ピール・トーク
半ば凍った雨だった。どうりで朝から左膝が痛むはずだった。佐藤悠子は、家のリビングの窓辺に座り、冷たい雨がガラスを叩く音を聞きながら、スマートフォンを手に取った。今日も誰にも会う予定はない。だからこそ、彼女は自分自身の世界に浸ることができる時間を楽しみにしていた。
悠子は、スマートフォンのメモアプリを開き、そこに綴られた自分の「物語」を見つめた。実際には存在しない出来事、会ったことのない人々、そして成し遂げたことのない偉業がそこには詳細に書かれていた。彼女は、その一つ一つの出来事を思い出すようにして、指でスクロールしていった。
「今日は、テレビのインタビューがあるんだ」
悠子は、誰に話すでもなく呟いた。彼女の目の前には、ただスマートフォンの画面があるだけだった。彼女はメモアプリに新しいエントリーを追加し始めた。
「昨日の夜、私の最新作がベストセラーリストのトップに輝いた。出版社からの祝福の電話が鳴り止まない。明日は全国ネットのテレビ番組でインタビューを受けることになった」
実際には、そんなことは一度も起こったことがない。悠子はただの平凡な事務員であり、誰も彼女の存在を知らない。しかし、この虚偽の世界では、彼女は誰よりも特別で、重要な存在だった。
「テレビ局に到着すると、待合室には他の著名な作家たちがずらりと並んでいた。彼らも私の成功を祝福してくれた」
悠子は、その一節を書き終えると、満足そうにスマートフォンを見つめた。このプライベートな空間でだけ、彼女は自分を特別な存在として感じることができた。現実の世界では得られない自己評価の向上や自己満足を、この虚偽の物語を通じて感じることができた。
「インタビューでは、自分の創作の秘密や、次回作の構想について語った。司会者は私の言葉に深く感銘を受け、視聴者からも多くの応援メッセージが届いた」
彼女の心の中では、この虚偽の物語が現実と同じくらいの重みを持っていた。時折、現実と虚構の境界が曖昧になることもあったが、それでも彼女はこの世界に逃げ込むことで心の安定を保っていた。
「これでいいの」
悠子は自分に言い聞かせるように呟いた。現実の自分がどれほど無力であっても、この虚偽の世界では彼女は輝いている。少なくとも、そう信じることで心の安定を得ることができた。
雨が強くなり、窓を叩く音が大きくなった。悠子はスマートフォンを閉じ、外の景色を見つめた。冷たい雨が流れ落ちる窓ガラス越しに、ぼんやりとした街の風景が見えた。彼女はその景色を見つめながら、再び自分の物語に思いを馳せた。
「いつか、本当にこんな風になれるかもしれない」
そう自分に言い聞かせることで、悠子は少しだけ現実に立ち向かう勇気を得た。彼女の虚偽の物語は、彼女自身の希望と絶望が入り混じった複雑な感情の表れだった。現実の厳しさに耐えながらも、彼女は自分の心の中でだけは自由に夢を追い続けることができた。
雨音が静かに響く中で、悠子はスマートフォンを手に取り、次の虚偽の物語を書くために新しいエントリーを開いた。彼女の心の中でだけ生き続けるファンタジーの世界は、今日も彼女を支え続けている。