インターネット・トロール
彼がキーを叩く音は、冷たい雨の音と交じり合って部屋に響いていた。時折、左手の薬指がキーを打ち間違え、無意識に舌打ちをする。高橋一郎は、自分の顔が画面の薄明かりで青白く照らされているのに気づきながらも、目の前のコメント欄に集中していた。彼の指が一度も休むことなく動き続けているのは、この瞬間だけが彼の存在を証明するように感じられるからだ。
「また無知なコメントしてるな。お前、頭大丈夫か?」
送信ボタンを押すと、一郎は椅子に深く座り直し、画面の変化を見守った。何も起きない。コメントが投稿されてすぐに反応が返ってくるわけではない。だが、それこそが彼の望むところだ。じわじわと相手の神経を蝕み、無防備な心をかき乱す瞬間を待ちわびる。その間、一郎は他のスレッドにも目を通し、次の標的を探していた。
「ほんとにそう思ってるのか?笑わせるな。」
また一つ、挑発的なコメントが送信された。彼の心の中で何かが満たされる感覚が広がる。現実の世界では、彼の存在は薄っぺらい。仕事でも家庭でも、誰からも必要とされていないと感じていた。だが、ここ、インターネットの世界では違う。彼は影響力を持ち、人々を操ることができる。誰かを怒らせたり、悲しませたりすることで、自分が生きている証を見出すことができるのだ。
「お前の意見なんて誰も聞いてないよ。消え失せろ。」
画面の向こう側で、見知らぬ誰かがそのコメントを見て眉をひそめる様子を想像すると、一郎の胸に満足感が広がる。彼の生活は、この無機質な画面と、そこに映し出される虚構の世界に支配されていた。キーボードを叩く音が止むと、部屋には再び静寂が訪れ、外の雨音だけが聞こえてきた。
そんな時だった。画面に新しい通知が現れた。一郎のコメントに対する返信だ。
「なんでそんなに攻撃的なんだ?何かあったのか?」
その言葉は、鋭い針のように一郎の心に刺さった。彼はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。その問いかけは、一郎自身がずっと避けてきた真実を突きつけていた。現実のストレスや孤独感を、インターネット上の他人にぶつけていたのは自分自身だったのだ。
だが、一郎は深く考えることを避けるように、再びキーボードに手を置いた。
「そんなの関係ない。お前にはわからないだろう。」
返信を送信し、彼は椅子から立ち上がった。窓の外を見やると、雨はまだ降り続いていた。彼は窓に映る自分の姿を見つめ、深いため息をついた。どこかで、本当の自分を見つけられる日が来ることを、薄々期待していたのかもしれない。だが、その答えはまだ見つからなかった。
一郎は窓から目を離し、再び画面に戻った。コメント欄には、新たな挑発的なコメントが並んでいた。彼は冷え切った指を再び動かし始めた。現実の痛みを忘れるために。