転生前夜のパン談義
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どこまでも白く、静かな空間。
音もなく、色もなく、ただ意識だけがぽつんと宙に浮かんでいた。
手足の感覚がない。呼吸も、重力も、曖昧だ。なのに意識だけははっきりしている──。夢にしては妙にリアルで、視界の端がじわじわと明るくなっていく。
「お、やっと起きた? 毛里悠丸くん」
声がした方に視線を向けると、そこには……人?
いや人型ではあるけれど、性別も年齢も不明でどこか中性的な空気をまとった存在が立っていた。
腰まで伸びた白髪は光の粒を束ねたみたいに輝き、虹色の瞳は見る角度で色を変える。
ローブのような服はふわりと揺れ、体は星の瞬きのように透けて見える。
まじまじと観察すると、ローブの裾に小さくパンの刺繍が入っているのに気づいた──なんで?
まるでRPGのエンディングだけに出てくる「神様キャラ」みたいな雰囲気だな。うん。
──とりあえず気になったことを尋ねてみる。
「どちら様ですか?」
「神様です」
「雑な自己紹介ですねぇ。俺の方も雑だけど」
「いやー、たまにね、こうして人を迎えに来るんだ。君、覚えてないかもしれないけど、こっちに来る前は結構大変だったんだよ?」
神様がゆっくりと手をかざすと、白い空間に映像が浮かんだ。
映っているのは……ぐったり倒れている俺。
スーツ姿で顔はげっそり、髪はぼさぼさ、目の下にはくま。机の上は書類でいっぱい。
「うわ、ブラック企業時代の俺じゃん……」
見ているだけで胃がキリキリする。あの頃はパンを食べる時間すら惜しんで働いていた。
「大学を卒業するまでは、ほぼ毎日パン屋巡りするくらいのパン大好き人間だったのに。まさか就職してから、あんなに働き詰めになるとはね」
「あ、思い出した。大学時代、パン屋巡りが趣味だったんだ。あの頃は毎日違うパン屋に通ってて……それすらも忘れてたなんて……まじで……週休ゼロの連勤生活とか、今思えばどうかしてたわ」
「うん。で、君はある日、倒れた。机に突っ伏したまま、誰にも気づかれずに……ね。過労死ってやつだよ。享年26歳」
「……俺、死んだのか」
言葉にするとじわりと実感が湧いてくる。もう戻れない。家族にも、友人にも、二度と会えない。美味しいパンも食べられない。
──その事実が、なぜか一番堪えた。
「……ってか、なんでそんなパン屋情報まで知ってるんだよ」
気を紛らわすように、俺は神様にツッコんだ。
「神様だからね。全部見てる」
「こわっ! 神様はプライバシーお構いなしなんですねえ……」
神様はくすっと笑うと、少し申し訳なさそうな顔で続けた。
「……本来の君なら、もっと別の形でパンに関わる人生を歩んでたかもしれないけど──」
その瞬間虹色の瞳の奥がふっと濁り、白い空間の端がわずかに陰った。
遠くで、かすかな軋む音がしたような気がする。
「それってどういう──」
「今はまだ話せない」
声の温度が下がり、言葉の間に重さが宿る。俺が続きを聞こうと口を開きかけたとき──
「けど、パンを巡って君は何度も世界と向き合うことになるはずだから」
神様は、何事もなかったかのように微笑みを取り戻した。
だが、その笑顔の奥に、さっきの影がまだ潜んでいるように見えた。
「──いや全然分かんないし! それに急にシリアス! 意味深やめれ」
「……それは置いといて、ここからが本題」
「きれいにスルーされたっ!」
「ふふふ。でね、お詫びってわけじゃないけど、君を異世界に転生させる権利を用意したよ。ゆるくて平和な村での生活、スキルも初期付与、体も回復しやすい仕様にしてある」
「……って、よくある転生パターンじゃねーですか」
「そうそう! 次はもっと気楽に、自由に生きてほしいな、って思ってるんだ」
「なるほど? もう一度人生を送れるチャンスがあるなら……うん……いいかもしれない」
(転生か……のんびり生きられるのはありがたいかな……)
心残りがあるとすれば──
「……もっと日本全国のパン屋を巡ってみたかったな。大学時代、パン屋のイートインで食べた焼きたてのクロワッサン。あのサクッ、じゅわっという食感と、バターの香ばしい匂いに包まれた瞬間だけは、世界中の幸せの中心地が自分だって気がしてさ……」
「うんうん、分かるよ! 焼きたてのクロワッサンはさ、ふわっと来た瞬間、こう……胸が、うぉぉぉおってなるよね!!」
「いや語彙力どうした。食レポ下手かよ」
俺は思わずツッコんだ。神様、めちゃくちゃ興奮してる。
「だってあのバターの層がパリッて崩れて、じゅわっと染み出す瞬間とか、もう……!」
「あー、分かるわそれ。時が止まるよな」
「止まる止まる! で、その後に来る小麦の甘みとバターの塩気がさ──」
「たまんないよな! あれを超えるパンに俺まだ出会えてないし」
気づけば二人でヒートアップしていた。死んだ直後だってのに、パンの話だけでここまで盛り上がれる自分に、俺は少し呆れる。
「……つーか、あんたマジでパン好きなのかよ」
「うん、たまにパンを買いに天使たちを日本に派遣してるから」
「単なるパシリじゃねーか……」
よくよく見ると、神様の背後に、いつの間にか3人の天使たちが立っていた。
全員、手にパン屋の紙袋を持ちながらサムズアップしている。
(……いつからいたんだよ。ってか、主従揃ってパン好きなのか)
二人してパン談義に没頭しかけたところで、神様が一つ咳払いをして話を戻した。
「さて。話を本題に戻そうか。次は、転生先の世界について説明するね」
神様はにこやかに、しかしどこか含みのある笑みを浮かべた。
「君が心底、のんびり、自由に、そして何より最高のパンに出会える世界だよ」
その言葉にユウマの意識の奥で、焼きたてのパンの匂いがふわりと広がった。
黄金色に輝く生地、立ち上る湯気、割れば溢れる幸福の予感——
それは懐かしくも新しい、まだ見ぬ世界への扉だった。




