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小説・エッセイ

紅い散歩に夜の花

作者: らいどん

 うまくいけば、神様にでも出会ったと思われるかもしれない。あとから思えば愚かだとしか言いようがないとしても、そのときは衝動を抑えきれなかった。相手が不審な顔をしたら、すべて自分の思い込みだったということで、おかしな人のふりでもしてごまかせばいいのだし、もし驚いたなら、意味ありげな笑みをうかべながら、もっと自分を大切にしなさいとでもいった、気の利いたことばを残して立ち去ればいい。恥を掻く可能性も低くはないと思えるが、万が一にも想像が当たっていれば、その夜の出来事は神秘的な体験として、一生涯、彼女の記憶に残り続けるだろう。数十年が経って年老いたとき、ふと今夜のことを思い出して、そういえば若いころにこんな不思議なことがあって私は救われたのだと、だれかに語って聞かせるかもしれない。いや、もしそのだれかというのが自分になったとしたら、微笑ましい出会いのエピソードとでもいったものになるのかもしれない。

 まあ、そんなことがありえるはずもなく、相手はどこのだれとも知れない女にすぎない。三日後にはこの地を去って、遠く離れた県に移住するのだから、二度と係わることもないだろう。この都会の街に住んで一年半余りのあいだ、なにひとつ痕跡を残せたとは思えない彼ではあるが、最後の最後に、一人の女性に強烈な印象を与えられる、いや、もしかすると彼女の一生を左右するかもしれない奇跡的なチャンスが目の前にあるのかもしれないと思うと、相田(そうだ)文樹(ふみき)躊躇(ちゅうちょ)することも忘れて口を開いたのだった。

 ここは高台にある、花水木(はなみずき)の白い花が幻のように浮かぶ深夜の公園で、しかし公園とはいっても子どもの遊具などがあるわけではなく、高級住宅街のなかにある憩いの場所といったふうだった。立派な塀や石垣、門扉が並ぶ道を散策すれば、広々とした敷地に植えられた庭木を透かした奥深くに、どっしりとした邸宅のファサードが威風を示すのが垣間見える。

 高台を(すそ)まで下ったあたりには、さして水量もない川に架かった、どこにでも見かけるような鉄とコンクリートの橋があり、それを向こう岸に渡ると、周囲の雰囲気は一変する。まばらに建った、幾棟かの、築数十年以上を経た低層のビルに混じって、かろうじて生きのびた古い民家が肩を寄せあい、商店街から外れて商売が成り立つのかもわからないクリーニング屋や質屋や和菓子屋や、いつも薄暗い明かりしか漏れていない、鮨屋だか飲み屋だかわからない店やらが点在する寂れた小地区があって、川と並行して走る幹線道路に挟まれている。広い道路沿いに大きなビルが建ち並んでいるのを見るにつけ、いつ再開発の手が加えられて根こそぎ消えてしまってもおかしくないこの地区の、中ほどにある立体駐車場の隣の昭和の遺物めいたアパートの二階の一室に、文樹は住んでいた。

 とはいっても、ここに住みはじめて以来、アパートは職場から帰って寝るためだけの場所であって、付近を散策したのは、半月ほど前から仕事に出なくなってからだった。ゆえに彼が周辺の住宅事情を把握したのはごく最近のことだったし、橋向こうの高台に登ってこの公園を訪れたのも二度目だった。

「落ち込んでいても仕方がありませんよ」

「えっ」

「自分から(だま)されるようなことをしてそうなったのだとしても、悪いのはあなたじゃない」

「……」

「あんなことに引っかかったのは、運が悪かったのだとあきらめて、今度はもっと、自分を大切にする生き方をしたほうがいいですよ」

 すらすらと、言おうと思っていた以上のことばまでつけ加えてしまったことに、内心でははらはらとしながら、それを出しきってしまうと、とたんに接ぎ穂を失ってしまったのだが、あらためて見れば二十代前半に思える目の前の女の顔が、泣き出しそうな、驚愕したような、感極まったような、気が抜けたような、なんとも言えない表情に変化したのを見た彼は、自分の夢想が現実であったことを確信して、つい口もとに笑みをうかべてしまった。それと同時にこれ以上ことばを発したら引っ込みがつかなくなりそうな恐怖に襲われて、笑みを凍りつかせたままの顔から先に(くびす)を返すと、すぐさま立ち去ろうとした。

 二歩進んだところで立ち止まったのは、彼の上着の(すそ)がつかまれていたからだった。ふり向くと、外灯の光をいっぱいに(たた)えた涙にあふれかえった女の顔が彼を見上げていた。彼はその、これまで映画のスクリーンでしか見たことがなかったような、人が持つ情感のすべてを表面に絞り出したかのような泣き顔を、しかもその悽愴(せいそう)な美しさを目前にして、度肝を抜かれた。

「どこに……行くんですか」

「えっ、どこに、とは?」

「だったらなぜ、知ってるんですか」

「いや、悪かった。さっき言ったこと以外は知らないんだ。ごめん」

「言ったことって、何か知ってるようなことを言いましたよね。なにを知ってるんですか」

「いや、ごめん、なんでもなかったことにしてくれないか」

「これだけは教えてください。そうしたら私も覚悟を決めますから。それとも、仲間とか、あの……」

 涙に濡れて重たげな長い睫毛の奥には、不思議な浮力に支えられて暗がりに浮いているかのような二つの眼があって、灰色の光彩に囲まれた黒い瞳孔がまるで猫のそれのように、ピクリと広がるのが見えた気がした。

 文樹は、厄介(やっかい)な方向に話がこじれてしまったことを理解しつつも、たったいま目の前に開けた予期せぬ局面に対して、それほど悲観はしていなかった。話は簡単で、本当のことを言えばいいのだ。しかも、もしかしたら彼女を救い、気持ちが通じるということもありえるのかもしれない。そうなればもうすこし、彼女を慰めながら、この町で過ごしてみるというのはどうだろう。

「なんだか誤解されているみたいですね。ちゃんと説明するから、落ちついてください。ぼくは、あなたに悪意をもっているわけではないし、もちろん、だれかの仲間なんてこともありません」

「じゃあ、どこかで見ていたとか」

「うん、すこし言いにくいことなんだが……」

 そこで事情を説明するにあたって、文樹がその背景となる前置きを省いたのは、相手が知りたいことから先に話して、手っ取り早く誤解を解きたかったからでもあるし、それが彼の、あまり人に知られたくはないプライベートに属する内容であったせいでもある。彼は東京で働いている学生時代の友人の紹介で、輸入家具や雑貨を扱う、これから有限会社化するのだという小規模な店で働くために上京した。主に在庫の管理をしたり、英文で在庫の問い合わせや発注を行ったり(彼が採用された主な理由は、地方の国立大学の英文科を出たからだった)していたのだが、従業員が五人しかいない店で、しかも新しい店舗を開くために社長が外出がちだったせいで、倉庫からの品出しや接客など、担当業務は臨機応変といった具合だった。

 そんな仕事内容が過度な負担になったわけでも、あまり休みが取れなかったからというわけでもなく体調を崩してしまったのは、彼自身、働いてみて初めて気づいたのだが、長時間にわたって他人と接することに強いストレスを感じてしまう性質だったからだった。自分の状態を認識しているという自覚があったから、医者に診てもらおうとも思わなかったのだが、仕事を辞めてからは外出をするのにも、ちょっとした気力をふり絞るような具合で、結局は郷里に戻ることに決めたのである。

 外出が億劫(おっくう)なのは、以前から感じていた強迫性障害的な傾向が強くなったことによる。舗道の敷石の模様や電柱の位置、建物の角といったものの角度が気になってならない。それらを結ぶ直線が自分に向いていることに意識が(とら)われて、ただ歩くということが負担になる。自分でもばかげたことだと思うその感覚は、思い出せば不安になるという程度だったのだが、そのうちに外出時だけではなく、部屋にいるときにも感じられるようになった。彼の部屋はアパートの二階の角にあり、西側と南側に窓があったが、西側の窓の外には間近に迫った隣家の外壁があるだけだ。南側の窓は川向こうに渡る橋と大通りを繋ぐ通りに面していて、昼間は車両の通行もまばらではないが、夜になるとほとんど人通りが絶えてしまう。百メートルも離れていないところにもっと幅広な道路が並行して走っているので、この通りの利用者は限られているのだろう。窓の外の風景にはその通りとともに、いくつかの建物や電柱も窓外の風景に含まれているから、ぼんやりと見ていると、自然に建物のパースペクティブや電柱と電柱を結ぶ線が意識されて、それらが自分に向かって何かを投げてくるような気がする。窓の外を見ることにすら恐れを感じてしまう。

 けれどもおかしなことに、強迫観念が発生するのは昼の風景だけで、夜の景色には心を慰められた。建物の角が放射する圧力はすっかり衰えて、ビルや商店や家々の窓、あるいは外灯や自動車のヘッドライトは、丸みを帯びてこんもりと、他に干渉する意志をもたずにそれぞれの場所に留まっているように感じられるのだった。自分で作る簡単な夕食を済ませたあとは部屋の電気を消して、一、二時間ほど窓の外を眺めていることも多かった。近所を散策しはじめたのもこの頃からのことで、暗くなってからでなければ出歩かないのだから、夜の風景しか知らない場所も多い。橋を渡った先に高級住宅が建ち並ぶ上り坂を何度か歩いているうちに、外灯の光が差す白い壁に落ちた立木の梢の影が面白い模様を描く家や、ある角度から見ると光を反射するタイル張りの柱がある玄関、ゆらゆらと光が揺らめくトーチ型の照明が並んでいる駐車スペースなど、お気に入りの風景もいくつか(たくわ)えていた。ごみごみとした世俗からは切り放されたかのような、人気(ひとけ)のない夜の住宅街を散策しながら、高台の上にある公園(いま、彼がいる場所である)まで足を伸ばしてみたのが、数日前のことだった。その日、部屋に戻ろうとした彼は、アパートの前の電柱に、下端をフリンジ(よう)にひらひらと風にそよがせている紙が貼られているのに目を留めた。正面ではなくて裏側に回りこんだ、目の高さよりも低い、いかにもこっそりとした場所に、それは貼られていた。


「当方82才男性。近隣に1,028平米の土地と築32年の屋敷そこそこの金融資産あり。相続人無く一人暮。孤独を慰める若い女性探してます。入籍後相続の遺言作成。身の回りの世話してもらいますが、束縛しません。電話にてご連絡下れば、さらに詳細なメッセージします。」


 そんな文言が、コピー用紙を半分に切った小さな紙に手書きで、上のほうに詰めて書かれていて、下半分は居酒屋の暖簾(のれん)のような切れ込みが縦に入って、ひらひらと六つの部分に分かれている。分かれた紙片には電話番号が書かれているので、連絡を取りたい「若い女性」はその部分をちぎって持ち帰るようにというつもりらしい。手書きとはいってもどうやらコピーされたもののようなので、他の場所にも貼られているのかと前後数本の電柱を裏側まで覗いてみたのだが、その場所以外には見あたらなかった。

 気味が悪いのは、文面からうかがい知れるその82才男性という人物の、誠実さを(よそお)おうとして、まるで装いきれていない如何(いかが)わしさや、釣り針をつけた疑似餌(ルアー)のような財産のひけらかしや、あるいはあちこちが寸詰まりな文体などといった内容に限ったことではなく、まるで一文字一文字、活字をトレースしたかのような、念が込められているような手書き文字のせいでもある。今どきこんなものが電柱に貼られているということ自体の胡乱(うろん)さに加えて、小雨に濡れたせいなのだろうが、触りたくもない体液で貼りつけられているような質感が、その紙片の波うった表面に浮かんでいた。そもそもこの貼り紙が、彼が散歩をしていた二、三十分の間に貼られていたことからして気味が悪い。この電柱が窓外の風景から彼の部屋に向けられた鋭利なものだという感覚を持っていた彼は、外出時には意識して視線を向けていたから、確信とまではいかずとも、先刻通りすぎたそこにそんなものはなかったという記憶があるのだった。表通り沿いに並ぶコンクリート製の建物からすれば、若干は時代に取り残されたかのような地区ではあるが、それでも当たり障りのない規格品のような家屋が大勢を占める、猥雑さを濾過(ろか)したような場所に、いきなり百年前の見世物小屋の不潔な展示物がぽつんと放置されたかのように思えた。

 帰宅してからは、文樹は窓際に置いた机に向かって、ふと目を上げるだけで視界の一部となる夜の通りを眺めながら、その貼り紙のことを意識せずにはいられなくなった。部屋の窓から見ると、電柱は通りの橋がある側に寄った左斜めに立っていて、貼り紙は向こう側にやや回りこんだ場所に貼られていたから、直接それが見えるわけではない。けれども(そば)に立てば胸から腰の間の位置に貼られているのだから、もし注視しようとする人がいれば、かがみこむ姿勢からしてそれだとわかるだろう。こうして見ていれば、貼り紙を貼った当人が様子を見にやってくるかもしれない。不快に思った近隣の住人が剥がしてしまうこともありえる。あるいは、彼と同じように傍観者的な興味から文面を読んだり写真を撮ったりする者が現れる可能性もある。まさかとは思うが、文面を信じた女性が、電話番号が記された切れ端を破り取っていくかもしれない。……何がどうなったとしても彼は、その結果としてどうするというわけでもない。それ以上、その貼り紙に係わることも、係われることもないに違いないのだが、彼はその貼り紙がもたらすことになる顛末を暗示する断片を、もう一つだけ手に入れたいと願っていた。事実を求めるのならば、それに関するすべてを知りたいと思うのだろうが、事実よりも空想を求めていた彼にとっては、あの貼り紙を発端とした物語を動かすためのもう一つの出来事を目撃できれば、逆にそれ以外は知らないほうがいいと思っていた。窓の外に眺めていた、内面の空虚をそのまま押し広げたかのような夜の風景に、倫理的な善悪にかかわらず動きが欲しいと願っていた。窓枠のスクリーンを、暗い部屋のなかから、まるで映画館でサスペンス映画を観るかのように、他人事ならではの好奇心をもって彼は眺めていた。

 そんな時間の浪費には、浪費であるとわかっているからこその逃避の誘惑がある。昼間の時間を使って、引っ越しの準備をほぼ終えてしまった文樹は、人通りがあるたびにゆるやかにうねりあがる緊張感を(たの)しんでいたのだが……。

 早くも翌晩には、その緊張感は愉しむどころではないレベルまで、一気に跳ね上がることになった。

 薄手のコートを着た、長い黒髪の、痩せた女の姿が、彼から見て左の橋の方角から早足で歩いてきて、立ち止まったかと思うと、あの電柱の影に回りこんだ。やや身をかがめて覗きこむような姿勢をとったとたん、貼り紙の位置にサッと手を伸ばしてすぐに引っこめた。すぐにあたりを見回して、また、来た方角に引き返していった。彼は女が紙片をもぎったのだと思った。

 明かりが消えた二階の部屋から彼が見ていたことは、気づかれなかったようだ。立ちあがって向こうを覗きこむと、女の影が橋の手前で消えたので、おそらくは川沿いの道を左に折れたのだと思った。彼は階段を駆け下りて現場に向かった。貼り紙を確かめると、やはり連絡先を書いた紙片が一枚、破り取られていた。彼が期待した物語は、最もありえないと考えていた、いやそれにはるかに優る、記憶に残る場面を提供して終わった。はるかに優るというのは、大げさではない。彼はかつて、出勤のために駅へ向かう際に、週に一度程度はあの女性とすれ違っていたからで、細身のシルエットや、ベージュのロングコートにスカーフをあしらった、ひと昔前のお嬢様風のファッションや、どことなくぎこちない印象を受ける歩き方に覚えがあった。はっきりと顔を見たわけではないのだが、たしかに彼女だと彼は確信した。

 翌日、部屋で夕食を取って一息つくと、文樹は三日ぶりに夜の散歩に出かけた。あの電柱をなんの甲斐もなくぼんやりと見つめることが、三日先に迫った引っ越しの前の晩まで続く義務のように感じていた彼にとって、なんとなしの後ろめたさを感じながら囚われていた行為に、わずか二晩で決着がついたことは大きな開放感をもたらした。奇妙な義務感から解放されたのみならず、一生涯にわたって反芻(はんすう)し、あれやこれやと想像をめぐらせることもできそうな材料まで手に入れたのだから。それまでは出勤時に見かける人々のなかで、特に興味を惹かれていたというわけでもなかった彼女の顔を彼は想い出そうとしたのだが、なんとなくか細くて、薄倖そうで、しかもかなりの美人ではなかったかという気はするのだが、さて具体的に目鼻立ちを思い浮かべようとすると、よく憶えている女優や絵画に描かれた複数の女性像に引きよせられて、その印象は刻々と姿を変えた。そもそも、か細くて、薄倖そうだという印象自体、あの行為を目撃したゆえに、後付けでそう感じるのかもしれない。

 たまにすれ違うだけの関係とはいえ、もし彼女に自分が惹かれていて、しかも彼女のほうも自分のことを意識していたのだとしたら、いまのこの状況にはどれほど胸を締めつけられることだろう。そうなればあの時点ですぐにアパートを飛びだして彼女の姿を探し、ふざけてやったのか、それとも本気なのかと、問いたださずにはいられなかっただろう。そんな想像をすると、まるでドラマの渦中にいるかのように感じられて、気分が高揚せずにはいられなかった。

 さて通りに出て例の電柱を通りすぎしなに、振り返りながら確かめた文樹はそこで目にしたものにぎょっとした。いや、そこになかったものといえばいいのか。今日の昼過ぎに買い物に出たついでにも確認したあの貼り紙が、剥がれ残しの欠片(かけら)もなく、まるで彼の想像内にしか存在しなかったもののように、一切の痕跡を残さずに消えていたのだった。ふと気がつくと通りすがりの夫婦者らしき中年の男女が、低い声で熱心に会話をしながらも電柱を見つめている彼をじろりと横目で見たのに気づいて、彼は慌ててその場を飛びのいた。直前に男が話していて、耳に飛びこんできたことばが、

「だから、まだ狂気を帯びているんだ……」

 と、そうたしかに言っていたので、彼はゾッとした。あの、見も知らぬ男は、自分のことを言ったのだろうか。たしかに若干心を病んでいる状態ではあるが、軽いノイローゼ程度の症状だと思っている。しかし他人から見れば、通りすがりに見かけただけでも、自分の挙動は狂気だとみなされるほどおかしいのだろうか。

 いや、そんなわけもなく、あの男の話しかたは、自分を見てそう言ったのではなくて、なんらかの会話の連続のなかにそういうことばがたまたま(はさ)まれていて、その断片が彼の耳に届いたといったふうだった。そんなことが気になること自体が、病んでいるというものだろう。こんなときこそ、気持ちを強く。堕ちていく気持ちを撥ねつける前向きな気持ちが、今の自分にはあるのだと彼は心に言い聞かせた。

 橋を渡りながら欄干ごしに川の流れを見下ろすと、いつもは流れなど意識していなかった水面が、今夜は黒い水の塊がせり上がって、波頭に反射した外灯の光を練り込みながら奔流となっていた。上流で大雨が降ったのだろうか。空には重い雲が立ち籠めて、月も星も塗りつぶされている。四月の夜は、湿り気を含んだ空気に充たされている。

 もし降られたとしても濡れて構わないと思いながら、いつもと変わらぬしょぼくれた表情を浮かべている、橋のこちら側の家々の玄関口を覗きこみながら、高台の公園がその先にある坂を見上げたのだが、橋を渡るとすぐに、坂の中途にまぶしいくらいの紅い光が、まるで呼吸(いき)をするかのように膨らんだり(しぼ)んだりをくり返しているのに目を吸い寄せられた。何だろうと思いながら近づいていくうちに消えてしまった。かなりの人数がたむろしているらしき人影も見えたのだが、光が消えると同時に薄闇に呑まれてしまった。いや、近づくにつれて、人の姿が動いているのが見える。紅い光を放っていたのは警察車両だったようで、そういえばまだ部屋にいたときに、サイレンの音を聞いた記憶があった。パトカーが停車していたのは、通りすがりに何度か目にしたタイル張りの柱がある家の脇で、近所の住人らしき十人足らずの人がたむろして、小声で話している。例のタイル張りの柱には、立入禁止 KEEP OUTと赤字で印字された黄色いテープが巻きつけられ、左右に張られて家の入り口を塞ぎ、玄関口には警察官の姿が見える。

「どうなったんだろうね」

「嫌ねえ、物騒なこと」

「じゃ、私はこれで……」

 と、戻っていく人もいれば、あらたに坂の上の方から様子を見に来る人もいる。強盗事件か何かなのだろうか。いつもツンと澄ましたよそゆきの顔ばかり見せていた住宅街は、ちょっとした騒ぎが発生しただけで、人間臭い生活の場の相貌をさらけ出していた。あまり他人に触れたくもない彼は、ほとんど足を止めずに現場の傍らを通り抜け、さらに坂を登っていく。あのタイル張りの柱の家が見えなくなるほど遠ざかった頃、左手にある、ちょっとした段差の上に水色のフェンスが立っているのを目印にコンクリート製の階段を上って、公衆トイレのそばでフェンスが途切れたところから内側に入ると、もう、目指す公園の敷地内だった。四、五日前のこと、そこに公園があることを知らなかった彼は、ぶらついているうちに見つけた裏口から公園内に紛れこみ、あっという間に一巡できる内部を通りすぎて反対側にある表口を抜けると、アパートに戻ったのだった。

 公園内には外灯の光に照らされた花水木(はなみずき)の白い花影が、ぼっと冷たい火を点したように浮かびあがっている。それ以外は水飲み場とベンチがあるだけで、なにもない、けっして広くはないスペースではあるが、夜の中に浮かぶ幻のような白い花をもう一度見ておきたくて、彼はやってきたのだった。

 三、四本が並んだ花水木の樹に近づいた彼は、表口の近くにあるベンチとは別に、フェンスの傍の木の陰に隠れるような奥まった場所にも、もう一台のベンチがあることに気づいた。前回は見逃したベンチにあらためて気づいたのは、そこに女が座っていたからだった。

 あのベージュのコート。胸のあたりまである黒髪がそこにあった。もう二度と会わないだろうと思っていた彼女だった。あきらかに、彼を見て(おび)えている。吸いこんだ息でヒッという声を出して、震えながら身をこわばらせているのがわかる。それはそうだろう。だれもいないと思っていた公園の奥の暗がりから、いきなり男が姿を顕したのだから。

 いやいや、何もするつもりはないよ、というつもりで文樹は顔の前に掲げた右手の(てのひら)を彼女に向けて前後に揺らすと、そのまま立ち去ろうとした。彼女から目を離したその瞬間、その怯えた顔のなかに、深い絶望のなかから訴えかけるような何かを見た気がした。なかば蔭になって、丸みを感じさせるその姿のなかから、彼に向けられた、鋭角的なメッセージが放たれた気がした。その、強烈ではあるがなんとも読み解きがたい表情の残像が、前方の建物の上にのしかかった暗い雲のなかに、幕電のように浮かびあがって見えた。三、四歩進みながらも、彼の内部に押しよせたさまざまな思いが、まるで海嘯(かいしょう)のように目の前に立ちはだかり、ついに、おもむろに身体ごと振り返ると、口からはことばが一気に溢れてしまったのだった。

「落ち込んでいても仕方がありませんよ……自分から欺されるようなことをしてそうなったのだとしても、悪いのはあなたじゃない」

「……」

 ……そして今、彼女に上着の裾をつかまれた文樹は、つい数分前までは夢想すら及ばなかったことだが、彼女と並んでベンチに腰を下ろしている。といっても、三人掛けの長椅子の、ほとんど端と端であったし、彼女はといえば、ずっと後ろ手を組んで身体をこわばらせたままだったが。

「……そこの(と、来た道の方角を指して)坂を下って橋を渡ったすぐ先にあるアパートに、僕は住んでいます。それでね、昨日の晩に窓の外を眺めていると、あなたがね、あなたですよね、電柱に貼られていたあの紙をもぎって行ったのを、たまたま見かけてしまった。それだけなんです。あの紙に何が書いてあったか、少し前に見つけて知っていたし、あなたのことも、朝の出勤中にときどき見かけて、なんとなく覚えていた。だからつい、偶然ここで逢ったことで動揺して、余計なことばをかけてしまった。真剣に悩んでいるのかもしれないときに、つい思わせぶりなことを言ってしまって申し訳ないことをしてしまったなと」

「……それだけなんですか」

「ああ、それだけですよ」

「本当にそうなんですか。ほかに何かしようと……知ってることはないんですか。そのことはだれにも言っていないんですか」

 思いがけず、切羽詰まったふうに、彼女がたたみかけてくる。文樹はその必死さにすっかりたじろいでしまって、

「うん、僕しか知らないことだから……」

「……」

「悪かった。だれにも話さないから」

「……じゃあ、もう行ってください」

 と、奇妙に震えた声で言うと、刺すような上目遣いで彼を(にら)んだ。

「ああ……そうだね。じゃあ、元気で……」

 なんということだろう。せっかくの物語が、彼自身がそこに参加したとたんに後味の悪いエピローグを残して、幕を閉じようとしている。それでも彼は、言われたとおりにそこから立ち去るしかなかった。

 立ちあがって三歩も進まないうちに、文樹は自分の腰のあたりに強烈な体当たりを食らった感覚を覚えて、その場に膝から崩れおちて前のめりに倒れた。この公園の花水木(はなみずき)は、白だとばかり思っていたが、紅だったのか。

 その場から慌ただしく駆け去る靴音を遠ざかっていく鼓動のように感じながら、「まだ凶器を帯びているんだ……」と言っていたのだなと、彼はずいぶん長いあいだ抱えていた謎が解けたような気がした。


(了)


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