夢紡ぎミストブレッドを紡いで その十一
唐突に空間を引き裂かれ、先ほどまでミミがいた温かい気配が一瞬にして消え去った。空気はひどく澄み渡り、音を吸い込むように静かだった。
そこは、無限に続くような白い回廊だった。
視界のどこまで見渡しても、床も壁も天井も標本箱のように等間隔に並んだ無数のガラスケースで埋め尽くされている。だが、そのほとんどは空っぽで埃を被っていた。時折、ぼんやりとした光の粒がケースの中を漂う。
ユウマの足音は回廊に吸い込まれるように響かず、彼の思考だけが鮮明に浮かび上がる。まるでこの空間が、彼の内面をそのまま映し出しているかのようだった。
(ここは……一体、何なんだ?)
胸の奥で何かが軋む。長い間閉ざしていた扉を無理やりこじ開けられたような、そんな痛みにも似た感覚。
しかし、それ以上に強いのはミミを助けなければという想い。その一心で、得体の知れない不安を懸命に押し殺していた。
その時、ユウマの目の前に淡い光の文字がゆっくりと浮かび上がった。そして同時に空間のどこからともなく、静かで、しかし確固たる声が響き渡る。
『ようこそ。ここは深層夢。これは、汝の記憶を辿る試練だ。我の問いに正しく答えよ』
その声は、感情を持たない機械のように淡々としている。その響きには、逆らうことを許さない絶対的な力が込められている。──けれど、どこか懐かしい、甘い香りがユウマの猫ひげをこちょこちょと刺激してきていた。
『正しく答えれば、汝が求める道は開かれよう。だが、その道が開かれるのは、汝の隣に立つ者。そして、隣に立つ者が正しく答えれば、汝の道は開かれん。互いの答えが、互いを次へと導く』
ユウマはごくりと喉を鳴らす。
(つまり……ミミと俺、二人で協力しなきゃ進めないってことか)
『第一問』
光の文字が新たに浮かび上がる。
『パンという言葉の語源になった言語は?』
ユウマは目を見開いた。まさか、こんな問題が出るとは思わなかった。だが、パンは彼の専門分野だ──その口元にはにやりと笑みが浮かぶ。
(……俺の記憶に関するクイズなら、言語は地球のものだよな……それじゃあ)
「簡単だな!」
ユウマは即座に声を張り上げた。彼の顔には、この上ない自信がみなぎっている。
「ポルトガル語。pão (パン)だ!」
ユウマは得意げに続ける。
「日本に渡ってきた当時、甘くない堅焼きパンだったんだ。それをメロンパンや惣菜パンまで生み出す国にしたんだから、日本人の食の魅力を最大化する力ってすごいよな! そう思わない!? ねえ?」
誰に向けたのか分からない問いかけに、回廊はしんと沈黙していた。
しばらくして、彼の答えが正しかったことを示すように、ユウマの目の前に、淡い光の文字が輝いた。
『正解』
そして、ユウマのいる白い回廊の遥か奥から、「ゴゴゴォォ!」という鈍い音が微かに響いてきた。
「おお、正解!……って、あれ?」
ユウマは、自分の目の前にある次の扉に目をやった。しかし、そこには何の反応もない。開く気配すらない。
「もしかして、この音は……?」
ユウマは、先ほどの声の説明を思い出す。
『その道が開かれるのは、汝の隣に立つ者』
──ということは、やはり。
「正解してもこっちの扉が開かないってことは……ミミのいる空間の扉が開くってこと!?」
ユウマは戸惑いつつも、状況を察した。この試練は、互いの協力が必要になるのだと。ミミの無事を願いながら、彼は次なる動きを待った。
(俺は良いけど、ミミは一人で大丈夫かな……心配だ……)
◆
一方、ミミのいる空間は、ユウマの場所とは対照的だった。
足元には雲のように柔らかな草原が広がり、一歩踏み出すたびにふわりと光の粉が舞い上がる。周囲を包む淡い光は、夕暮れ時の空気のように温かく、どこか懐かしい。
ユウマのいる回廊の静寂とは異なり、微かに甘い匂いが漂い、心地よい風がそよぐ。
ミミの目の前には、ページが自動でめくれていく巨大な絵本のような光のスクリーンが浮かんでいた。薄い桃色の装丁。表紙には風の羽根のようなエンボスが施されている。
ミミは、この絵本になぜか抗えないような引力と、どこかで見た覚えがあるような気がしていた。それが何なのか、彼女自身もはっきりとはわからなかった。
「わあ………きれい……!」
ミミは目を輝かせた。先ほどの不安な気持ちが嘘のように、目の前の絵本に心奪われていた。この夢の空間では、ぼんやりとではあるが、物語が展開されているかのようにも思えた。
その絵本のページが、ゆっくりと一枚めくられる。すると、光の文字が絵本の上に浮かび上がった。同時に、ユウマの空間で聞いた声と同じ、無機質ながらも、どこか穏やかな響きを持つ声が響き渡る。
『ようこそ。ここは深層夢。これは、あなたの思い出をたどるしれんです。私の問いに、よく考えて答えてください』
ミミは少し身をすくめた。声は優しいけれど、どこか胸の奥がざわつく。
『もし、あなたが正しく答えられたら、彼の道が開きます。そして、もし彼が正しく答えられたら、こんどはあなたの道が開かれます。おたがいが答えを見つけることで、いっしょに進むことができるのです』
ミミは目をきゅっと閉じて、ふとロッコのことを想った。いつも隣にいてくれるロッコ。早く、ロッコに会いたい。ロッコと一緒なら、きっと大丈夫──なんとなく、そう感じて。
その時、ミミのいる空間の奥に光に包まれた扉がわずかに開き、その向こう側から淡い光が差し込んできた。彼女はその光景に驚きつつも、恐る恐るその扉の方へゆっくりと一歩足を踏み出した。
◆
そして、進んだ先で、先ほどの無機質な声がこう語りかけてきた。
『だい一もん』
それと同時に、光の文字が、絵本のページに鮮やかに浮かび上がった。
『いちばんさいしょに、ロッコがしてくれたことを、思い出して』
ミミは首をかしげた。
「え?……なんだろう?」
生まれた時からずっとロッコと一緒だったミミにとって、一番最初の出来事を特定するのは、かえって難しかった。いくつもの思い出が絵本のページのように、ふわふわと脳裏をよぎる。しかし、確信を持てる答えが出ない。
「うーん……むずかしいよぉ……」
何のヒントもなく、クイズに挑戦するのは、まだ幼いミミにとってかなり難しいことであった。ミミは試しに、ふと思い付いた曖昧な答えを口にしてみる。
「えっと……ちょうちょをつかまえてくれた! ちがうよねぇ……」
すると、絵本の絵が少し濁り、空間に無機質な声が響き渡った。
『ざんねん。ふせいかいです。もう一度考えてください』
光の文字が浮かび上がった。
ミミは不安そうに、絵本を見つめた。その時、彼女の小さな手が、いつも隣にいるはずのロッコを求め、何も掴めないことに再び寂しさを覚えた。
(ロッコ……どうしよう?)
◆
──その刹那。
ミミの想いに応えるように、彼女の目の前に、ぼんやりとロッコの影が浮かんだように見えた。影は声を発しないが、ミミの頬にそっと触れるような仕草を見せる。
その幻影に、ミミの記憶が刺激された。
「あっ……!」
ミミは目をきゅっと閉じた。あの時のことだ。まだ同じベビーベッドに寝ていた頃、自分が泣いていた時にロッコがしてくれたこと……。
ミミは、じっとロッコの幻影を見つめた。その姿は声もなく、ただ、そっと手を伸ばして──彼女の頬に触れようとしていた。
(……これ、しってる……)
ふわりと鼻先をくすぐったのは懐かしい布の匂い。柔らかいぬいぐるみと、一緒に入っていたお昼寝毛布の匂い──あの時のままだ。
ミミは目を閉じた。薄暗いゆりかごの中で泣きじゃくっていた小さな自分。そして、その横にいた、もうひとつのあたたかい存在。
小さな手が、ぺた、ぺた、とミミの涙を拭った。その手はまだ小さくて不器用だったけれど、とってもやさしかった──「泣かないで」って言ってるみたいに、「ずっと一緒」って伝えてくれるように。
ミミはそっと自分の頬に手を当てた。奇妙なこの空間で、そこにあの手のぬくもりだけが、明確に残っているような気がした。
そしてその感覚を頼りに、ポツリと答えを宣言した。
「……わたしのなみだを、ふいてくれた……」
そう言ったあと、ミミはふっと笑った──
さらに──胸いっぱいに息を吸い込んで、声を張り上げる。
「ミミのなみだをふいた!」
その瞬間、幻影のロッコが鮮やかな光に包まれ、幼い記憶の断片がやさしい絵本のような空間いっぱいに広がった。
すると、そこには影のようなロッコの姿が鮮明に映し出された。声は聞こえないが、幼いロッコがミミの頬を拭う過去の風景が断片的に現れる。絵本にも、二人の幼い姿が描かれた絵が浮かび上がった。
その上に光の文字が輝く。
『せいかい』
空間全体が淡く輝き、心地よい風が吹き抜ける。そして、ミミのいる絵本の空間の遥か遠くから、「ゴゴゴォォ!」という鈍い音が微かに響いてきた。
「え? いまの音……なぁに?」
ミミは首をかしげた。その音の方向は、自分が先に進む道とは逆方向だ。
「もしかして……モフさまのとびら、ひらいたのかな……?」
ミミは、遠く離れた場所で、ユウマも同じように試練に挑んでいることを感じ取っていた。
(モフさま、がんばって……)
ユウマの無事を願いながら、ミミは次の扉が開かれるのを待った。
お読みいただきありがとうございます!
次回更新は12/3(水) 12時予定です。
──次回予告──
「いかなきゃ」
ロッコの決意が、夢の扉を抉じ開ける。果たして……?
引き続きお付き合いください!!




