粒子となって散っていく。そして風そのものが織り上げるように、白と碧の神秘的な装束が二人の体を包んでいく。
ミミの柔らかさも、ロッコの素朴さも、光と影のように重なり、ひとつの祈りを導き出す。
光が収束したとき──
そこに立っていたのは、もはや人の子ではなかった。
──風の化身とも呼ぶべき存在。
その姿にはミミの快活さとロッコの純真さの名残があったが、それを遥かに超越した何か──祈りそのものが形を成したような、神々しい存在がそこに在った。
「……彼らは、かんなぎ──『ミロニエラ』」
ハンナの声だけが、その静寂を切り裂くように響いた。
「我々と真理を綴りし者をつなげる、風の架け橋」
その言葉の意味をすぐに理解できた者はいなかった。
けれど、空気が変わったことだけは、全員がはっきりと分かった。
「ハンナ……? あんた、なんでそんな……」
戸惑う声にも、ハンナは凛とした静けさで応じる。
「運びましょう……ユウマを、ここへ」
村人たちに支えられ、ユウマが村の中央へ運ばれてくる。ガランとミーナの姿も、その後に続いた。
再び風が吹き抜けると、ミロニエラの体を中心に、淡い光の筋がゆらりと立ち上がった。
その光は文字でも紋様でもなく、心臓の鼓動がそのまま外へ漏れ出したような――律動そのものだった。とくん、とくん、と目には見えないはずの想いの脈動が、風にのって震える。
「《共鳴感受》──発動」
ミロニエラは瞳を閉じて、ユウマの頭に手をかざす。まぶたの奥に、彼の脳内の映像が流れ込んでくる。悲しみ、焦燥、そして希望――ウィスプ・コクーンの霧に囚われながらも、なお誰かを想い続ける、揺るぎない心がそこにはあった。
そっと、ユウマの手にそっと触れる。
「……ふわぁ~。肉球、ぷにぷに~。お手々、ふわふわだあ~」
小さな声が漏れた──それはミロニエラという存在のなかに、確かにミミとロッコがいることを示す証拠だった。
その声に、村人たちは少し安堵の表情を浮かべた。怒涛の展開の中で、ひとしずくの清涼感がもたらされたようだった。神聖と日常がほんの一瞬、やさしく重なり合った瞬間でもあった。
次の瞬間、ミロニエラの手元で、淡桃色のマギブックがふわりと浮かび上がる。表紙に触れるだけで風がそっと息づいた。羽根のような文字たちがひとつ、またひとつとページに灯る。
「……これは、祈りを綴るための本」
ミロニエラはそっと本を胸元に抱き、ゆっくりとページを開いた。
その仕草は、ミミでもロッコでもなく──まさしく『かんなぎ』としての振る舞い。
ページをめくる音が、風のように空気を震わせる。
「──《祝詞展開》」
その一言で、世界が息を呑んだ。
ページの文字が光となり、風に溶けて舞い上がっていく。ひとひら、ふたひら──やがて空一面に、文字を結ぶ祈りの星座が描かれる。
ミロニエラは本を抱えたまま、静かに目を閉じた。
そして――
風の書に記された祝詞を読み上げる。
ユウマを包むウィスプの霧を、夢の呪縛を、解きほぐすために。
◆
渦巻く記憶の奔流の中で、ユウマは意識を繋ぎ留めることすらできずにいた。
名前も時間も、肌に感じた風の温度すら意味を失い、ただ過去という時間軸が、断片的に――ときに鮮明に――彼の中を駆け抜けていく。
しかしそんな虚ろな闇の中に、微かな光のようなものが現れた。最初は、ただの幻かとすら思えた。それでも、その言葉は確かに届いてくる。遠く、風に乗るように――やさしく、だが凛とした響きを伴って。
『ふたつの声が紡ぎあい』
『ことばは種となりて、風のなかで解けゆく繭となる』
『いのちを結ぶ名は、やがてその身を結びしもの』
──それは祝詞だった。
しかもただの祝詞ではない。ユウマの心を包むように、荒れ狂っていた記憶の奔流が、不思議と穏やかに、ゆるやかな渦へと変わっていく。まるで嵐の海に差し込んだ一筋の月明かりのように――。
「…………これ、って…………」
言葉を発したのは何日ぶりだろうか。いや、何時間、何分、何秒の出来事かさえわからない。それでも確かに、彼の喉から音が出た。それだけで、少し世界が輪郭を取り戻した気がした。
ゆっくりと意識の靄が晴れていく中、ユウマは気付く。記憶の奔流は完全に消えたわけではない。だが、今この空間に残されているのは――とある名前に繋がる手がかりだけだった。
無数の断片。言葉のかけら。まるで、言葉遊びのように――何かを語ろうとしている。けれど、それは明らかに意図された構造だった。
「……やってくれるじゃん、ウィスプさんよォ……!」
口元が引きつる──だが、苦笑いではない。
ユウマの目に、徐々にいつもの光が戻っていく。じわじわと、指先の感覚が戻り、肉球の柔らかな感触を確かめた。
そして、次は感情が戻ってきた──安堵、困惑、そして、ほんの少しのムカつき。
「これで問題を解けって? 前も言ったが、問題作るセンスがないんだよ!……それに、机も紙もペンもなしで考えろって!?……IQ低めナメんなよ!!」
半ば叫ぶような文句を投げた瞬間、空間がふっと揺れた。
すると、風に舞う紙片たちがひとつに集まり、目の前に一枚の白紙が出現する。そして、その下に、木でできた質素な机と、インクの染みついた羽ペンが、カチリと音を立てて置かれた。
「おお……マジで要求が通ったんだが!?……あ、でも、この羽ペンは俺の手のサイズに合わないんですが……!?」
──またも図々しく宣うユウマ。
少しの沈黙の後、前世でよく見たタブレット端末らしきものが、無造作に投げられたフリスビーのように、荒々しくこちらに飛んできた。
「ッ!! ……うおっ! あぶな! ちょっと煽りすぎたか。でも、俺の肉球でも文字が書きやすいものを選んでくれたんだな……さんくす」
──これで、準備は整った。
ユウマは深く息を吸い込んだ。肉球を握りしめ、目の前のタブレットを見つめる。
(必ず、解いてやるぞ!)
──さあ、最後の謎解きを始めよう。
お読みいただきありがとうございます!
香章のクライマックスに向けて毎日更新に切り替えます!
時間は変わらず、お昼12時更新です。
引き続きよろしくお願いいたします。




