自傷行為
半ば凍った雨だった。どうりで朝から左膝が痛むはずだった。桜井美咲は、その痛みを意識しないように歩きながら、ふと立ち止まった。空を見上げると、冷たい雨滴が顔に当たり、髪を濡らしていく。家に帰る前に、もう一度あの公園に寄ってみようと決めた。あのベンチに座り、いつものように考えを整理するために。
公園は平日の午後ということもあり、誰もいなかった。美咲は雨に濡れたベンチに腰を下ろし、傘を横に置いた。冷たい雨の感触が心地よかった。周囲の静寂の中で、自分の心の声がより鮮明に聞こえるような気がした。
彼女の右手は無意識に左手首の包帯に触れていた。その下には、新しい傷が幾つも隠されている。美咲はゆっくりと包帯を外し、赤く腫れた傷跡を見つめた。リストカットをするたびに感じる痛みは、一瞬だけ心の中の混乱を和らげてくれる。感情の嵐が押し寄せる中で、物理的な痛みだけが彼女に現実を感じさせる唯一の手段だった。
「また、やってしまったな…」
美咲は自嘲気味に呟いた。自分の行為が無意味であることは分かっていたが、やめることができなかった。彼女の頭の中には、過去の出来事がフラッシュバックのように蘇る。失恋、友人との喧嘩、家族の不和…。それら全てが、彼女を深く傷つけ、その痛みを物理的な形で表現するしか方法がなかった。
「こんなことしても、何も変わらないのに…」
美咲は手首に視線を落としながら、ため息をついた。彼女の心の中には、罪悪感と自己嫌悪が渦巻いていた。自分を傷つけることで、一時的な安堵感を得ることはできるが、その後にはさらなる自己嫌悪が待っている。まるで終わりのない悪循環だ。
ふと、彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。SNSの通知がいくつか溜まっているが、それを見る気にはなれなかった。彼女は、少し前に見たメッセージを思い出した。友人の優しい言葉、それでも届かない励ましの声…。
「助けてほしいけど、どうやって?」
美咲は自問自答した。助けを求めること自体が、自分の弱さを認めるようで怖かった。彼女は再び包帯を巻き直し、深呼吸をした。冷たい雨がまだ降り続けている。美咲は立ち上がり、ゆっくりと家に向かって歩き始めた。
「今日はもう、やめよう」
そう心に決めながらも、また同じことを繰り返すのではないかという不安が彼女の胸を締め付けた。それでも、美咲は前を向いて歩き続けた。冷たい雨に打たれながら、自分自身と向き合うための小さな一歩を踏み出した。
彼女の心にはまだ多くの痛みが残っているが、少しずつでも、光を見つけることができるかもしれない。美咲はその希望を胸に、歩みを進めた。冷たい雨の中で、彼女の決意は静かに強まっていった。