悪魔祓い編・第6話 封魔の余韻
I 静けさの裂け目
朝は来た。けれど、谷都の空は薄い青灰に濡れていて、音がひとつ足りない。
屋台は帆布を上げ、パン屋は小麦をふるい、魚屋は氷の箱を開く。なのに、街全体が耳を澄ませたまま止まっている。夜の囁きだけが、石畳の隙間にわずかに滞留しているのだ。
胸の裏でぽん/ちり/こ/くが遅れて重なる。最後のくだけが、水面に落ちる針のように細い。
ヨハンは包帯の下で逆薔薇を握り、低く言う。
「掴め――終わったわけじゃない。だが、いまは“余白”がある」
ボミエは潮封珠を胸に押し当て、耳をぴんと立てた。
「わたしは……街の息が戻っていくのを感じるニャ。でも、地下のどろりがまだ眠ってないニャ」
ナディアは笛を背に押し当て、背骨で呼吸を数える。
「嫌い……でも、今日は“輪”が軽い。歌える」
ミレイユは名録を開き、余白の中央に句点をひとつ置いた。
息は座
闇は影
名はあと
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II 副隊長、岸に戻る
教会裏の浅い入り江――地下水路の排水口が小さく口をあけた先――で、戦靴の爪先が水に触れていた。
衛兵が二人、静かに膝を折り、布を掛ける。
その下から伸びた手は、戦の痕と、誰かの手を守ろうとして折れた指の痕を持っている。
カイルが祈りの言葉を切り、布をそっとめくった。
レオン・グラズは、眠っていた。顔は穏やかで、頬に泥と赤い粉が薄くこびりつき、唇には乾いた塩の白が残っている。
胸の上には、砕けた封魔の球の欠片が光を吸っていた。
マリアベルがそっと欠片に触れ、息をのみ、首を横に振る。
「……生きてはいません。けれど、この欠片は、まだ誓いを掴んでいる」
ヨハンは膝をつき、レオンの手を握った。
硬い。だが、その硬さは拒絶ではなく、手を放さなかった者の硬さだ。
「掴め――お前の選んだ“守る”は、いま座につこうとしている」
ボミエのしっぽが細く震え、目が滲む。
「わたしは……レオンの“やさしさ”の匂い、ちゃんとわかるニャ……」
衛兵たちは誰も泣かなかった。代わりに、胸の前で右拳を二度叩く。谷都の弔い方だ。音は小さい。けれど、鈴のない鈴が鳴らずに鳴ったみたいに、丘まで届いた。
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III 封魔の球、もういちど
教会の聖壇。蝋燭は低く、空気は澄んでいる。
マリアベルが祭壇布を広げ、砕けた欠片を中央に並べた。
ひとつは祠で拾った星形。ひとつは昨夜、祭壇で砕けた楔形。そして、レオンの胸から持ち帰った涙形。
ルーシアンが瓶を三本出し、指で配合式を描く。
「乾:曇=1:2、そこに“薄き息”を一滴。……“人の誓い”が媒になる」
ミナが風紙をめくり、細い声で囁いた。
「……“誓い”は、レオンさんの“守る”。それを……座にする……?」
カイルが頷き、震えを飲み込みながら言う。
「彼は悪魔ではなく、誰かのために選んだ。なら、その選びは“契約”じゃない。祈りに変えられる」
ナディアが背で輪を置く。
「嫌い……でも、歌は“座”にできる」
ボミエが杖先で欠片の周囲に八点環を撒いた。
「わたしは、座を縫うニャ。崩れないようにニャ」
ヴァレリアが盾の角で祭壇の額を軽く叩き、角度を鈍らせる。
「護〳句〳掴め〳礼。よい角度で座らせる」
ミレイユは句をしたため、息を合わせる。
誓いは息
欠片は座
名はあと
ヨハンは逆薔薇で欠片の芯をひとつずつ通り座りさせ、最後に涙形に触れた。
「掴め。レオン、お前の“今”を――ここに置く」
光は叫ばなかった。
白がひとつ、深く吸い込まれ、祭壇上に小さな球が鳴らずに鳴った。
封魔の球――鎮声珠。囁きと契約の音を眠らせる珠。
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IV 目覚めた街、眠らない影
昼。谷都の風は少し軽くなった。
市場の天幕には、新しい札が増えている。「名はあと」と墨書きした布切れがあちこちに括りつけられ、代筆屋は“免責札”の束を棚から下ろして紙袋に仕舞った。
吏の仮面は、額の角度をわずかに鈍らせ、人間の顔に戻る。
徴の市は“値”を取り戻し、名を値札から外した。
けれど、明るみには別の影も差した。
昼の光を正面から浴び、瞳孔の開きをまったく変えない女が、葡萄酒の瓶を持ち、笑った。
白い指、冷たい唇。皮膚が昼の色を理解していないのに、それを完璧に演じてみせる。
――上位吸血鬼。
ヨハンは視線だけを投げ、声を出さない。女は気づいていた。それでも、顎で乾杯をよそよそしく寄越し、人混みに紛れた。
ナディアが小声で言う。
「嫌い……でも、今日は追わない。弔いが先」
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V 告別
夕刻、教会。
レオン・グラズの棺は、白木ではない。谷都の古い慣習で、灰の板に柩絵を描く。
マリアベルが黒い絵具で、盾と子の手の図を描く。
カイルは読み上げる。「名は呼ばない。ただ“在”を置く」
衛兵たちは拳を胸の前で二度叩き、棺の横に徽章を置いた。
ミナは風紙を胸に抱え、そこで初めて声を出した。
「……ありがとう」
ボミエは潮封珠を抱え、しっぽを膝に巻きつけた。
「わたしは……弱いニャ。でも、離さないって決めたニャ。誰の手も、もう」
ヨハンは棺に触れ、逆薔薇を額に当て、静かに言う。
「掴め。――お前の“守る”は、これからも街で息をする」
ミレイユが名録を開く。余白に、ただ一行。
守るは座
息は継がれ
名はあと
鐘は正順で三度、低く短く鳴った。
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VI 余波の掃除
夜。
谷都の隅々で、小さな黒い手がまだ壁裏に潜んでいた。祠からあふれ、誰にも拾われずに残ったレッサーデーモンの薄皮――音も立てずに窓枠を舐める、後片付けの獣。
ナディアが背でぽんを刻み、路地に無音の輪を置く。
「嫌い……でも、これは奏でられる雑音」
ルーシアンは乾で薄皮の糊気を剥がし、曇で粉塵を寝かせ、瓶の口で小さな眠りを吹く。
「おやすみ。目が覚める頃には、お前たちの“呼び手”はもういない」
ヴァレリアは盾で角を守り、角度の鋭い路地へ礼を打つ。
「護〳句〳掴め〳礼。ここを歩く子どものための角度に」
ミレイユとミナは、門扉に短句と句点を置いてまわる。
ここは座
影は眠る
息は家
ボミエは潮封珠で窓辺を撫で、猫のように跳ねて屋根を渡る。
「わたしは……見張り猫やるニャ。夜の縁を歩くのは得意ニャ」
その夜は、誰も連れ去られなかった。
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VII 鎮声珠の試し
翌朝、教会の地下室。
新たに生まれた鎮声珠は、静かに呼吸していた。
マリアベルは珠を両手に挟み、呪句ではなく祈りを短く紡ぐ。
「声の“向き”を、人の方へ」
珠は鳴らずに鳴り、壁の石目の間を走っていた逆さの祈祷の名残を、糸を切るようにほどいた。
ナディアが低く呟く。
「嫌い……でも、きれい。逆が眠る音」
ルーシアンが記録をつける。
「効果:囁きの減衰、契約の滑り。副作用なし。ただし長時間使用で人の声も少し眠くなる。用法、短時間、交代制」
ヨハンは頷き、逆薔薇の柄で珠の芯を軽く叩く。
「掴め。これは“黙らせる”ためじゃない。座を返すために使う」
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VIII 昼の来訪者
正午の少し手前、教会の扉に影が立った。
黒ではない。白い昼の影。
葡萄酒を一本、焼き印のついた箱に入れて抱えた女は、扉が開く前から中の温度を知っているようだった。
「献酒よ。谷都の無事を祝って」
声は澄んで、死を知らない。
マリアベルが受け取ろうとした瞬間、ヨハンが一歩だけ前に出た。
「掴め――感謝する。だが、教会は日影の酒は受け取らない」
女は唇だけで笑った。
昼の光が彼女の頬をまっすぐ打っているのに、影の深さが変わらない。
「また会いましょう。旅人さん。昼も夜も、城の門は開いているわ」
爪先が石畳を書く。音は残らない。匂いだけが、夜の果実の薄い皮を剥いたときのように甘い。
去ったあと、ナディアは短く吐息を漏らした。
「嫌い……でも、綺麗。――あれは“超越者”」
ボミエが眉を寄せる。
「わたしは……彼女の歩幅が怖かったニャ。人の間隔じゃないニャ」
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IX 谷都の約束
夕方、狼煙台の影が長く伸びる頃、ヨハンは市の中心で短く話した。
言葉は少ない。名も肩書も出さない。
「掴め――名はあと。息は先。ここから先、代筆に息を渡すな。代わりに鳴らす鈴はもういらない」
市の年寄りがうなずき、子が真似をして拳を胸で二度叩く。
吏の仮面は机の引き出しにしまわれ、免責札は境内の炉で煙になった。
煙は灰になり、灰は畑に撒かれ、畑はパンになる。名ではなく、息になる。
ミレイユが名録に書き留める。
交易は息
名はあと
鈴は眠れ
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X それぞれの夜
カイルは聖油の瓶を拭き、灯りの芯を短く切った。
「私は弱かった。名で人を見ていた。……でも、もう一度、祈り直せる」
マリアベルは鎮声珠の箱に布をかけ、胸で十字を切らずに扉を撫でた。
「祈りは扉。開けるためにある」
ナディアは背でぽんを三つ刻み、窓辺に無音の輪をひとつ置いた。
「嫌い……でも、眠りは好き」
ルーシアンは配合表を閉じ、瓶を二列に並べ直す。
「湿り/乾き、角度/息……この街は生き物だ。面白い」
ヴァレリアは盾の革紐を締め直し、角を布で磨く。
「角度、よし。礼、よし。……明日も守れる」
ミナは風紙を枕の下に入れ、指で句点を空中にひとつ描いた。
「……おやすみ」
そしてボミエは、屋根に座って月を見た。
潮封珠は胸で静かに温かく、しっぽは風の速さを測っている。
「わたしは……怖がりニャ。けど、逃げないニャ。だって、離さないって決めたニャ」
ヨハンは屋根の端に腰をかけ、逆薔薇を掌で転がした。
「掴め。――お前が押し返した夜は、ここに“座”を得た。俺たちは次の夜へ行く」
月は笑わない。けれど、鳴らずに鳴った。
胸の裏でぽん/ちり/こ/くが、今度は正順に、静かに重なる。
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XI 記録係ミレイユの覚え書き《谷都の祓い・終》
獲得
・鎮声珠(封魔の球):囁き・契約の音を減衰、逆祈祷の変換抑止
・“名はあと”の市規(非公式)
喪失/継承
・レオン・グラズ――“守る”の誓い、座へ移管
観測
・昼間の上位吸血鬼――昼光下で影の深度変化なし。人混みでの歩幅の異常
推奨
・市の門と鐘楼に句点の設置
・鎮声珠は交代運用、使用後冷却
次行
・谷都を発ち、北の峠越え。森・砂・嶺・湿原・鎮声の五調を携え、次の“律”へ
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次回予告
特別編:旅路の記録と登場人物紹介
森の鍵、砂の球、嶺珠、湿原珠、そして鎮声珠。
夜の律に抗って歩いてきた者たちの、名はあとの素描。
祈りの扉の開け方、盾の角度、瓶の配合、笛の輪、杖の点、紙の句点、そして“掴め”。
その全てを一度、灯りの下で確かめる。
……そして、昼も夜も歩く者の影が、次の街道に立つ――。




