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プロローグ


 スマホの振動に、ビクっと身体を震わす。

 枕元の眼鏡をかけてディスプレイを見れば、職場の副主任の水沢だった。


「…もしもし?」

『あ、秦野主任ですか。お疲れ様です。…その、いま、大丈夫ですか?』

「…ああ、構わないよ」


 本当は全然大丈夫じゃない。むしろマジでヤバい。

 目が覚めた途端に意識させられる、腰から爪先までの鈍痛。慎重に身体を動かしたつもりなのに、あまりの痛みに「ぎッ」と悲鳴が漏れる。


『実は、夜勤の竹之内さんが、急に具合が悪くなったとかで休ませ欲しいって…』


 水沢の声を耳に、俺はベッドサイドの置時計を見る。時刻は22時少し前。そろそろ準夜勤と夜勤が交替する時間だった。


「んん…、じゃあ、誰か替わりに夜勤出来る人は…?」

『すみません、みんな予定が入っているとかって。あと、残っているのは申し訳ないけど主任しかいなくて…』

 

 泣きそうな水沢の声に考え込む。

 俺自身、今日は夜勤明けである。昨晩の22時から今朝の7時まで働いていた。

 7時にシフトを終えたからといって、すぐに帰って眠ったわけじゃない。

 今日の昼間は予約した病院の受診日だったのだ。

 まじは自宅に帰ってシャワーを浴びて食事を摂り、洗濯物を回す。

 眠らずに病院へ行けば、9時に予約したのに偉く混みあってて、診察してもらったのは12時過ぎ。

 それから薬と会計を済ませ、帰り道で馴染みの接骨院で電気だけをかけてもらう。

 帰宅したのは15時過ぎで、遅い昼食に薬を飲む。

 どうにか洗濯物を干し終えベッドに転がっても、寝返りを打つたびに激痛が走り、うつらうつらした程度だった。


「…分かった。今すぐ行くよ」


 睡眠不足なんて今に始まったことじゃない。痛みをこらえながらへっぴり腰でベッドから立ち上がる。

 スマホの充電ケーブルを外す、ピルケースを大事に抱えこみ、それから出掛ける支度を始めた。



 俺の職場は車で15分ほどの場所にある。

 地域密着型特別老人ホーム。定員は20名。


 駐車場に中古の愛車を滑り込ませ、職員玄関の電子キーを外す。

 更衣室でジャージパンツとポロシャツに着替えてケアステーションまで行けば、疲れた顔の水沢がペチペチとキーボードを叩いている。


「おつかれ」

「あ、主任、お疲れさまです。すみません、今日は夜勤明けなのに…」

「仕方ないよ。申し送りを頼む」


 20名の利用者の日中の変化などの報告を受けつつ、排泄表やメモ書きにも視線を走らせる。

 幸いにも、今朝、俺が帰ってから誰も大きな変化はないようだった。


「うん。ご苦労様。あとは俺がしておくから、あがってくれていいよ」

「でも、本当に大丈夫ですか?」

「非常時だから仕方ないよ。それに、水沢さんこそ時間外で4時間も残業しているでしょ? 水沢さんまで具合が悪くなったら、それこそどうしようもないよ」


 老人福祉施設への人員配置基準は国によって明確に定められている。

 ところが、そもそものこの人員配置数自体が不足しているのが現場の意見だ。 

 定員20名の利用者に対し、日勤帯こそおおよそ4名の職員でギリギリで対応はするけれど、夜勤はワンオペで対応しなければならない。

 加えて、介護という仕事は重労働。給料こそ以前にくらべやや改善がみられていたが、未だ一般の平均値には遠い。マスメディアもそういう部分ばかりことさら宣伝してくれるものだから必然的に働き手も敬遠してくる。

 職場は常に人員不足で、職員募集の広告が下げられることはない。

 

 キツイ業務をギリギリの人数で回しているわけだから、急に誰かが休んだりするだけで容易にシフトは破綻する。

 そしてその穴埋めに真っ先に呼び出され、どうにかシフト調整を行うのが、中間管理職である主任、俺こと秦野誠司の役割だった。


「それじゃ、お疲れさまでした……」


 水沢がタイムカードを切って退勤していく。

 誰もいなくなった無人のケアステーションで椅子に座ると、思い出したように激烈な痛みが腰から太腿裏、爪先まで駆け抜けていく。

 介護士にとっての職業病というべき腰痛は、椎間板ヘルニアという形にまで悪化してしまっていた。背骨の椎間板から飛び出した軟骨が神経に干渉して、泣きたいくらいの痛みをもたらす。

 歯を食いしばりながらピルケースを開ける。

 取り出したカプセル錠剤は神経性疼痛への鎮静剤。

 半ば泣きべそをかきながら荒い呼吸を繰り返し、薬が効いてくるのを待つ。

 しかし、容赦なく鳴り響くナースコール。

 入居している利用者―――お年寄りが職員を呼び出すそれは、文字通りの命綱。決して無視していいものではない。


「…くそッ、水沢が帰った途端これかよ……!」


 人手が薄くなった途端、立て続けにナースコールが鳴り響く。介護施設あるあるだ。

 ケアステーションの居室配置表の横で点滅するランプを一瞬恨めし気に眺めてしまう。

 と、いかんいかん。これが俺の仕事だ。俺はそれで給料をもらっているんだ。


 ―――仕方ない。


 俺は冷蔵庫に保管しておいた座薬を使うことにした。

 強力な鎮痛効果がある反面、連続使用は出来ず、時間を置いて使わなければならない。

 普段の生活も服用薬と座薬を併用しているので、俺の肛門様もお疲れ気味である。

 担当医師からは入院と手術を、少なくとも仕事を無理せず安静にすることを薦められているんだけどなあ。

 しかし、安静ったて、俺まで休んじゃ職場のシフトが崩壊してしまう。ましてや手術しての長期離脱など。

 

「はいはい、今行きますよ…!」


 座薬は即行性があるが、完全に効くまで待ってはいられない。

 痛む足を引きずりながらコールの鳴った順番に居室を訪問。

 水を飲ませてほしい、オムツ交換して欲しい、薬を塗って欲しい、トイレに連れて行ってほしい、といった対応を全て終えれば日付はとっくに変わっている。

 途中から効き始めた薬のおかげでどうにか片付けられたが、全身は汗塗れだった。

 単純に肉体労働もあるが、痛みの冷や汗も混じって、まるで洗濯し終えたばかりにポロシャツはぐっしょりと濡れている。


 …あとは、排泄表を記入して、記録や排泄状況をパソコンに打ち込んで。

 それと、水沢の時間外を申請して、今日の勤務変更届けも書いて判子を押して。ああ、明日以降の勤務シフトの調整もしないと……。


 オムツなどの汚物を処理室に片付け、疲労困憊の身体を引きずってケアステーションに戻る途中のことだった。


 不意に足がもつれた。

 身体が前に倒れる。

 手すりを掴もうと手を伸ばしたとたん、背中から腰にかけて激痛が走る。

 結果として、俺の手は宙を掴む。

 直後、側頭部に凄まじい衝撃。

 

 目の前が真っ赤に染まる。

 そのまま床に倒れたらしいが、頭の痛みが強すぎて他は何も感じない。

 どうやらうつ伏せになっているようだ。この態勢のせいか腰にまで激痛が走る。

 そんな怒濤のような痛みも、頭の痛みとまとめて徐々に遠ざかっていく。


 あ、これはヤバイ。死ぬかも……。

 

 薄れゆく意識の中、まず俺は申し訳なく思う。


 俺が死んだら、今晩の利用者は誰が対応するんだ。

 俺が死んだら、明日からのシフトはどうやって回すんだ。


 そして間もなく諦めるような気持ちが沸いてきた。


 死ねば、やらなくちゃいけない仕事からも解放される。

 死ねば、後のことを想い煩う必要もない。 

 死ねば、そこで終わりだ

 

 老人福祉施設に勤めて10年以上。

 多くの利用者の死を看取ってきた俺にとって、死とは折に触れ考えさせられるものであり、常に身近な存在だった。

 

 なのに、死の恐怖より、腰の痛みから解放されることを嬉しく思っている俺は、一体何なんだろう?


 もはやそのことを自嘲する力もなかった。

 俺は、最後に祈るように呟いたつもりだ。






 どうか次に生まれ変わったら、きちんと土日が休めて、盆暮れ正月と長い連休が貰える仕事に就職できますように……。





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