前庭の断層、二音の鍵
I 港、芽の鼓動
まだ陽の昇らない港は、潮の匂いと紙の湿気を孕んで静まり返っていた。
梁の上で、鍵芽が二音を刻む。
ぽん/ちり――昨日よりも少しだけ厚みを持った音が、港全体に染み込んでいく。
ヨハンは桟橋に立ち、海の南東を見据えた。
「六十五階層……神殿の扉はその底にある。今日はその“前庭”を踏む」
ボミエは耳をぴんと立て、しっぽをぱたぱたと揺らした。
「わたしは、準備はできてるニャ。どんな断層でも、この杖と句点で、必ず道を繋ぐニャ」
ナディアが笛を抱え、短く吐息を漏らす。
「嫌い……でも行く。護鈴は鳴らさず鳴らす。音が残る前に“歌”を刻む」
ルーシアンは瓶を腰に括りつけ、薄く笑う。
「湿度は完璧だ。紙も骨も、きれいに折れる」
ヴァレリアが袖から礼を抜き、角度を確かめながら呟く。
「順番を崩すな。護鈴、句点楔、礼、そして掴め。それがなければ扉には辿り着けない」
ミレイユは名録に細字を走らせ、余白に細い梯子の線を引いた。
「梁の“影”が少し膨らんでる。今日の道はきっと、芽が導いてくれる」
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II 主水脈の入り口
沖へ出ると、潮の流れが急に沈黙した。
そこには、水面が円を描くように静まり返った場所――主水脈の口があった。
ヨハンが掌を胸に置き、低く囁く。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――掴め」
ボミエが杖の先を水に浸し、呟く。
「わたしは、道を繋ぐニャ。怖くても、耳を澄ませば聞こえるニャ」
ナディアが笛を鳴らさず鳴り、円の境界に柔らかい輪を広げた。
水面が薄く震え、底の深い呼吸が聞こえる。
ルーシアンが曇の霧を放ち、断層の輪郭を浮かび上がらせる。
「水が二層、いや三層で折り重なってる。順番を誤ると飲み込まれるぞ」
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III 断層の下り
深く潜るたびに、周囲の色が薄れていく。
紙の匂い、骨のざらつき、そして潮の冷たさ――すべてが断層の境界を示していた。
ボミエは杖を握りしめ、ひげを震わせた。
「……下へ行くほど、音が増えてるニャ。拍が呼んでるニャ」
ミレイユが名録に指を添え、短冊を足元に置く。
「この“われら”が揺れたら、すぐに引き返して」
ナディアが笛を軽く叩き、無音の輪を広げる。
「嫌い……だけど、音は聞かせない」
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IV 前庭の空間
断層を抜けた先に、広い空洞が広がっていた。
石柱がいくつも立ち並び、床には無数の罫線が走る。
そこが――扉の前庭だった。
中央に鎮座する黒い柱。その表面には古い文字が刻まれているが、半分以上は削り取られ、残った線も不気味に歪んでいた。
ルーシアンが霧を散らし、柱を観察した。
「これが……“断層の印”。踏み違えれば、扉は閉ざされる」
ヴァレリアが礼を掲げ、柱に角度を合わせる。
「順番を崩さなければ進める。……でも、この歪みは嫌な予感がする」
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V 二音の鍵
梁の上から、微かな二音が響く。
ぽん/ちり――港で鳴るのと同じ和音が、前庭の空気に溶けた。
ミレイユが名録を開き、声を上げる。
「“二音”が揃った……港とここ、繋がってる!」
ボミエが笑みを浮かべ、耳を震わせた。
「わたしは、聞こえるニャ。道が、開こうとしてるニャ!」
ヨハンは掌を胸に当て、低く呟く。
「扉は残る。――掴め」
その瞬間、柱の歪みがわずかに整い、光の筋が階段のように伸びた。
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VI 影の問い
だが、光と同時に、低い声が空間に満ちた。
「誰が道を所有する? 誰が鍵を持つ?」
黒い影が柱の根元から立ち上がる。
人の形をしているが、顔は仮面のように平らで、瞳だけが深い穴となって揺らめいている。
ナディアが笛を握り、短く吐き捨てる。
「嫌い……」
ルーシアンが瓶を傾け、霧を散らす。
「所有を問う“影”か。……簡単には通してくれなさそうだ」
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VII 戦いの始まり
影が動いた。
断層の線を踏むたび、前庭の空気が歪み、天井から砂のような破片が降り注ぐ。
ヨハンは逆薔薇を掲げ、影に向かって踏み込む。
「掴め!」
ボミエが杖を高く掲げ、星の光を放った。
「《スターライト・バースト》! わたしは、道を照らすニャ!」
ナディアの護鈴が鳴らさず鳴り、影の足を縛る。
ルーシアンの曇が影の輪郭を滲ませ、ヴァレリアの礼が角度を叩き込む。
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VIII 影の反撃
影は歪んだ手を伸ばし、断層の線を裂いた。
床が崩れ、紙のような階段が落下していく。
ミレイユが名録を広げ、声を張った。
「短冊! 足元、固定!」
ボミエが即座に句点楔を打ち込み、崩れる床を繋ぎ止める。
「わたしは、落とさせないニャ!」
ヨハンが逆薔薇を強く握り、柱の芯を掴んだ。
「扉は残る……掴め!」
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IX 二音の共鳴
その瞬間、梁の上で二音が強く鳴った。
ぽん/ちり――和音が前庭の空気に広がり、柱の歪みを一気に整える。
影が動きを止め、仮面のような顔をわずかに傾けた。
「……鍵は、二つ。港と、おまえたち。所有は、共有」
ナディアが笛を額に当て、低く呟く。
「嫌い……でも、それでいい」
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X 前庭の静寂
影はゆっくりと後退し、柱の奥へ溶けていった。
前庭に再び静けさが訪れる。
ヨハンは掌を下ろし、深く息を吐いた。
「……進める」
ボミエは杖を抱きしめ、しっぽを揺らした。
「わたしは、やっぱり怖いニャ。でも、港とわたしたちの“音”は、確かにここまで届いたニャ」
ルーシアンが肩の力を抜き、瓶を腰に戻す。
「……道は開いた。だが次は、もっと深い場所だ」
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XI 港への帰還
前庭を抜け、断層を逆に辿って港へ戻る。
潮風が柔らかく迎え、梁の上では二音が短く響いた。
ミレイユが名録に細字で記す。
《前庭:鍵の共有承認/二音の共鳴確認/断層の安定化》
ヴァレリアが袖から礼を抜き、梁の影に軽く置く。
「順番は守った……次は、本当の扉だ」
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XII 夜の仕度
潮窯の卓には、新しい護鈴と長い句点楔が並ぶ。
ボミエは杖の結び目を磨きながら、小さく呟く。
「わたしは、扉を照らすニャ。誰にも、港の音を奪わせないニャ」
ナディアは笛を胸に抱き、目を閉じた。
「嫌い……でも歌う。扉の向こうで、きっと必要になるから」
ヨハンは逆薔薇を包帯で締め直し、静かに告げる。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――掴め」
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つづく:第五十八話 断層の向こう、神殿の門
二音の鍵を手に、彼らは海底神殿の門へ向かう。
闇と圧力、歪んだ時間が絡み合うその空間で、梁の“影”が初めて明確な字を結び始める――。




