暗渠の影、透明の刃
I 港の底に潜む影
満月の翌朝、港の潮は不自然に静かだった。
波はあるのに音が薄い。浮かぶ泡が、まるで何かに「削ぎ落とされている」ように見える。
ヨハンは胸の銀を押さえ、海面を見つめた。
「……嫌な気配だ。これは“数字”の影が動いている」
ナディアは笛を唇に当て、潮の震えを拾う。
「嫌い……。でも、この音、あの黒帆の連中のもの」
ボミエは杖を握りしめ、耳をぴんと立てる。
「何かが、港の底を這ってるニャ。……たぶん、いっぱいニャ」
ルーシアンは霧の瓶を腰にかけ、短く吐息を漏らす。
「“影潜者”。影の刃で拍と名の“あいだ”を切る連中だ。透明になって、息を奪いにくる」
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II 透明の侵入者
港の桟橋の下で、ひとつ、ふたつと音が途切れる。
漁具を束ねた縄が自然に切れ、吊るした鐘が一つだけ音を外した。
――透明な刃が、確実に港を裂いていた。
ヴァレリアが袖から礼の棘を抜き、海面に刺すように立つ。
「見えなくても、“順番”の筋は切らせない」
ミレイユは名録の余白を撫で、冷たい声で囁く。
「罠を張る。……捕らえる“語”をここに書く」
ボミエが杖を掲げ、海面に星の句点を散らす。
「見えなくても“句点”は噛むニャ。あたしがここに“足場”を作るニャ」
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III 最初の衝突
海面の下で、光が一瞬だけねじれた。
――その刹那、桟橋の柱が裂け、白い泡が散る。
ヨハンが拳を突き出し、掌の逆薔薇を輝かせた。
「掴めッ!」
空気が揺れ、透明な刃が水しぶきに変わる。
ナディアの笛が逆拍を刻み、見えない足音をあぶり出す。
ルーシアンの霧が広がり、空気の輪郭を浮かべる。
その輪郭の中、見えないはずの影が輪郭線を持った。
――人のようで、人ではない。骨と紙の合成体に、星封蝋の紋が刻まれていた。
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IV 影潜者との戦い
ボミエが杖を振り下ろし、句点の網を張る。
「《句点の網》――動けないニャ!」
影潜者の一体が動きを止めるが、すぐに刃の一閃で網が切れる。
ヴァレリアが礼の棘で斬撃の軌道を逸らし、ナディアが笛で拍を合わせて乱す。
ヨハンがその隙を逃さず拳を突き出し、逆薔薇の光で影を海へ弾き飛ばした。
ルーシアンは曇の霧を一気に展開し、影の輪郭を鮮明に浮かべる。
「見えたぞ……次は逃がさない」
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V 守るべきもの
港の上では、子どもたちや老人たちが震えながら見守っていた。
灯りの席が梁の上で低く「とん」と鳴り、座主の意志が港全体に伝わる。
ボミエが叫ぶ。
「港は“座主”さまのものニャ! 勝手に汚させないニャ!」
その声に呼応するように、港の灯りが一斉に明滅し、影の動きを鈍らせた。
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VI 代償
しかし、敵の刃は鋭かった。
一体の影潜者が、素早く港の奥へ潜り、魚商の小舟を裂いた。
海に落ちた子どもを助けようとした若者が、透明な刃に貫かれ、血が水に溶けた。
ヨハンが拳を握り、歯を食いしばる。
「……守れなかった分は、必ず返す。必ずだ」
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VII 決着
ナディアが高音を吹き、音の刃で敵の動きを止める。
ルーシアンの霧がその動線を封じ、ボミエが句点の網で縛る。
ヴァレリアが礼の棘で一閃、そしてヨハンが拳を突き出した。
逆薔薇の光が港を照らし、影潜者は悲鳴もなく砕け、黒い霧となって海に消えた。
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VIII 静けさの中で
戦いが終わった後、港には再び静けさが訪れた。
波が優しく桟橋を撫で、空には青い薄雲が漂っている。
ボミエは杖を抱きしめ、ぽつりと呟いた。
「……もっと強くならなきゃダメだニャ。あたし、もっと守れるようにならなきゃニャ」
ルーシアンが彼女の肩を軽く叩く。
「十分だ。お前がいなきゃ、もっと酷いことになってた」
ナディアは笛を胸に抱き、目を閉じた。
「嫌い……でも、この港の音はまだ生きてる」
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IX 座主の第三の言葉
梁の上で灯りの席が再び鳴った。
「とん」――
今度ははっきりとした響きで、仲間たち全員の胸に届く。
その音に、港の空気が淡く光を帯びた。
梁の皺には、三つ目の文字が浮かんでいた。
護
ヨハンは拳を握りしめ、低く呟く。
「護る……そうだ。どんな代償を払っても、護る」
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X 新たな決意
夜、潮窯に仲間たちが集まった。
ミレイユが名録を広げ、港の外の危険な動きを記録していく。
「次は“深い暗渠”よ。骨の歌と影潜者、両方が待ってる」
ボミエは杖を握りしめ、耳をぴんと立てる。
「行くニャ。怖くても行くニャ。……港を護るって決めたからニャ」
ナディアは笛を口元に添え、静かに笑う。
「嫌い……でも、次の歌はもっと強くなる」
ヴァレリアは袖から礼の棘を取り出し、卓の上に置く。
「順番は崩さない。それが唯一の勝ち筋」
ヨハンは胸の銀を押さえ、港の灯りを見上げた。
「掴めるものは全部掴む。――護るために」
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XI 黒帆の影
沖合には再び、黒い帆が見えていた。
その帆の向こうで、ネクロ・ロードの低い声が波に混じる。
「嫌い……だから試す。護ると決めた“その意志”を、骨の歌で削いでやろう」
次の戦いの予兆が、冷たい潮風に乗って港へと届いていた。
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つづく:第五十一話 深い暗渠、骨の胎動
骨の歌が強まる沖の底。
仲間たちは護るための覚悟を胸に、暗渠の奥深くへと足を踏み入れる。
そして、そこで待つのは――死霊ノ王の影だった。




