「なろう系」という言葉に囚われる「小説家になろう」
まず、これは現状の小説家になろうに対する「なろう批判」であって、なろう「否定」じゃない点を強調しておく。そこを考え違いしないでほしい。
変化をもたらせられるのは読者。読者が変わらなければ、なろうは変わらない!
小説家になろうの運営は、小説家を育てるつもりはないようだ。
「なろう系作家」を生みだし、それで利益が得られつづけると信じているらしい。
けど、よく考えてみよう。
大手の出版社やそのほかの勢力(海外のものも)が、数々の「なろう系」作品を世に送り出している状況を。
その中でいつまで「小説家になろう」は、同じ土俵で戦いつづけるつもりなのか。
いままでは確かに「なろう系」という商標登録じみた存在感を「小説家になろう」は持っていたかもしれない。
しかしその「神話」は崩れつつあるんじゃないのか。
なろうの運営や、なろうを利用しているユーザーは、いまいちど「小説家になる」という意味を考えてほしいものだ。
小説家とは、「なろう系を書く人」を意味しているのではない。
もちろん「小説家になろう」の運営が初心に立ち返り、なろう系でない作品をピックアップするような動きをすれば、そうした作品を書けない作者も、そうした作品を楽しめない(読めない)読者も離れていくだろう。
しかしいずれは大手に多くの作者も読者も奪われていくとしたら、いまこそ変革すべきなんじゃないのか。
勇気を持って手放すべき「なろう系」という称号……
いや、捨ててしまえ。そんな称号は。
いつまで「なろう系」などという揶揄的称号にすがるつもりなのか。
「なろう系」という言葉を作り出した特別感だけが、「小説家になろう」というサイトに読者を呼び込んでいるだけだと理解されたら、あとは穴の空いた風船みたいにしぼんでいくだろう。
ほかのサイトのほうが作者も読者も勢いがある。そんなふうに思われたら、一瞬で風向きは変わる。
本道に立ち返り、本当の意味で「小説家になろう」と呼ばれるにふさわしいサイトに生まれ変わってほしいものだ。
* * * *
こういった「なろう批判」に対し、利用している人は「文句言うな」と感情的になるかもしれない。
しかし問題(読者離れ、作者離れ)が起こってからでは遅い。
さまざまな問題について考え、そうならないために行動を、と訴えている言葉が文句にしか聞こえない人は、現状に満足して(それが変わらずにずっとつづくと思い込んで)いるユーザーか、そもそも「小説家になろう」が無くてもほかに移ればいいと軽く考えているような人だろう。
文芸には絶対に多様性が必要。
でなければ文芸は、形骸化した腐敗政治や、洗脳的、支配的な宗教のように、人々の心を腐らせ、弱らせる。
最近、知性についての格差が水面下で広がっている事に気づいているだろうか。
「心を軟弱にさせるもの」(『ガリア戦記』にある言葉)。それがある種の大衆的娯楽を意味しているのは明らかだ。数世紀前の時代から人の本質は、何も変わっていない。