神殿図書館への誘い
◆
「香露ハニーブレッド」は、リーカ村に小さな旋風を巻き起こした。
いや、それはもはや「旋風」などという生易しいものではなく、村全体の話題を独占する、一種の「熱狂」と化していた。
翌日から、ティナのパン屋には朝早くから客が押し寄せた。開店前から店の前には長い列ができ、誰もが期待に満ちた表情で扉が開くのを今か今かと待ちわびていた。
みんな、昨日の俺の尋常ならざる賛美と、それによって生まれたパンの噂を聞きつけてきた者たちだ。
「モフ様のあの叫びは、まるで魂を揺さぶる魔術のようだった」
「一度食べたら忘れられない」
老若男女問わず、誰もが口々に称賛の言葉を並べた。その声は、熱気を帯び、誰もが興奮を隠せない様子だ。
パンを一口頬張るたびに、幸福そうな溜め息が漏れ、店中に甘く香ばしい香りが満ち溢れていく。
「モフさま、すごいわ! 香露ハニーブレッド、あっという間に売り切れだよ!」
ティナが嬉しそうに言う。
その声は、いつもにも増して元気いっぱいだ。太陽のように明るい笑顔が、店内に陽の光をさらに呼び込むかのようだった。
「いや、俺はただ、正直な感想を言っただけで…………」
俺は少し照れくさそうに頭を掻いた。自分のパン賛美がこれほどまでに影響力を持つとは、正直、予想外だった。
前世では、熱弁を振るっても「あなた、何されてる方なの?」と怪訝な顔をされるのが関の山だったというのに。
この世界の住人たちの純粋な反応に、俺は未だに戸惑いを隠せないでいた。
しかし、同時に、自分の「好き」がこれほどまでに人々の心を動かすことに、微かな喜びも感じていた。
(推しを語るってやつかな……)
◆
パン屋が落ち着いた昼下がり、ティナは淹れたてのハーブティーを俺に出してくれた。
陽の光が差し込む店内で、温かい湯気が立ち上るカップを両手で包み込む。
ハーブの優しい香りが店内に広がり、朝の喧騒が嘘のように穏やかな時間が流れていた。
カップの温かさが掌からじんわりと伝わり、俺の心を落ち着かせる。
(猫舌には熱すぎるから、まだ飲めないけどね!)
「モフさま」
ティナが、いつもよりちょっぴり真剣な、でも好奇心に満ちた眼差しで俺を見た。
その澄んだ瞳は、まるで何かを見透かすように、まっすぐに俺を見つめている。
「モフさまはね、本当にパンに愛されているんだよ!」
「え、俺が?」
「うん! 昨日焼いた『香露ハニーブレッド』もそうだったけど、綺麗な『六角紋』が浮かび上がったよね! あれはリーカ村では、良いパンが焼けたときに現れる証なんだよ!」
ティナは明るくそう言ったが、俺は内心、改めてその現象に首をかしげた。その六角形の光景は、俺の頭の中で未だに引っかかっていた。
「美味しいパンができた証」だとティナは言っていたが、前世の常識では理解できない光景だ。
「この世界のパンはね、粉属性は必須で、酵・香・熱・形・魔のうち、二つ以上の異なる属性を持つ素材を混ぜないと、ちゃんとしたパンにはならないって言ったでしょ?」
ティナはそう言いながら、カップに目を落とし、少しだけ声を潜めた。
まるで、誰にも聞かれたくない秘密を打ち明けるかのように、彼女の声には微かな緊張が混じっていた。
「んでね、『魔』だけはちょっと特殊なんだよ! それはパンを作る者の心とか、想いが込められると宿るって言われてるんだけどね、正直、あたしも詳しいことはよく分かんないんだ。秘伝書にも、その辺りの記述は曖昧で、もうちょっと踏み込んだことは書いてないんだよね~」
ティナは立ち上がり、店の奥の棚から、古びた一冊の本を取り出した。表紙は色褪せ、何度も読み込まれたであろう痕跡がある。
革張りの表紙は手垢で黒ずみ、角は擦り切れて丸くなっていた。
ページをめくるたびに、微かに紙の香りと、遠い昔の物語が息づいているような感覚がした。
「これはね、代々このパン屋に伝わる、パン作りの秘伝書だよ。ほとんどは五つの属性についての記述なんだけど、この本の最後の章には、『魔』の属性に関する、ほんの少しの記述があるの。でもね、やっぱり詳しくは書いてないの」
ティナは、その本を俺に差し出した。タイトルを見ると『パンくろっく』と書いてある。
(「パンくろっく」って…………ネーミングセンス良いのか悪いのか……)
「だからね! もしもっと深く知りたいなら、神殿図書館にいるリビを訪ねてみたらどうかな? この本も手がかりにはなるかもしれないけど、リビならもっとたくさんのこと教えてくれるはずだよ!」
「神殿図書館のリビ?」
俺は復唱した。その言葉の響きは、俺の知的好奇心をくすぐる、新たな冒険の予感に満ちていた。
「うん! リビはね、この世界の古い書物や知識を管理している、とっても物知りな子なんだ。もしかしたら、『魔』の属性について、もっと詳しく知っているかもしれないよ!」
俺は、ティナから差し出された古びた『パンくろっく』を、静かに受け取った。
ずしり、と手のひらに重みが伝わる。
それは単なる紙の束ではなく、リーカ村のパンの歴史と、パンへの想いそのものが込められたもののようだった。
その重みは、これまでのパン作りの研鑽と、未来への可能性を同時に示している。
「ありがとう……ちょっとの間、秘伝書借りるね!」
(魔の属性……。そして、神殿図書館のリビか)
この世界のパンの神秘性、それが『魔』という属性にどう繋がるのか。
ティナの言葉、そして秘伝書の存在が、俺の知的好奇心を強く刺激した。その刺激は、俺の心の奥底で眠っていた探求心に火を灯す。
この世界のパンには、俺の知る科学や常識では測れない、もっと深い秘密が隠されている。
その扉が、今、目の前で開かれようとしていた。
そして、その先に広がるであろう未知の世界に、俺は抗いがたい魅力を感じていた。




