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満潮の門、赦しの刃




I 静穏の皮膚を剥ぐ音


 満潮まで、あと一夜。

 港は見かけ上の静けさを保っていたが、その皮膚の下では、潮が小刻みに痙攣していた。風は東へ、西へと迷い、海鳥は低く輪を描くだけで鳴かない。鐘楼の綱は自重でわずかに軋み、石畳は昼の熱を手放さずにいる。夜が、どこからでも滲み出せるよう準備をしている――そんな空気だった。


 礼拝所の奥、ヨハンは羊皮紙を前に黙祷の姿勢のまま指を動かしていた。『赦しの定式』の断片に、細い筆で補助線を入れ、主語の転換と呼応の位置を何度も確かめる。祈りは歌ではないが、歌のように呼吸と順序がある。間違えれば、呼びたくないものまで呼んでしまう。


 戸口から、そっと覗く影。ボミエが新しい杖――トーロンが鍛えた「星潮のアストラル・タイド」を胸に抱いて立っていた。ピックルの芯が宿る細身の器は、触れるとひどく静かな脈動で応える。


「ヨハンさん……練習、もう一度つきあってほしいニャ」


「もちろんじゃ」


 ヨハンは立ち上がり、祭壇の前に二人分の距離を空けて向き合う。杖の先で空に三角を描くと、ボミエは震えない手で結び目を作った。昨夜より、線が素直だ。恐怖は消えない。それでも線が先に走る。ピックルの癖に似て、けれど違う、柔らかな軌跡。


「……ピックル、見てるかニャ」


 呟きに杖がいっそう静かに鳴った。



II 潮の鼻と均衡の女


 昼前、潮の匂いに混ざって、甘い香の糸が路地へほどかれた。エステラ――“潮の占い師”がアーチの影に腰を下ろし、扇で自分の足首を軽く叩く。


「満潮の夜、港の“塩倉”が門になる。海の扉と陸の扉を“同時に”開ける仕掛け。セラフィナは、二つの扉の間に街の魂を挟み込むつもりよ。押し潰せば、血も祈りもまとめて自分の糧になる」


「鍵穴は二つ、鍵は一つ……」


「そう。だから、普通なら『どちらかを閉じれば、もう一方が開く』。でも彼女は“檻”で街中に小さな鍵穴を無数に開けてる。結果は同じ。――どちらに入れても、痛い」


 エステラはヨハンの胸元の銀を見た。視線は穏やかだが、鼻は相変わらずよく利く。


「御坊。あんたの鍵は、扉ではなく“間”に挿しな。扉同士の隙間。星と潮と手の、ちょうど触れ合う位置に。そこに鍵は入る」


「そんな鍵穴があるのか」


「作るの。猫の子が。……夜までに」


 エステラは視線を滑らせ、ボミエの杖先にとまった。猫の子は耳を立て、胸いっぱいに息を吸う。


「作るニャ。ぜったいニャ」


「いい返事」



III 塩倉の床下、逆さの文


 夕刻、アメリアの少隊、ルシアン、ライネル、ヨハン、ボミエは古い塩倉へ向かった。海風が直接当たらぬよう半ば地下に沈んだ倉は、壁一面が白く、床板の隙間から塩の粉が霧のように舞う。中央には古い磐座。表面に刻まれた文様は、あの海底礼拝堂にあったものと似ている――ただし、鏡に映したように“逆さ”だ。


「逆さに読むな……だったな」


 ヨハンが口の中で言い、羊皮紙の一節が疼く。セラフィナのやり方はいつも“欠落”と“逆さ”。赦しの言葉から一点だけ抜き取り、痛みの方程式に組み替える。


 床の隙間から、黒い粉。ライネルが指先で掬い、鼻先に近づける。


「やはり“血の契約”の灰だ。彼女は古い血を焼き続けている。……俺の祖が結んだ忌まわしい契約も、その火で何度も蘇る」


「祖?」


「ヴァンパイアの実験を監督した“見届け人”の系譜。俺はその残滓だ。だから匂いがわかる。だから、壊す役目が、俺の血に刻まれている」


 ライネルは刃で自らの指先を裂き、灰に一滴落とした。灰が微かに泡立ち、古い印が浮き沈みし、やがて消える。


「ひとつ、結び目を断った」


 ルシアンが頷き、倉の裏手の水路に耳を当てる。


「潮が、速い」


 外で鐘が二度鳴り、間を置いて三度鳴った。ナディアの合図――“集結、そして静寂”。街は息を合わせつつある。



IV 黒衣の来臨、檻の胎動


 夜の第一声は、蝋を裂くような音だった。塩倉の梁から影が滴り、床に落ちると屍の形になる。セラフィナ・ノクティファーは入口の暗がりを撫でるように通り、白い足を塩に沈めた。薄い笑み。星明りを吸い込む瞳。


「良い“器”。猫の子にしては、背筋が真っ直ぐ」


「猫の子じゃないニャ」


 ボミエの声は小さくない。耳は震えているが、杖先はぶれない。ピックルの芯が、ゆっくりと応えた。


「鍵は?」


「ここにある」ヨハンは衣の下の銀に触れた。「だが渡さぬ。鍵穴も、ワシが選ぶ」


「ならば、わたくしが鍵穴を増やすだけ」


 セラフィナが指先を弾くと、塩倉の四方に“透明の胎”が現れた。潮の檻の原型――見えない壁が微かに鳴り、人の記憶に爪を立てる。アメリアが顔をしかめる。ルシアンは水路から冷たい道を引き、檻の足元を濡らす。ライネルは炎の符を走らせ、檻の縁の温度をわずかに狂わせる。


「ボミエ」


 ヨハンが呼び、空に三角を描く。星の線。猫の子は結び目を作る。指が震え、結び目がほどけそうになったとき、杖の芯が“ピックルの癖”で押さえた。星は、二人で引いている。


「行けるニャ」


「行け」


 透明の胎がひとつ、星の釘で視える形になり、アメリアの刃がそこを叩く。ひびが入る。内側の潮が一瞬だけ息を止める。


「痛い」


 セラフィナは甘えた声で、しかし目だけで噛みつくように笑った。「なら、もっと」


 塩倉の床一面に“逆さの文”が灯る。痛みは増幅され、檻は増殖する。人の顔が忘れられ、名が剥がれ、連なった手が離れかける――その度に鐘が鳴り、ナディアの笛が呼吸を戻す。街は、まだ繋がっている。



V 反歌はんか――星の逆位相


「ニャ……ひとつに結んでも、増えるニャ……!」


「ふたつを“逆に結べ”。同じ節で、逆の拍じゃ」


 ヨハンは赦しの定式の三節目――主語が“手”から“間”へ転じる箇所を開く。ピックルが得意だった“星の返し歌”。ボミエは杖を持ち替え、線を描きながら、別の手で逆位相の小さな輪を重ねていく。星の線が二重になって軋み、透明の胎が自らほどける方向へ、ごくわずかに歪む。


「そこだ!」


 アメリアが一撃を合わせ、ルシアンの水が継ぎ目に流れ込む。檻はひとつ、またひとつと音を立てて沈んだ。


 セラフィナの瞳が夜の底の色に尖る。


「可愛い。――なら、これでどう?」


 彼女は片手を胸に当て、もう片方の手をボミエへ向けた。空気が凍り、ボミエの視界に、白い横顔が浮かんだ。風に笑う、琥珀の目。ピックル。


「ピ、ピックル……?」


 声が細くなる。杖の芯が微かに鳴き、光が乱れる。線がほどけかけた瞬間、ヨハンは自分の掌で彼女の手を覆った。


「それは“影”じゃ。約束の影ではない」


「……う、うんニャ……!」


 ボミエは涙で視界を歪ませながら、それでも結び目を締め直した。線は震えた。だが切れない。ピックルの影は、夜風に裂けて消えた。



VI 血統と破棄


 ライネルが一歩、セラフィナににじり寄る。杖の先で空に古い文字を描いた。


「我らの契約、ここで破棄する。――見届け人の血によって」


「できるの?」


 セラフィナは唇で笑い、目で斬る。「その血は、契約を“続けさせる”ための血よ」


「なら、逆さに使う」


 ライネルは指先を裂き、血で自らの胸に新しい印を描いた。見届けるための眼を閉ざし、記録の口を縫い、代わりに“終止符”の符号を刻む。体がばき、と内側から鳴った。契約の鎖が一本切れ、彼の膝が落ちる。


「ッ……これで、ひとつ……」


 セラフィナの影が僅かに薄くなった。彼女はつまらなそうに肩をすくめる。


「自己否定は、赦しとは違うのよ」


「知ってるさ」


 唇の血を拭い、ライネルは笑った。「赦しは“間”がする。だから俺は、間に席を空ける」



VII 扉と扉の隙間


 倉の奥で、水が低く鳴った。潮が“満ちた”音だ。塩の床石の隙間から、冷たい青が押し上がる。同時に、天井の梁の間にも薄い光が集まり、陸の扉が開きかけている気配がした。


「来た」


 アメリアが息を整え、ルシアンが水に手を差し入れる。エステラの言葉が、ヨハンの耳の奥で跳ねた――“鍵は間に挿しな”。


「ボミエ。星で“隙間”を露わに」


「や、やってみるニャ!」


 ボミエは足を踏み出し、杖先で空と床を同時に結ぶ。星の線が上下に伸び、倉の中央に、刃物の刃先ほどの“空白”が光った。扉と扉の境目。潮と陸の呼吸が触れ合う細い継ぎ目。


 ヨハンは衣の下から銀の鍵を取り出し、掌で温度を移す。ピックルの芯が、ボミエの杖で静かに鳴いた。街の外では鐘が息を合わせ、ナディアの笛が指揮棒になって風を刻む。人々が手を取り合い、名を呼び合う。赦しは主語を捨て、間に移る――。


「Ex voco… Misericordia… inter manus.」


 鍵は扉ではなく、空白に入った。小さな音。刃のわずかな笑い声のような音。塩倉の空気が反転し、扉同士が互いを押し合う力が均される。檻が鳴き、結び目が緩み、屍の喉が乾いた音を吐き、光が床に落ちる。


 セラフィナの笑みが、初めて崩れた。


「それは、あなたの鍵じゃない」


「鍵に所有はない。“間”のものじゃ」


 ヨハンは低く答え、ボミエの手をさらに強く握った。ボミエは頷き、涙で星をにじませながらも、結び目を最後まで締めた。



VIII 夜の花の悲鳴


 倒れかけた“満潮の門”を、セラフィナは白い両腕で抱き起こそうとした。影が渦を巻き、屍が再び立ち上がり、塩と血が倉を満たす。彼女は夜の真名を叫び、海の底に眠る古い骨の名を呼ぶ。


 ルシアンが顔を歪める。「名は、呼ぶな」


「呼ばれた名は、返す」


 ヨハンは赦しの定式の最後の節を口にした。主語のない赦し。痛みの分有。手から手へ。ナディアの笛が一度、鐘が二度、子どもが母の名を、老人が若き日の名を呼ぶ。名は“返る”。セラフィナの呼び声の先から、古い骨は海へ戻った。


「やめて」


 セラフィナの声が、初めて細くなった。夜の花が、潮風にちぎれた。彼女の外套の裾が星の線に焦げ、目の底に小さな痛みが灯る。


「あなたたち、どうしてそんなに“分ける”のが上手いの」


「分け合うために、街はある」


 アメリアが剣を構え直す。ライネルが頷き、ルシアンが潮を引く。ボミエは杖を掲げ、最後の星の釘を打った。


 “満潮の門”は閉じた。

 扉と扉の間に挿された鍵は、音もなく砕け――いや、砕けたのは鍵ではなく、門の“欲”のほうだった。


 セラフィナは舌を鳴らし、笑みを取り戻す。


「今日は、ここまで。夜はまた来る。満潮も、何度でも」


 彼女は影に沈み、塩倉の白に黒い花弁だけを残して消えた。



IX 余熱と余白


 倉の外に出ると、夜気が胸を洗った。鐘は静かに三度鳴り、街の窓が一つ、また一つと灯る。避難路に灯された小さな火が、川のようにつながっている。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが黙って肩を組む音。


 ライネルは壁にもたれ、深く息を吐いた。指の裂け目から血がまだ滲む。アメリアが無言で布を結び、ルシアンが海水で洗う。ナディアがパン籠を突き出し、リオがその影でうつらうつらする。レーナは看板の裏に“星と潮の間に鍵”と走り書きした。


 ヨハンはボミエの肩に外套をかけ、顔を覗き込んだ。


「ようやった」


「ピックルが、助けてくれたニャ……わたし、ひとりじゃなかったニャ……」


「そうじゃ。ひとりではない」


 ボミエは長く息を吐き、杖を胸に抱いた。耳が少しだけ落ち、尻尾が膝に巻き付く。泣かないわけではない。涙はある。だが、涙の奥には火がまだ生きている。


「……次も、逃げないニャ」


「次も、逃げない」


 ヨハンは空を見上げた。雲の切れ目に、星が一つ。ピックルが好きだった小さな星座が、震えるように瞬いている。星は人のために降りないが、人は星のところまで手を伸ばせる――壁に書かれたピックルの文が、胸の裏側で光った。


 エステラがアーチの上からひらひらと扇を振った。


「均衡、今夜は“あなたたち”に傾いた。明日、また鼻で嗅ぐわ。……それと、御坊」


「なんじゃ」


「鍵、ひと欠けだけ“間”に置いてきたね。いいやり方よ。扉は学ぶ。次に開くとき、今夜より騒がない」


「扉が、学ぶ……」


「人も、学ぶ」


 エステラは笑い、影の向こうに消えた。



X 朝のはざま、祈りの縁


 夜明けが近づく。波は穏やかに戻り、風は港の塩を乾かし始めた。鐘が一度鳴り、屋根の上の猫が背を伸ばす。礼拝所の戸口で、ミラが毛布を肩に掛けたまま外を見ていた。ボミエはその隣に座り、杖を膝に横たえる。


「ミラ、大丈夫ニャ?」


「うん。……海、今日は静か」


「星も、静かニャ」


 二人のさざめきの向こうで、ヨハンは祭壇に手を置いた。『赦しの定式』の断片は、今夜の汗を吸って重い。主語のない赦し。間の呼び出し。痛みの分配。――街は覚えた。鍵は間に挿すこと。扉は学ぶこと。星は降りず、人は伸びること。


 ヨハンは胸の前で静かに十字を切った。殴るためでなく、掴むために。

 そして、最後の余白に、短い言葉を置いた。


(まだ、終わらない)


 朝の光が石畳に広がり、潮の匂いにパンの香りが混ざった。ナディアの笑い声。アメリアの短い号令。ルシアンの水の歌。ライネルの低い独白。リオの寝息。レーナの走り書き。シビラの杖の音――そして、ボミエの小さな、しかし確かな声。


「ピックル。見ててニャ。わたし、もっと遠くまで、手を伸ばすニャ」


 星潮の杖が、朝の端で静かに鳴った。

 満潮は引き、また来る。夜も去り、また来る。

 だがそのたびに、手は増え、結び目は固くなり、“間”は広がる。


 ――鍵は胸に。鍵穴は、わたしたちの“あいだ”に。

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