第2話 セージ・フィーネヴィータの日常
「セージさま。本邸で旦那さまがお呼びです」
畏まった様子で言ってくるキャモに、読んでいた本を閉じて答える。
「ああ、今行くよ」
ついで、横のテーブルの上に広げてあった本も一抱えにして部屋を出た。
この本はすべて本邸の蔵書室から借り出して来たものだ。本邸に住めないからと言って出入りまで禁止されたわけではない。
かって知ったるとばかりに蔵書室に本を返却し、顔なじみの書庫番に軽く挨拶。それから呼び出された父の執務室へ早足で向かう。
「セージです。よろしいですか?」
ドアをノックする。しばしの間をあけて「入れ」との声。
「失礼します」
広い執務室の正面に大きな黒檀のテーブル。
そこには父であるテオドール・フォン・フィーネヴィータ侯爵がいた。
鼻の下に髭をたくわえた神経質そうな顔立ち。撫で肩の痩身はいかにも文官っぽい印象だ。
隣に立つロマンスグレーは家宰のバスチヤンである。
「父上もご機嫌うるわしゅう」
ペコリと頭を下げる。
「うむ」
父、テオドールが重々しく頷いた。
「……最近、良く蔵書室に行っているらしいな?」
「はい。本には先達の知識と歴史が記されておりますれば」
「それに、家中の者や目上の者への挨拶も欠かさず、何やら朝から鍛錬にも勤しんでいると聞く」
「僕ももう10歳です。魔法に関しては非才の身ゆえ、せめて身体を鍛えておこうと思いまして…」
「うむ。愚者は未来を悲観し、賢者は過去に学ぶ。お前も尊き血を引く自覚が出てきたようで結構なことだ」
テオドールの口元が微かに緩んだ。息子にまんま賢者という名前を付けた彼として思うところがあったのかもしれない。
そして、賢者という名前を付けられたセージこと俺の方はというと、実は内心で冷や汗を流していたりする。
(…やっぱ、急に大量の本を読みだしたのは違和感があったかなー?)
秦野誠司としての記憶を取り戻し、やれさっそく理想の喰っちゃ寝生活だー! と快哉を叫んだものの、はっきりいって2日で飽きた。
確かにずっとゴロゴロしても誰にも文句は言われない。
しかし、しかしである!
この世界に、テレビはない。漫画もない。スマホもなければミュージックプレイヤーもない。
つまるところ前世のような一人で楽しめる娯楽は皆無!
具体的には本を読むくらいしか暇つぶしがなかった。図書室へ入りびたるようになった理由はこれだ。
ちなみにこの世界は魔法もあるファンタジーな世界だけあって、そのむかし魔王が世界を滅ぼそうとしたらこともしい。
それを勇者が打ち倒したと伝えられる叙事詩とか英雄譚がたくさん本にまとめられていたので、片っ端から読み漁ったけれど、勇者が剣の一撃で海を割ったり、賢者が口から炎を吐いたりと、いくらなんでもそれは嘘でしょ? って描写が多いこと多いこと。まあ、ザ・ファンタ―ジ小説って感じで読み物として面白かったけどさ。
朝の鍛錬の件だって、少々誤解がある。
好きな時間に寝て、好きな時間に起きる。現代日本であればそれでも全然大丈夫だろう。
しかしここは文化レベルが中世な異世界。
日が暮れて暗くなったら基本的に眠る時間だ。貴族の館だって深夜は最低限の灯りだけで、夜の警邏以外は皆が寝静まっている。
夜会やお祭りといった盛大な催しものでもないかぎり、一晩中明るいなんてことは滅多にない。
じゃあ仮に、夜中に腹が減ったらどうなる?
この世界では保存のきくお菓子なんて高級品だ。インスタラーメンなんてもちろんない。
せいぜい汲み置きの水を飲む程度で、ひたすら空腹を我慢して朝まで過ごすしかないのだ。
だったら早寝早起きをするしかないじゃないか。
そんで朝に目が覚めたら、そりゃラジオ体操だろ、ついでに腰痛予防体操だろ、と別邸の前の広場で手足を動かしているのが、朝の鍛錬かあ…。
「時に、我が家の成り立ちを覚えているか?」
テオドールが訊いてくる。
「はい」
幼い頃、父に聞かされた記憶が蘇る。秦野誠司としての記憶も得てから本邸の図書室の家伝も読んでおさらいしたから、より詳細な内容もばっちりだ。
もとは地方の豪族だったご先祖様は、ドルニクス王国が成立した際に「フィーネ」との家名と領土を与えられた。
後年、一族の子孫に英才と呼ばれる人物も出現し、長じて王宮へと仕えることになる。
そしておよそ百年ほど前に行われた葬儀の際に、式事官として恙なく進行を取り仕切った功績を認められ、新たに天領地である「ヴィータ」を授かった。
今日のフィーネヴィータ侯爵の始まりである。
「かつて宮廷の儀の一切を采配した曾祖父、おまえにとっての曾々祖父にあたるエルキューレ大君の才覚ゆえに、今のフィーネヴィータがある。努々忘れるでないぞ」
「はい。肝に銘じております」
答えつつ、俺の中で不安が鎌首をもたげてくる。
父が俺を呼び出すのはともかく、なんで曾々祖父の話題を振ってきただろう?
「その誉れゆえに、王命が下った」
王命。
それは絶対君主から下される遵守せざるを得ない命令。ファンタジー小説の知識だが、その意味は理解している。
とはいっても、まだ10歳の俺にとっては他人事だ。おそらく、父か優秀な二人の兄に対して下されたのものだろう。なので、特に顔色を変えるでもなく、テオドールの言葉の続きを待つ。
「ヴィータ領へ赴き、とある貴人に対する式事を全うすべし。
出来るな、セージよ?」
「へ?」と間抜けな声を出そうとしたところを慌てて飲み込む。
「既にヴィータの代官には話を伝えてある。供の者を連れて早々に出立しろ」
俺の供の者といればキャモ一人である。さっそくヴィータ領へ赴かねばならないことを伝えると、なぜか彼女はそれを既に知っていた。おまけにプリプリしながらこう言ってくる。
「本当によろしいのですか、ぼっちゃん!」
「よろしいもよろしくないも、王命だろ。逆らうわけにはいかないよ」
「本来であればテオドール様ご自身か、少なくともテリオン様やクワンタ様がなさらなければならないことでしょうに!」
テリオンは長兄で17歳。火の属性魔法の使い手。
クワンタは次兄で15歳。水の属性魔法の使い手だそう。
ざくっとした説明だけで止めたのは、セージの記憶もあまり気持ちが良くないものだから。
二重属性だけど反発属性持ちと判明してから、兄たちのセージくんに接する態度は腫れ物扱いというか、冷たい。
逆に考えれば、家を出てしまえば兄たちと顔を合わせる機会も減る。
二人とも今は王国首都の貴族学院で寮生活をしているが、夏と冬の休暇で帰ってくれば嫌でも顔を会わせることになるからな。
「それで、キャモ。ついて来てくれるかい?」
聞いた話ではヴィータ領は遠い。ここから馬車でも2週間以上かかるとか。
彼女の生まれ故郷はフィーネ領の奥の森にある。
「何を言っているんですか。私が付いていかなければ、ぼっちゃんはロクに身支度も出来ないでしょう?」
「そんなことは…」
言いかけて続きを飲み込む。
俺の中にあるセージの記憶は、あくまで貴族のボンボンとしての記憶だ。
旅行に行ったのだって、7歳の時の属性判別の儀で王都へ行ったことが一回きり。
前世の記憶に加えこちらの本で沢山の知識を仕入れとはいえ、いわゆる一般市民の知見には欠けるだろうし、こちらの世界の風俗や決まり事もまだまだ知らないことが多い。
「それじゃあよろしく頼むよ」
ペコリと頭を下げると、キャモは呆気に取られた表情を浮かべていた。
「……貴族たるもの、使用人に簡単に頭を下げるべきではありません」
叱られてしまった。
こういうとこなんだよな、俺がこっち慣れしてないところ。