香露ハニーブレッドの衝撃
ティナに促され、俺はその出来立てのパンを一切れちぎり、口に運んだ。
その瞬間、俺の世界はまた一つ、新たな色を帯びた。
口腔に広がるのは、朝の森の澄んだ空気と、陽光をいっぱいに浴びた花の香り。
舌の上で蜂蜜がとろけ、焼かれた生地の香ばしさと溶け合うたびに、五感の全てが刺激され、脳裏に鮮やかな風景が広がっていく。
それは、ただのパンではない。生命の輝きそのものが凝縮された、奇跡の結晶だった。
「あ…………」
ティナは、眉をしかめて少し呆れ顔で、小さく漏らした。
そのティナの声に、パン屋の店内の空気が一変する。
それまでの穏やかな朝の気配が、一瞬にしてピンと張り詰めたような、独特の熱気を帯びていく。
俺がパンを口にした瞬間に合わせて、なぜか既に俺のすぐ横にはガランが立っていた。
使い込まれたメモ帳と鉛筆を構え、一言一句聞き漏らすまいと、静かに、しかし熱心に書き記す準備を整えている。
その眼差しは、まるで歴史的な瞬間を記録しようとする学者のようだ。
「またあれがはじまるっー!」
店の入り口から、ミミとロッコの興奮した声が響いた。
二人は予知していたように、俺の食レポを察知して駆けつけてきたようで、キラキラと目を輝かせながら俺のすぐ近くに陣取った。
パン屋の窓や開け放たれたドアからは、いつの間にか集まってきた村人たちが、好奇心に満ちた顔で中を覗き込んでいる。
これから始まる「ショー」を待ち望んでいるようだ。誰もが息をひそめ、一点に視線を集中させている。
その視線の先には、パンを口にし、未だ言葉を発しない俺がいた。
そして──
俺の意識は、既に彼方に飛んでいた。
口にした「香露ハニーブレッド」のあまりにも完璧なハーモニーが、俺の内に秘められた「パンへの情熱」を、制御不能なまでに解き放っていく。
脳内で何かが弾け飛び、言葉にならない衝動が全身を突き破って溢れ出す。
「さあ、開門だ! 禁断の扉は今、我らのために開かれた!」
俺は突如立ち上がり、右手を突き出した。
「聖剣『香露ハニーブレッド』、現界せよ! その輝きは、まるで幾千もの星々の光が一つに集い、至高の宝へと凝縮されたかのよう!」
周囲の空気が凍りつく。気にしない。刮目せよ!
「目を閉じろ、民衆共よ! この神々しい光は、貴様らの魂を焼き尽くすだろう! いざ、拝謁の時だ!」
ハニーブレッドを高々と掲げ、周囲に訴えかける。
「見よ、この断面を! とろりと広がる黄金色の蜜の湖が、生地の奥深くにじんわりと染み渡っていく…………視覚だけで満たされる悦楽の極みだ!」
一口。俺の瞳がキラリと光った。
「その甘みは、舌の上でふわりとほどけ、理性を溶かすほどの魔力を秘めている! 香りを吸い込め! その芳醇な香りは、遥か古代、王族のみが嗅ぎ得たという伝説の秘薬の如し!」
俺は額を押さえた。このパンの魔力に耐えきれない!
「我が記憶の図書館が、今、未知の書物でオーバーフロー寸前だ! なぜ貴様らはUSBだけは安全に抜いてたんだ!」
深呼吸。いや、荒い息だ。呼吸するのを忘れていた。呼吸とは?
「この至高の味わいは、まさに神々の食卓から盗み出された禁断の果実! 舌の上で溶け出す蜜の甘み、それは全ての苦悩を洗い流し、魂に安寧をもたらす!」
俺は膝をついた。パンは大事に抱えて。
「もはや俺は、このハニーブレッドの無限の力に囚われた……! ああ、俺の人生の半分はパンでできている!」
急に顔を上げる。声量を少しずつ上げていく。
「なぜ我らの高校は弱い野球部がスクールカースト上位だったんだ!……このパンを前にして、俺はもはや正気ではいられない! 行くぞっ! 魂の咆哮!」
俺は立ち上がり、指を突きつけた。
「なんだと! 貴様の無関心が俺の熱狂を拒絶するのか……!? よかろう……貴様は……俺の進む『パンの道』で待っていろ…………」
──興奮のあまり、テーブルに拳を叩きつけ、叫び終えた俺は、そのまま全身の力が抜けたように、ぐったりと椅子にもたれかかった。
俺の脳内には、巨大なパンの神殿が突如崩壊し、金色の蜂蜜の奔流が世界を飲み込む光景が浮かんでいた。
その流れの中に、「パンに捧げよ」と刻まれた進化の古文書の断片が、いくつも浮かんでは消えていく。
経験値獲得!
・パン賛美B 1000EXP
レベルアップ!
・11→13(350/400)
口元には、まだ香露ハニーブレッドの欠片が残っている。その欠片が、さっきまで俺がいた至高の世界の、唯一の証のように思えた。
ティナは、フッと笑い、溜息とも安堵ともつかない息を漏らした。その表情には、呆れと、そして深く愛おしむような温かさが混じっていた。
「……まったく、モフさまは本当にパンが好きね」
ミミとロッコは、目を輝かせながら「今日もすごかったね~!」と拍手喝采。二人の純粋な歓声が、パン屋に満ちた熱狂を象徴している。
ガランは、俺の賛美の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、真剣な表情でメモ帳にペンを走らせていた。
彼のペン先が紙の上を滑る音だけが、興奮冷めやらぬ店内に、微かに響いていた。
パン屋の外で覗き込んでいた村人たちは、呆然としたり、感心したりと様々だった。それでも皆の顔には、口々に「モフ様のパン賛美」を目撃した高揚感が満ち溢れていた。
「今日のモフ様の賛美も、また一段と熱が入ってたな!」
「あんなにパンを愛せるなんて、見てるこっちまで幸せになるわ」
「しかし、あの言葉の羅列は一体どこから出てくるんだ?」
「毎回違うのがすごい!」
「よし、俺もあのパン、もう一つもらおうか!」
村人たちの間では、俺の賛美に触発されたかのように、ティナが並べた「香露ハニーブレッド」の追加注文の声が上がり始めていた。
店内に活気が戻り、パンの香りと人々の笑顔が交錯する。
俺のパン賛美は、この村にとって、最高の宣伝であり、何よりも楽しい日常の一部となっていた。
◆
──その頃、遥か遠く、人里離れた古の森の奥深く。
永き眠りにつく、とある存在が微かにその瞼を震わせた。
幾年かの時を経て、深い闇に閉ざされていた意識の淵に、微かな、しかし抗いがたい「声」が届いたのだ。
その耳には、かすかな、しかし確かなパンへの熱狂的な賛美が、風に乗って届いていた。
それは、単なる「声」ではない。
純粋な喜びと、尽きることのない探求心、そして何よりも愛に満ちた、魂の叫びだった。
その「声」は、古の存在の深い眠りに、小さく、しかし確実に波紋を広げ始めていた。
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