8.起立性調節障害
昨日に引き続きの投稿です!
「きりつせいちょうせつしょうがい……」
「そう、起立性調節障害。朝立ち上がった時、血圧が下がりやすくなってしまう病気なんだけど」
「けつあつ……ですか……?」
キョトンとするマリー。
……そうか、この世界、血圧の概念がない? 言われてみれば、メイベルとして育った18年間、そんな単語は聞いたこと無い気がする。
私の頭の中は今、メイベルと朝陽が混じって、自然と身につけたような知識はどっちの世界のものだったのか思い出すのがひどく難しい。そっか、血圧はあっちの世界の概念か。
医学的な概念がない人へもわかりやすい説明しなければ……
私はレオくんのクマのぬいぐるみを拝借して、机の上にゴロンと寝かせる。
「こうやって寝てる時には、全身に均等に血が流れてるでしょ? でも急に体を起こすと──」
クマを素早く机の上に起立させる。
「体の中の血はどうなると思う?」
「足の方に集まる、でしょうか……」
「正解。重力に負けて、下に集まるよね。でも大人の体だと、そうならないように体が勝手に頑張ってくれるのよ」
具体的にいうと、自律神経っていう神経が足の血管や筋肉を収縮させて、頭にも血が行き届くように調整してくれる。
でも神経って単語は通じるか分からないから割愛。
重力という単語もおそらく一般的ではないけれど、そこは聞き流してくれた様子。つい朝陽モードになって、前世の外来での文言そのままで説明してしまいそうになる……。
「だけど子どもだと、特に体が急にぐーっと大きくなる時期の子どもだと、身体も混乱してその調整がうまく行かないのよ」
身体が急成長を迎えて大きくなると、自律神経の成長が追いつかなくて、その機能に不具合が出てしまう。
前世の世界では、中学生女子の四人に一人、中学生男子の六人に一人はその症状があると言われていた。みんながみんな不登校になるほど強い症状が出るわけじゃないけど。
「人間って、頭でいろんなことを考えてるでしょ? でも血が足の方に集まったままだと、頭の中に血が足りなくなってしまって、頭が困っちゃうの。それで、頭痛とか倦怠感とか、様々な症状が出るのよ」
脳に血が足りなくなるといろんな症状が出現するっていうのは、脳について知ってる人には理解しやすいと思う。だけど、脳の概念が分かってない人には難しいかもしれない……
「確かにアーロは起きてくるといつも青白い顔をしています。頭の中の血が足りなかったんですね……」
色々割愛しながらだからすっごくふんわりした説明になってしまったけど、目をパチパチと瞬かせながら、それでもマリーは納得してくれたようだった。
「その状態を治すには、どうしたら良いのでしょうか?」
「まずは規則正しい生活をすることかな!」
自律神経は生活リズムに簡単に影響されてしまい、昼夜逆転や不規則な生活をしていると、簡単にバランスを崩してしまう。
私は立ち上がって、レオくんのお絵かきセットを借りてきた。そこから紙を一枚もらって、赤のクレヨンでひとつずつ箇条書きにしていく。
「それから水分と塩分をしっかり摂ることと。具体的には水分は1日2リットルくらい、塩分は1日10グラムくらい」
物理的に水分と塩分をしっかり摂って、循環血液量を増やすこと。
朝起きられなくて朝ごはんを食べなかったり、なんなら昼ごはんも食べなかったりする子もいる中で、それは起立性調節障害の症状を悪化させる。
本当に症状をどうにかしたいのなら、食事は頑張っていただきたいところ。
「日中しんどくても、横にならないこと」
横になっている時間が長ければ長いほど、血圧を調整する力が失われていく。しんどくても、せめて座っていてほしい。
「起き上がる時は急に立ち上がらず、頭を下にしながらゆっくりお尻から起き上がること」
頭の中の血流が減って症状が出現するので、頭の中に血を保つイメージで起き上がることが大切だ。土下座の姿勢でイメージするとわかりやすいかも。できれば5分くらいかけてゆっくり起き上がってほしいところ。
「この辺りを頑張ったら、少しは体調も変わってくるんじゃないかなと思う!」
「わかりました、アーロに伝えてみます! ……どうしたらいいか分からなくて目の前が真っ暗に感じていましたが、こうしてやるべきことが分かると、安心します」
やっと、マリーが笑った。顔を上げたマリーは、手元のカップを持ち上げて、頭の中を整理するようにゆっくりと一口飲んだ。
机の上のお茶はもうすっかり冷えてしまっている。私もマリーの真似をして口に含むと、それでもバニラの優しい味が広がった。
「あの、身体の問題ということであれば、お薬はあるのでしょうか?」
「うーん……ごめん、薬についてはあんまり詳しく知らないの」
一応前世では、お薬は存在していた。
──だけど正直、お薬だけで改善した症例を私は見たことがない。
糖尿病とか高血圧とかと一緒で、治療のためにはその人自身が変わろうと頑張らなければならない。
そこが難しいところで、本人は起立性調節障害の症状が出ていて学校に行けていなくても、別に困っていなかったりする。学校なんて、努力して治療してまで行きたいところじゃないから。それよりは家の中で好きなことしていた方が楽だから。焦っているのは親御さんばかりで、本人は飄々としている、なんてことは本当によくあった。
逆に、本人が治したいと生活習慣の改善を頑張ってくれた症例では、症状が完全に消失はしないまでも軽減することが多かった。
「あ、でもひとつだけ追加で話しておきたいんだけど」
この話はするかどうか迷いつつ、スッキリした表情のマリーに水を差すのは心苦しいけれど、期待して後で落ち込むよりは今のタイミングで話しておいた方が良いだろう。
「身体と心っていうのは、思いのほか強い結びつきがあるの。ストレスが原因で身体の調子が崩れてしまうことってよくあって」
自律神経は、生理的なことと感情に関すること、両方に関わりがある。例えば、目にゴミが入った時は生理的に涙が出るけど、悲しい時も涙が出る。両方とも自律神経の作用だ。特に身体の成長が未熟な思春期年代では、自律神経も未熟で、生理的なことと感情に関することが混線しやすい。その結果、ストレスがかかった時に身体の症状として出て来てしまうことがある。
「だから、心理的負荷があると、生活習慣をせっかく改善しても良くならない事もある」
例えば学校で何かあって、学校に行きたくないとして。そのことが原因で身体化症状が出てるなら、その場合はそもそも学校に行きたくない原因を改善しないといけない。
ケースバイケースだから一概には言えないけれど……親御さんが学校に行かせることに固執している間は、改善しないことが多いようにも思う。症状が改善してしまうと学校に行かなければならないから。
本人がしんどいと思っている状況に身を置かないで良い環境を提供してあげることで、やっと本人が安心して症状を手放せる事もある。
教室に入ることがしんどいなら保健室登校を検討してもいいと思うし、学校によっては適応指導教室といって別室利用をさせてくれる制度もある。そもそも学校に入ることができないなら、フリースクールや放課後等ディサービスの利用もありだと思う。
──みたいなことを本当は伝えたいけど、この世界では不登校はかなり珍しいから学校の代わりとなるような居場所を提供することは難しい。どうしてあげたら良いのか正直わからない。
「本人とお会いして診察したわけじゃないし、的外れなアドバイスだったら申し訳ないけど。とりあえず生活習慣の是正を頑張ってみてもらって、変わらなかったらまたどうするか一緒に考えていこう。その時には相談に来て、いつでも待ってるから」
それまでに私も、この世界で現実的にできる居場所作りについて考えておかないと。
これで改善して学園に笑顔で通えるようになるなら良いけど、もしそうならなかったら、一度しっかり本人と話してみたいな。その時はマリーの家に遊びに行かせてもらうのも良いかもしれない。レオくんも一緒に連れてっちゃダメかな……
「ありがとう、ございます……。メイベル様に相談して、よかった」
どんどんマリーの瞳が潤んでいき、涙がこぼれた。
ずっと気を張っていたのだろう。──ほとんど不登校の子がいなくて、どうなっていくのかのモデルケースもない中で、相談先も確立してなくて。誰かに相談して、白い目で見られることもあっただろう。家族で抱え込んで、辞職を決意するまで思い詰めて。
「……マリーもしんどかったよね、一人で抱えて、本当に頑張ったよね」
本当は、子どものために仕事を辞めることがいいこととは限らないと思う。高学年の小学生なら家で一人で過ごせるだろうし。
だけど、マリーが悩んで悩んで決めたことだ。私はその選択を尊重することしかできない。
「少しレオくんの寝顔を眺めてくるね、マリーは少し休んでて!」
女性が人前で泣くことは、社交界では未熟とされ、淑女失格とされてしまう。ここには私とマリーしかいないけど、それでも泣き顔はあまり見られたくないだろう。
私は寝室に移動して、レオくんのベッドサイドに腰を下ろす。
ふくふくの頬っぺた、ふわふわの金髪。うつ伏せで丸まって眠るレオくんの背中は、呼吸に合わせて薄く上下している。
……マリーがアーロくんのために仕事を辞めるように、私もこの子のために何かを諦める日がくるだろうか。可愛い子、だけど私と血の繋がりは一滴もない子。
隣の部屋からはしばらく、声を押し殺して泣くマリーの息遣いが続いた。
どうか、マリーが、そしてアーロくんが、良い方向に向かいますように。
貴重なお時間を使って読んでいただき、ありがとうございました!
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次回からまたレオくんの話に戻ります〜
*1/24、修正しました。