血潮と星の誓約
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I 静かな朝、重い影
夜明けの港は、どこか張りつめていた。
穏やかな波の音も、潮風に揺れる旗の音も、まるで世界が息をひそめているようだ。
昨日の戦いの跡はまだ生々しい。割れた石畳、焦げた木片、血と潮が乾いた独特の匂い――そのすべてが「犠牲」を語っていた。
礼拝所では、ボミエが静かに祈っていた。
彼女の小さな手には、ピックルの遺した「潮見の星」の芯が握られている。
瞳はまだ涙に濡れているが、その奥には確かな決意が宿っていた。
「ピックル……わたし、逃げないニャ。絶対に、あの女を止めるニャ」
震える声に呼応するように、杖の芯がわずかに脈を打った。
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II 仲間たちの想い
ヨハンは教会の奥で一人、祈りの文句を繰り返していた。
あの夜、ピックルが命を懸けて檻を断ち切らなければ、街も、仲間たちも、生き残れなかっただろう。
その事実が胸に重くのしかかる。
「……守れなかった」
アメリアは壁に立てかけた剣を手に、刃を布で磨いていた。
表情は冷静だが、その瞳には怒りと悔しさが渦巻いている。
「次は、必ず決着をつける。セラフィナ……お前の首を、絶対に」
ルシアンは港で潮の動きを探り続けていた。
波の呼吸が乱れ、海が静かにうねりを溜めているのを、彼だけが理解している。
「嵐が来る。満潮の夜に、すべてが動く」
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III 新しい器
トーロンの鍛冶工房には、鉄と塩の匂いが充満していた。
彼は火床に炭をくべ、炉を赤々と燃やしていた。
「芯は生きてる。なら、器を作り直すしかない」
ボミエは杖の芯を胸に抱きしめ、震える声で答えた。
「お願いニャ……ピックルの、星を……わたしに託してほしいニャ」
トーロンは黙って頷くと、力強くハンマーを振り下ろした。
鉄が歌い、火花が散り、炉の熱が汗を滲ませる。
仲間たちも作業を手伝い、アメリアは火加減を見張り、ルシアンは冷却の水を整えた。
三日三晩の作業の末、新しい杖が完成した。
それは旧い器よりも軽く、しなやかで、海と星の両方の息吹を宿していた。
「“星潮の杖”だ」
トーロンは短く告げた。
ボミエは両手で杖を抱きしめ、そっと囁いた。
「ピックル……ありがとニャ。わたし、強くなるニャ」
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IV 満潮への備え
港の防壁では、昼夜を問わず準備が進んでいた。
鐘楼には合図用の旗と笛、避難路には灯火と標識が整えられ、街の者たちは互いに声をかけ合いながら備えていた。
ヨハンは人々に祈りを教えた。
それは神のための祈りではなく、「隣人のための祈り」だった。
恐怖を抑えるための言葉は、子どもから老人まで、誰の胸にも静かに刻まれていった。
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V セラフィナの影
だが、静寂は長くは続かなかった。
夜半、港の沖に黒い影が現れた。
セラフィナだ。
月明かりを背に立つ彼女は、薄い笑みを浮かべていた。
「準備は整ったのね。可愛い子猫ちゃん……今度は、どれだけ踊ってくれるのかしら」
その声が届いた瞬間、潮がざわめき、港全体が不気味な低音で震えた。
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VI 決戦の前夜
礼拝所に戻った仲間たちは、静かに座ってそれぞれの思いを噛み締めていた。
アメリアは剣を磨き、ルシアンは水の流れを読むように瞑目し、ライネルは古い呪文を何度も口の中で反芻する。
ヨハンは祭壇の前に立ち、仲間たちを見渡した。
「……明日の夜、決着をつける。
ピックルの犠牲を無駄にはしない。
この街を守るために、すべてを懸ける」
その言葉に、全員がうなずいた。
そして、ボミエが小さな声で、しかし強く宣言した。
「ピックル……わたし、絶対に勝つニャ。
みんなで、生きて帰るニャ」
その声に応えるように、「星潮の杖」が静かに光を放った。
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VII 嵐の兆し
夜が更けるにつれ、風が強くなり、波は荒れ始めた。
潮は確実に満ちていく。
街の灯は消え、鐘楼の鐘が低く鳴った。
満潮の夜が――すぐそこまで迫っていた。