夢紡ぎミストブレッドを紡いで その十
ロッコに手を引かれるまま、ユウマはミミが眠る部屋へと足を向けた。雨戸が固く閉ざされた窓からは一筋の光も差し込まず、昼間とは思えないほどの深い闇が部屋を支配している。
外の風の囁きさえも届かない──不自然なまでの静寂の中で、ミミは布団の中で小さく丸まり、かすかな寝息を立てていた。
「ミミ……大丈夫か?」
「……………」
ユウマが試しに声をかけても、ミミから何の反応もない。ただ、そこにいるという微かな気配だけが、消えそうなロウソクの炎のように残されていた。
ロッコは黙ったままミミの傍らに佇んでいた。彼の肩が、風もないのにほのかに震えている。その震えは痛みではなく、双子を結ぶ魂の糸がほつれているように見えた。
「……ミミ、まいご」
ぽつりと溢れたロッコの声はか細いが、どこか芯がある。
「とおくで……なんか、さがしてる。どこか、わかんないとこ」
彼の焦点は現実ではなく、どこか遠く──夢の深層を見透かしている。
ユウマはミミの額に手を当てた。熱はないが、眠りの深さが異常だ。意識が底の底──誰も触れられない深すぎる領域に沈んでいる。
その時、ロッコが震える声で言った。
「ユウマ、手……つないで」
その声音には理由も説明もない。しかし、そこに込められた切実さに──ユウマは迷わず手を差し出した。
ロッコの小さな手がユウマのふわふわの手のひらに重なった瞬間──胸の奥でカチッと何かが噛み合うような音が響いた。
直後、ユウマの五感を別の風がふわりと撫でた。皮膚の外側を誰かがひと撫でしていくような、甘いパンの香りが鼻腔に溶け込んでくるような、奇妙な感覚。
(……前より、ずっとはっきり感じる)
以前、ロッコに触れた時に垣間見た夢の景色は、深い霧の向こうの影のように曖昧だった。しかし今は違う。音も、匂いも、肌ざわりさえも──ほんの少しだけこちら側に漏れ出してきているのだ。
それはユウマ自身の能力が伸びたからではない。ロッコとミミの魂の結び付きが、今まさに悲鳴を上げるほど強く共鳴しているからだと、直感で悟った。
やがて、言葉とも音ともつかない柔らかな波がユウマのもとに押し寄せる。
──ここ、どこかなあ。
──ロッコ、いないなあ。
それはミミの肉声ではない。だが、たしかにミミの想いがそこに存在しているのを感じた。音よりも淡く、夢よりも繊細な──純粋な感情の波紋だ。
ユウマの視界の端に、細く淡い光が立ち昇るのが見えた。ミミの胸元から天へと伸びるそれはゆるやかに空へと漂っていく光の糸のように見えた。
「……あわせる、いま」
ロッコが静かにささやいた。その声に導かれるように、ユウマはそっとまぶたを閉じる。手を握り直した瞬間、世界の輪郭がかすかにほどける。部屋の空気が綿のように柔らかくなり、音が遠い潮騒のように引いていき、ユウマの意識は、深い深いところへ沈んでいった。
(ミミを……必ず見つける)
その想いだけが、胸の奥で小さな炎のように熱を帯びた瞬間──
足元が、まるで焼きたてのパン生地のようにふんわりと沈み込んだ。間髪を入れず──ユウマの体は色彩を失い、すべてが純粋な白に染め上げられた世界へと、音もなく落ちていった。
空気はひどく澄み渡り、すべての音を吸い込むように──静寂そのものだった。
──気づけば、ロッコの手は、もうそこにはなかった。
◆
そこは視界のすべてが、白い霧に覆われた異界だった。
地面の感触さえ曖昧で、自分が歩いているのか、漂っているのかさえ分からない。それでも、自分の体がちゃんとここに存在していることだけは、心臓の鼓動と共に確かに感じられる。
(……これが、夢の中……?)
雲の中を歩いているようなぼんやりとした空気に包まれながら、ユウマは慎重に歩みを進めた。ミミがいるはずだ──その思いだけを道標に、霧がかった空間を手探りで進む。
歩いても歩いても、同じような白い景色が続く。時間の感覚も失われ、自分がどれだけ歩いたのかさえ分からない。
そして──見つけた。
ふらふらと当てもなく歩く小さな影。霧の帳の向こう、かすかに見えたその背中に、ユウマは思わず息を呑んだ。
「ッ!!……ミミッ!」
その声に、ミミはふと立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「……モフさま?」
目が合った瞬間──ミミの瞳に失われていた光がぱあっと宿る。その瞳に浮かぶ涙が、ひとしずく、ふたしずくと頬を伝い落ちた。
「モフさまぁ……!」
その場にへたり込んで、ミミは堰を切ったように大声で泣き出した。それはまるで孤独という名の呪縛が解けたかのように、張り詰めていた心の糸がぷつんと切れた。
「わたし……わたし、どこにいるのか分からなくて……ロッコもいなくて……こわかったの……!」
すすり泣きながら、ミミは震える声で必死に想いを吐露した。
「ずっとあるいてたの……くらくて、ひかりもなくて……それで、モフさまが、きてくれて……」
その涙声を聞いて、ユウマの胸が締めつけられるように痛んだ。こんな小さな子が、一人でどれほど心細い思いをしていたのか。
「よく頑張ったな……怖かっただろ。ロッコも村のみんなも、みんな待ってる。一緒に帰ろう」
ミミは涙をぬぐいながら、小さく頷いた。その温もりが、白一色だった夢の空間にほんの少し──やわらかな色を取り戻させる。そんな気がした。
けれど、それは線香の揺火のように──儚く消えゆく明かりのようだった。
(ミミを見つけられたのはいい。だが、ここからどうやって現実に戻ればいいんだ……?)
解決策が見つからない焦りが、ユウマの胸の奥に黒い影のようにじわりと広がる。
その時だった──その不安に呼応するように、空間全体がギシリと不吉な軋み音を立てた。
「……モフさま?」
ミミが顔を上げた時、ユウマの姿が──まるで朝霧のように淡く透け始めているようだった。それに気づいたユウマも、慌ててミミを強く抱きしめ直す。
「いかないで……やだ──」
ミミの必死の叫びも虚しく、ユウマの体は光の粒となって空気に溶け始める。まるで夢そのものが彼を拒絶しているかのように。
ミミの小さな手が、空を切るように宙をつかんだ。
ユウマの指先が、かすかにミミに触れた──その瞬間。
この空間に充満する霧という霧が、バキッと音を立てて割れた。
まるで巨大なパンの生地に鋭いナイフで切れ目が入ったように、白い世界が裂けた。そこからは、まったく異なる色と空気を纏った別の夢が、暗い口を開けていた。
──空間が二つに裂け、ユウマとミミはそれぞれ別の世界の流れに引きずり込まれていく。
「ミミッ──」
「モフさまッ──」
二人の声が、裂けた夢の狭間に響いて──そして、二つの白霧に呑まれた。
お読みいただきありがとうございます!
香章は力を入れて書いているシナリオなのですが、みなさんの感触はどうなんでしょう…
リアクションや一言感想で教えていただけると嬉しいです。
次回更新は12/1(月) 12時予定です。
ユウマとミミが夢の深層に突入。
互いの記憶が、互いを助ける。
引き続きお付き合いください!!




