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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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深層第二段、眠りを破る刃




I 港の白気、ひそかな合図


 夜明け前の港は、紙の裏に霜が降りたみたいに白かった。

 梁の上で灯りの席がとん。続いて胸の奥でぽん/ちり/こ、最後にまだ名を持たないくが喉の裏に擦れた。


 ヨハンは桟橋の端に立ち、包帯の下で逆薔薇を握った。

「……今夜は眠りを狙って来る。鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は喉――掴め」


 ナディアは笛を背に抱き、目を細める。

「嫌い……でも、“背中の歌”は覚えた。見ないで降りる」


 ルーシアンは曇と乾の瓶を入れ替え、濁りの輪郭を片目で測った。

「湿りは“眠”の方へ寄せる。紙が寝返りを打っても、繊維を先に寝かせる」


 ヴァレリアは礼の刃角と盾角を三度合わせ、空気の“角”を探る。

「“順番”を食う奴が出る。護〳句〳礼、掴め。崩すなら、わたしたちの手で崩して守る」


 ミレイユは名録の余白に梯子を増やし、梁の影に三画目の半身を素描した。

「“四つ目”はやっぱり半拍。……でも、今夜“書く側”の指が一度触れる」


 潮封珠を胸に抱いたボミエは、杖の結び目に指をそっと絡ませ、耳をぴんと立てた。

「わたしは、点で道を縫うニャ。眠りを破る刃が来ても、“名”は渡さないニャ」


 トマスの鐘が二打。港の水面がひと皿ぶん沈み、南東の皿に黒い穴が開いた。



II 主水脈の口、背で歌う降下


 舟は沖に滑り、主水脈の口へ吸い込まれる。

 一枚目の断層で色が逃げ、二枚目で鼓動が遅れ、三枚目で呼吸が数になりかける。


 ナディアは笛を背骨に当て、声にならない声を置いた。

「嫌い……でも、“鳴らさず置く歌”」

 ぽん/ちり/こ/くが胸の裏で座り、舟は押し潰されずに滑る。


 ルーシアンの曇が天井へ、乾が底へ、湿りの畝を均し、ヴァレリアの礼が降下角を止める。

 ミレイユの梯子が水平を置き、ボミエの句点が舟縁に足幅を固定する。

 ヨハンの掴めが流れの芯を握った。



III 層八十九《眠裂みんれつの回廊》――刃が夢を裂く


 回廊の壁は淡い膜で、まぶたの内側みたいに薄い。

 天井から垂れる細い刃糸が、眠りの繊維に触れる者の夢を裂き、目を無理矢理覚まそうと鳴る。


 ヴァレリアが即座に合図。

「角を見る礼! 刃は見るな、角だけ見ろ!」


 ボミエは杖の影で床の縁を探り、句点を等間で落とす。

「わたしは、影で点を見るニャ。夢は“文”にならないニャ」


 ナディアの無音が刃鳴りを殺し、ルーシアンの乾が刃糸の滑りを重くする。

 ミレイユは短句で歩のリズムを束ねた。


眠る角

見ずに進み

点で渡る


 刃糸は空振りし、回廊は一本の“寝息”のように緩んだ。


 だが、最後の曲がり角で、低い舌打ちが床下から上がる。

 「……起きろ」

 眠りを破る刃の声だった。



IV 層九十《夢葬の聖壇》――寝台に名を刻ませる祭具


 石の寝台が六、半円に並ぶ。頭側の銘板にはうっすらと名の窪み。

 “横たわる者、自らの名を刻め”――壁の砂文字が瞬時に現れて消えた。


 ミレイユが息を呑む。

「“自己署名”の罠。寝台は“眠りの形”を奪って“名前”にする」


 ナディアが背で歌を置いた。

「嫌い……でも、名はあと。今は息」

 ボミエが銘板の縁に句点を打ち、穴を先に埋める。

「わたしは、穴に点を置くニャ。名は入れないニャ」


 ヴァレリアの礼が寝台の角を止め、ルーシアンの曇が彫り跡の輪郭を溶かす。

 ヨハンの掴めが祭壇全体の芯を握ると、寝台はただの石に戻った。


 その時、背後から硬い靴音。

 「封じて“寝かせる”ばかり。――つまらない宗派だ」



V 覚刃かくじんつかさ、アウェイクナー


 回廊の闇から、一人の男が出た。

 黒い革衣、胸元に白い縫い取り――覚刃院の印。

 片手には薄い反り刃。刃は震え、空気の眠気だけを選んで切る。

 「醒刃アウェイクナー。眠りを破るための刃だ」


 ヴァレリアの目が細くなる。

「黒帆の手先……刃司か」


 男は肩を竦めた。

「骨の王が数を取り損ねた。ならば“眠り”を剥がして名を露出させる――組織的な手当だ」


 ナディアの背中が硬くなる。

「嫌い……名を先に呼ばせようとする」


 男は刃の峰で空を払う。刃鳴りはしないのに、胸の奥のまどろみだけが細く裂けた。

 「さあ、目を開けてしまえ。眠る者ほど易い」


 刃司の足元――長靴の影が、銘板の窪みにぴたりと届いている。

 “刻む前提”で立っていた。



VI 刃と歌、背中の攻防


 ヴァレリアが踏み込む。

 礼の刃角が醒刃の角と噛み合い、火花の代わりに冷気が散った。

 ルーシアンが乾を床に滑らせ、摩擦の段差で刃司の体重移動を狂わせる。

 ミレイユの梯子が足場の段を示し、ヨハンが掴めで室内の芯を握る。


 刃司は軽い。角度を忘れない。

 「順番、ね。――句を先に置いたのは正解だ。だが、礼は最後に回した方が美しい」


 背で歌うナディアの肩が、刃の風だけでわずかに凍る。

「嫌い……でも、背の歌は見られない」


 その瞬間、刃司はふいに背側へ回り込んだ。

 「見なくても、聞ける」

 醒刃が空を撫で、歌の温度だけが薄く裂かれた。


 ナディアの喉でぽんが一瞬、座を外す。

 ボミエの耳がぴく、と震えた。

「わたしは――座らせるニャ!」

 杖の先で床に句点を強く打ち、ぽんの席を指で示す。

 ぽんは戻り、ちり/こ/くがその周りに寄った。


 刃司がほんの少しだけ感心した顔をした。

「猫の魔法……点で座らせるか。だが――」


 床の影が伸び、銘板の窪みが四つ、猫の足を狙って滑る。



VII 潮封珠、初めてのゆる


 胸の球が熱を持つ。

 女神イケの波が、言葉にならない合図でボミエの掌に触れた。

 > ――見ないで、抱いて。

 > ――“切られたもの”を責めないで


 ボミエは息を飲み、潮封珠をそっと掲げた。

「わたしは……抱くニャ。切られた歌を、責めないニャ」


 球の中で網が光り、刃司が削いだ“歌の毛端”だけがふわりと吸い込まれる。

 名も主語も奪わず、切り口の痛みだけを眠らせる。

 ナディアの背でぽん/ちり/こ/くがふたたび温度を取り戻す。


 刃司の瞳がわずかに苛立つ。

「……赦しを使うか。封ではなく。厄介だ」



VIII 層九十一《寝衣の天蓋》――上から降る“まぶた”


 聖壇を抜けると、天井から薄い寝衣がひらひらと降ってくるホールに出た。

 肩に触れた者の目を閉じさせ、夢の中に“署名欄”を出す。


 刃司は楽しそうに足取りを軽くした。

「さあ、寝て書こうか」


 ヴァレリアが盾を高く掲げ、天蓋の角を打つ。

 ルーシアンが曇で繊維を湿らせ、乾で床の滑りを止める。

 ミレイユの梯子が目を閉じたまま歩ける段を書き、ナディアの無音が夢の声を消した。


 ボミエは潮封珠を胸に抱き、杖で点列を落とす。

「わたしは、寝ないニャ。夢には点しか置かないニャ」

 天蓋の端が点に引っかかり、署名欄は白紙のまま裂けた。


 刃司の醒刃が、紙の白を嘲るように薄く鳴る。

「白紙のまま布を裂く――それも一種の署名だが?」


 ヨハンが掌を上げる。

「掴め。――“署名”は行為じゃない。主語だ」

 掴み直した瞬間、天蓋はただの布に戻った。



IX 層九十二《眠番ねむつがいの渠》――守り手が選ぶ


 深い運河。両岸に石像の番が並び、眠る者に橋を渡すかどうかを選ぶ。

 二体が首を傾け、こちらを審べた。


 刃司が一歩前に出る。

「私は起こす者。眠りは罪、目覚めは罰の終わり」

 石像は眉をひそめ、彼の足元から橋の影を退かせる。


 ナディアが背で歌い、ボミエが点で足場を縫う。

 ルーシアンは曇で石の喉を湿らせ、ヴァレリアが礼で額を正す。

 ミレイユが短句を渡した。


眠は在

赦して渡る

名はあと


 石像はゆっくりと頷き、われらの前に橋が降りた。

 刃司の側には橋は降りない。


 刃司は歯を見せずに笑う。

「いいね。宗派の違いが橋を分ける」



X 眠りを破る刃、封〉の間を嗅ぎ当てる


 橋を渡り終えても、刃司は影に沿って並走してくる。

 醒刃がときおり空を撫で、そのたびに遠く下の層から寝息が逆に揺れた。


 ミレイユが名録の端に指を当てる。

「封〉の間の喉が、咳をした……」


 ヨハンは逆薔薇の痛みで方向を読む。

「奴は“息”を切り口にしてくる。潮封珠、温度は?」


 ボミエは球を抱き、頷く。

「わたしは、大丈夫ニャ。網は張っているニャ。赦す準備もニャ」

 女神イケの波が、胸の内でひと寄せした。



XI 半ば開いた扉――喉が咳をする


 最下層手前の円環へ降りる。

 喉の扉は半ば開き、黒い空隙が吸気と咳を交互に繰り返していた。

 折れ剣と薔薇の古い円盤――その縁に四つの印。

 在/返/護/( )。最後の空欄に、今夜は薄い尾が一画だけ触れている。


 刃司が影から身を離し、扉の前に立った。

「名が無いから、眠りは終わらない。――善意の刃で終わらせてやろう」


 醒刃が空を撫でる。

 歌の毛端がまた裂け、喉が咳をした。


 ナディアの膝が少し折れた。

「嫌い……でも、背で置き直す」

 ぽんが座り、ちり/こが寄り、くが喉の裏で胎動する。


 ボミエは前に出た。

「わたしは、抱くニャ。切れたところを責めないニャ。赦すニャ」

 潮封珠の網が光り、切り傷だけを眠らせる。

 名は起きない。主語は港のまま。


 刃司の目が初めて怒りを帯びた。

「赦しは“税”にならない。数えられない。――だから嫌いだ」



XII “順番を崩して守る”儀、三歩と一拍


 ヴァレリアが短く叫ぶ。

「三歩で順を崩す! 句→護→掴め→礼!」


 ボミエが句点を落とし、ナディアの無音がその内に歌を置く。

 ヨハンの掴めが円盤の芯を握り、ヴァレリアの礼が四隅の角を止める。

 ルーシアンの曇/乾が喉の湿りを合わせ、ミレイユの梯子が一拍の余白を差し出す。


 その一拍、ぽん/ちり/こ/くが外からも短く鳴った。

 四つ目の尾が、空欄の上で少し伸びる。

 まだ字ではない。だが、刃司の醒刃が滑らなくなった。


 「……喉を通した、のか?」


 ヨハンは短く息を吐く。

「扉は喉だ。開くんじゃない、通るんだ」



XIII 刃司の賭け、眠りを断つ一閃


 刃司が肩を落とし、次の瞬間、刃を逆手に持ち替えた。

 「ならば――喉ごと裁つ」


 醒刃が低く唸る。

 空気が凍り、眠りが硬くなる。

 その硬さを割るための角度――悪意ではない、“手当”の角度。


 ナディアの背でぽんが滑り、ちりが遅れ、こが喉でからむ。

 ボミエの足元で点が一つ欠けた。


 ミレイユが名録の余白に一語を走らせる。



 ヴァレリアが礼で刃の額を打ち、ルーシアンの乾が刃の汗を吸う。

 ヨハンが掴めで刃の柄ごと握り、ナディアの無音が刃の鳴きを封じた。


 ボミエが潮封珠を高く掲げる。

「わたしは――眠りを責めないニャ。切る手にも“赦し”を渡すニャ」


 球の中で網が広がり、醒刃にまとわりついていた“切断の疲れ”だけを眠らせた。

 刃司の手首がゆるみ、刃の律が一瞬ほどける。


 「……赦される、のは、私の手も、か」



XIV 退き際の影、黒帆の要求


 刃司は一歩、二歩と下がり、影の方へ消えかけて――振り向かずに言った。

「次の満ちで、“名”を検算する。赦しでは帳が締まらない」


 闇に唇の形をした影が揺れ、遠くの沖で黒帆が反響した。

 > 次回査閲:満ちの四前夜

 > “名”の提出/“赦し”の無効化審問


 港の喉が低く鳴る。

 ぽん/ちり/こ/く。

 四はまだ名を持たない。だが、在る。



XV 返路、眠りの温度


 層を巻き戻すたび、眠りは温度を取り戻し、夢は責めを失った。

 寝衣はただの布に、聖壇は石に、刃糸は埃に戻る。


 主水脈の口へ上がる直前、女神イケの波が一度、ゆっくりと寄せた。

 > ――よく“赦”した

> ――“名”はあと

> ――まだ書くな


 ボミエは胸の球を抱き、しっぽを小さく揺らす。

「わたしは、嬉しいニャ。赦すって、点が増えることだったニャ」



XVI 港、白く息を吐く紙


 桟橋に上がると、トマスの鐘が二打。

 梁の上で灯りの席がとん、ぽん/ちり/こ/くが柔らかく重なった。

 四つ目の半拍は、今夜は消えずに座っている。


 ミレイユが名録を開き、正書した。


《層八十九:眠裂の回廊(刃糸/回避)

層九十:夢葬の聖壇(自己署名罠/無効化)

刃司“覚刃院”出現:醒刃(眠り切断)

層九十一:寝衣の天蓋(夢署名/白紙裂き)

層九十二:眠番の渠(橋の選別/通過)

封〉:喉の咳/四の尾一画伸長

介入:“赦”の適用(切断疲労の眠り化)

黒帆通達:満ちの四前夜“名”検算・赦し無効審問》


 ルーシアンは瓶の配合を“赦後”に合わせて微調整する。曇をやや厚く、乾を薄く。

 ヴァレリアは礼の棘を磨き、「善意の角度」を指先で覚え直した。

 ナディアは笛を胸に抱え、瞼を閉じる。

「嫌い……でも、“赦し”が歌の傷を眠らせる。背で歌える」


 ボミエは潮封珠を掌で転がし、杖の結び目に頬を寄せた。

「わたしは、怖かったニャ。けど、赦してくれって波が言ったニャ。だから――点が残ったニャ」


 ヨハンは暗い水平線を見据え、低く言う。

「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は喉――掴め。

 “名を渡さず、赦しで喉を通す”術は形になった。次は、審問だ」


 港が深く息をし、紙の白気が梁に貼りついた。

 四つ目はまだ名を持たない。けれど、在る。

 それで今は、じゅうぶんだった。



つづく:第七十二話 満ちの四前夜、赦しの審問

黒帆は“名”の検算を迫り、覚刃院は“赦し”を無効と断じようとする。

港は背で歌い、猫の魔導士は点で道を縫い、潮封珠は切り傷の疲れだけを眠らせる。

封〉の間の円盤では四の尾がもう一画、名でない線として触れ、精霊王メルニーナの“二度目の波”が、封ではなく赦の形で寄せてくる――。

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