自分の推しアイドルの声が実の妹になってしまったら
アイドル育成ゲーム――アイドルになりたい、女の子なら誰でも見るであろう夢を叶えるプロデューサーになって、自分の推しを思う存分プロデュースしていく。
大学を卒業してから1年、社会人になった俺はそんな流行りのソーシャルゲームにまんまと嵌っていた。貰えるお給料の一部は実家に納め、残りは基本的にガチャやイベントを走るための石に変換されている。
「今回の報酬の可憐は名前の通り声も可愛いけど、早く雪奈にも声を付けてくれないかな……」
アプリのホーム画面に設定している推しを見て自然とぼやいてしまう。100を超えるアイドルが実装されているアイドルドリーム――通称アイドリでは全キャラに声が付いている訳ではなかった。
声が付くチャンスは幾つかあるけれど、プレイヤーが関与することが出来るのは毎年行われる人気投票だけ。その投票で1位になったアイドルにはご褒美としてもれなく歌が貰え、その時に初めて歌うための声が付くという仕組みである。
去年は惜しくも3位に敗れてしまったけれど、今年は前回1位の晴香推しからの応援投票もある。それに雪奈推し達の課金額もSNSを見る限り去年の比ではなさそうだった。
かく言う俺も親には言えないくらいの課金をして投票券を買っているのだが、念には念を入れてゲーム内のイベントで手に入る券も漏らすことなく集めなくては……。
――コンコン、と不意に自室の扉を叩かれた。きっと晩御飯の準備が終わったから呼びにきたのだろう。
俺はいそいそとスマートフォンの画面を落とし、軽く伸びをしてから部屋の扉を開いた。
「……ご飯、出来たから早く来て」
扉を開けると透明感のある綺麗な声が耳朶を打った。
目も合わせず、抑揚を感じさせない声色で要件だけを伝える。すらりとした体系に長い黒髪と整った顔立ち、見てくれは悪くない妹の優月が扉の前に物静かに立っていた。
「……おう」
最低限のやり取りを済ませるとお互い無言のままに階段を降りていく。パタパタと二つの重なるスリッパの音だけが空間に響いては消えていった。
「優月、最近は学校で何かあったりした?」
「……えー、なんだろ。来週から中間テストが始まる、とか?」
「もうすぐじゃないの。……ちゃんと勉強してるんでしょうね」
「あはは、はは……」
父と母、俺と妹の4人で食卓を囲んでいるが、男連中は基本的に母と妹が会話しているのを聞いているだけだ。話を振られたら軽く相槌を打つ、そんな風になったのも俺が大学生になった頃からだろうか。
昔は隣に座る優月がしつこく話し掛けてきていたけれど、すっかり兄離れをしたみたいで会話どころか目も合うことは少ない。父にもあまり話し掛けないところを見ると、思春期特有の行動に思える。寂しさを感じないこともないけれど、今の俺には大切な推しがいるのだ。
「――陽斗が優月の勉強を見てあげたら?」
待ち受けに設定している雪奈のSSRイラストをちらりと眺めていると、母から不意に声を掛けられた。俺は隠すように画面を付けたままスマホを膝の上に置き、逡巡する素振りを見せてから口を開いた。
「……優月が嫌がるだろうし、俺もちょっと忙しいからごめん」
「…………」
母は困ったように苦笑すると食事を再開させた。優月は黙ったまま俯き、少しだけこちらに顔を向けていた。親から勉強の話をされることが憂鬱なのは俺だって痛いほど分かっている。
俺の大学受験の時は本当に毎日のように心配をされていた。無論、塾代や受験費等の馬鹿にならないお金を掛けてもらった身なので強くは言えないんですけどね……。
妹の優月は高校2年生なので大学受験をするのであれば、また同じようなやり取りを聞くことになるんだろうなぁ。なんて遠くない未来への憂いを隣の妹に向けようと横を覗くと、何時ぶりだろうと悩むくらい久しぶりに優月と目が合う。
少し紅潮した顔は昔よりも当たり前だが大人びて見えた。
それも束の間、優月は機敏な動きで前を向き直し、お椀を持って味噌汁をゆっくりと啜って一息つけるとぽしょりと言葉を溢した。
「に、似てるよね……わ、わたしに……………」
俺はこの時の優月の言葉の意味を、暫く放置して暗くなってしまったスマホの画面からは理解出来なかった。
――――その日の夜、俺は久しぶりに昔の夢を見た。
「お兄ちゃん、私もアイドルになれるかな……?」
「そうだなあ、優月なら多分なれるんじゃないか? 可愛いし、声も綺麗だしな」
ソファーに並んで座って当時流行っていた女児向けのアニメを二人で見ている。優月は小学生に上がりたてで、隣には大好きなランドセルを置いていた。この頃の妹は気に入っている物は傍に置いておきたい性分で、当時のお気に入りグッズを持っては俺の隣へと向かって来てくれていた。
「やったー! アイドルになれたらどんな人とも一緒に居られるんだよね?」
「あの人気アイドルの男とも近付けたし、確かにそうかもな」
見ているアニメの主人公は人気アイドルに一目惚れをして、そのアイドルに近付くために自分もアイドルになったパワフルな女の子。ドジで頼りないけれど、アイドルに対して真摯に向き合う姿には少し尊敬していたっけ……。
俺の目を見て、溢れんばかりの笑顔で話す少し歳の離れた妹。この時の俺たちは、誰から見ても仲の良い兄妹で居られたのに――。
* *
「や、や、やったぞ! 本当に1位になったんだ!」
4月中頃から1ヶ月行われた総選挙と呼ばれる人気投票、その名誉ある1位に俺の推しである雪奈の名前が記載されていた。詳細ページに飛んでみると、雪奈の優美なドレスを着た新イラストが目に飛び込んでくる。
水色の綺麗な瞳、そして漆のような艶のある綺麗な黒髪、それが大きく開けた白い背中に垂れた様相には息を吞むしかあるまい。きっと声も見た目に負けないくらいの美しい声を付けてくれるんだろうなぁ……。
そんな風に幸せのままにしばらく放心していると、イラストの下に小さく記載されていた声の実装についての補足事項を見つけた。
「声優は9月頃に発表を予定しており、今回も一般公募のオーディションを行います――か」
9月までは待ち遠しいけれど、念願のボイス実装が約束された今は幸せで一杯だった。そんな浮かれた状態のままに、あまり稼働させてない、フォロワー数も少ないアカウントで今の気持ちを呟こうとアプリを立ち上げる。
何度も書いては消してを繰り返し、最終的に表示された文章は『雪奈の声優も絶対推します』なんて当たり障りもないものになってしまった。
* *
「最近、優月は本当に頑張ってるわよね。首尾はどう? 合格できそう?」
6月に入り、気温と共に湿度の上昇を感じる季節になった。中間テストも無事に乗り切った後と言うのに母がまた勉強について妹に訊いている。それにしても、高校二年生時点で合格出来るかは分からないだろうよ。
優月はこちらを伺いながら答え辛そうにしている。俺は仕方がないな、と助け舟を出すために口を開いた。
「へー、優月はもう受ける大学決めたのか、偉いな」
「……? あんた聞いてないんだっけ?」
俺は高校三年の夏まで志望校を確定させてなかったのに、という自虐ネタで話を逸らそうと思っていたのだが、母からの怪訝そうな表情に戸惑いを覚えた。正面の父の表情は1ミリも変わっていないので知らないのは俺だけなのだろうか。
「――ちょっとお母さん!」
「あっ、内緒だったわね…………陽斗は最近仕事はどう? もう流石に慣れた?」
明らかな誤魔化しに腹が立ったりはしないのだが、優月は何か受験校を隠したい理由があるのだろうか。もし仮に遠くの大学へ行きたいと言うのであれば、そりゃあ兄として心配はするけれど反対はしないつもりなのに。
「……はは、もう慣れているよ」
そうだ、優月が俺に話してくれないことなんてもう慣れ切っているのだから。
――――それは俺が大学2年生になった春だった。
珍しく大学の講義が早く終わり、帰り道に下校中の妹に遭遇した。二人で並んで歩くも何故だか優月の返事が普段よりもたどたどしい。
中学の制服を身に纏った優月は年相応に成長していて、きっと思春期に突入していたんだと思う。そんなことにも気付けなかった俺は揶揄い交じりに理由をしつこく訊いてしまっていた。
「母さんたちにも絶対に言わないから話してくれよ」
隠し事なんてないんじゃないかと言えるほど、本当に仲の良い兄妹。これまでにも二人だけの秘密をたくさん作ってきた。だから、俺がこう口にすれば絶対に話してくれるなんて甘ったれた自負。
少し早足で優月の正面に回り、俺は緊張もせずに妹の言葉を待っていた。当たり前のように向けられるはずの瞳と悩みに向き合いたかった。
「…………お兄ちゃんには、言えないよ」
吹けば消えてしまうくらいの小さな声、それがはっきりと聞こえてしまった。
唖然とした俺を置いて、優月はたった独りで歩き始める。俯いたままに真横を通り過ぎ、気付けば駆け足になって遠くへと。
俺は今でも鮮明に思い出せてしまう。夕焼けに染まった優月の横顔――そして、俺を映そうとはしなかった綺麗な瞳を。
* *
悶々とした夏が過ぎ、いよいよ推しに声が付く(予定の)月へと移り変わる。
俺の所属している部署では8月頭から仕事は繁忙期へと入り、連日残業の嵐により終電で帰ることも珍しくない日常に足を踏み入れていた。
だがしかし、人間は目標があれば何とかなるもので、日に日に近付いてくる待望の瞬間を夢見ていれば長過ぎる拘束時間にも……ギリギリで耐えることが出来ている。平日は兎も角として、休日まで仕事が入るのはメンタルはまだしも身体は悲鳴を上げ始めていた。
そんな辛い業務もおおよそ片付き、後はたんまりと振り込まれた残業代を声付きSSRのために石へと変換するだけ。例年通りであれば今日がその日の筈なんだ。
時計の秒針が次の音を奏でるまでに自分の心臓が3回脈を打つ。緊張の更新直前に俺はひたすらにアプリを起動しては閉じ、また起動して新しいデータが来ていないかを逐一チェックしていた。
「……こっ、更新データが来た!」
更新データに伴ってアプリには強制で再起動が入る。ロードに掛かる時間が待ち焦がれたその時だと教えてくれていた。
びっしょりになっている手汗を履いているパンツで拭いながら、ロード中のゲージが増えていくその瞬間瞬間を逃さないように目を見開く。今は瞬き一つすら遠慮して頂きたい。
そして、遂に雪奈の声が再生される――――。
「――お疲れ様です、プロデューサーさん」
耳に届いた透明感のある声、初めて聴いたとは思えないほどに俺の耳に馴染んでいく。恐らく何かアニメやゲームで聞いた声なのだろう。
今はただ、漸く聞こえるようになったその声にむせび泣こう、そんなタイミングだった。
――コンコン、とドアをノックする音が響く。きっと晩御飯の準備が終わったから呼びにきたのだろう。
だが、今日という今日はそれどころではない。家族には先に食べてもらいたかったので、その旨を伝えようとドアへと向かうと扉が勝手に開いた。
いつもと変わらないその姿、だが今日は真っ直ぐに俺の顔を見て静かに微笑んでいる。彼女の手に握られたスマホの画面には俺がさっきまで見ていた画面が映し出されていた。
そして口を小さく開き、昔と変わらない笑顔で言葉を紡ぎ始める。
「お疲れ様です、……お兄ちゃん」
――さっき聴こえたばかりの、雪奈と全く同じ声色で。
私の趣味全開で書いた作品です。感想とか頂けたら嬉しいです!
もし、色んな方に続きを要望してもらえたら連載作品にするかもしれません。