潮鳴りと血の契約
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I 嵐の前の陽だまり
マリナ・デル・ベーラの朝は、昨夜のざわめきが嘘のように穏やかだった。
市場には焼きたてのパンの香りが漂い、港では魚を積んだ船が入港し、子どもたちが波打ち際で追いかけっこをしている。だが、その穏やかさの奥底には、潮の匂いに混ざったかすかな鉄の気配があった。
ヨハンは教会の掃除を終え、港へ出た。
石畳の道を歩く足取りはいつも通りだが、胸の奥には、満潮の夜に現れたセラフィナの微笑みがこびりついて離れない。
背後から軽い足音が近づき、跳ねるような声が響いた。
「ヨハンさん! おはようニャ!」
ボミエだった。今日は新しいローブを着ており、袖口には昨夜ピックルと一緒に練習した星の刺繍が淡く光っている。
「おはよう、ボミエ」
「朝の掃除、終わったニャ? ピックルは鐘楼に登って、星の動きを見てるニャ。ヨハンさんも一緒に見に行こうニャ!」
無邪気な誘いに苦笑しながら、ヨハンは少し肩の力を抜いた。
ピックルとボミエの存在は、どこか自分の古い偏見を少しずつ溶かしていく。
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II 潮目を読む者たち
鐘楼では、ピックルが望遠鏡を覗き込み、紙に星座の動きを記していた。
彼女は視線を星から外さずに言った。
「潮が変わる。次の満潮、三日後の夜明け前。そのとき、街の外れで“門”が開く」
「門?」
ヨハンが問い返すと、ピックルは真剣な表情でうなずいた。
「星が言ってる。セラフィナは“鍵”を奪うだけじゃなく、“何か”を呼び込もうとしてる。古いもの――この街の土台より古い、海の下の闇を」
ボミエが耳を伏せ、しっぽを体に巻きつけながら呟いた。
「そんなの、ぜったいに止めないといけないニャ……」
その声は小さいが、芯の強さを秘めていた。
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III 港町に現れた旅人
昼過ぎ、港の広場にざわめきが広がった。
一隻の大型商船が入港し、そこから降り立ったのは黒髪を後ろで束ねた青年だった。
褐色の肌に旅塵をまとい、背には大きな布袋と、奇妙な形の杖を背負っている。
「……あれは?」
アメリアが目を細める。
「旅の魔導士らしい。名前は――ライネル・ド・グラシア」
ルシアンが潮の匂いで彼を嗅ぎ分け、低く言った。
ライネルは市場の人混みを抜け、迷いなく教会の前に立った。
ヨハンが声をかけるより先に、彼は軽く頭を下げ、冷静な声で告げた。
「この街で“夜歩くもの”を見た。……貴殿が、この街の祈り手だな?」
その瞳には、セラフィナの影を追う者だけが持つ冷たい光が宿っていた。
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IV 血の契約の影
その夜、港の倉庫街で異変が起きた。
薄暗い路地に、人ならぬ影が蠢き、海風に混じって血の匂いが漂う。
ライネルは杖を構え、古い言語で呪を紡ぐ。
ヨハンとアメリアが背を合わせ、屍の群れに立ち向かう。
ピックルは星の網を張り、ボミエが必死にそれを補強する。
「動きを止めたニャ!」
「ナイス、ボミエ!」
だが、路地の奥から現れたセラフィナは、ゆっくりと笑った。
「ようこそ、新しい客人。あなたの血には、古い契約の匂いがする」
その言葉に、ライネルの表情が硬くなる。
彼はかすかに唇を噛み、低く答えた。
「……俺は、あんたの“実験”の残り火を消しに来た。それだけだ」
セラフィナは冷たい笑みを浮かべ、指を鳴らした。
瞬間、路地の壁が崩れ、奥から異形の屍が這い出してきた。
それは海と血と塩で作られた、彼女の「僕」だった。
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V 崩れゆく均衡
戦いは熾烈を極めた。
ヨハンの祈りは幾度も屍の動きを鈍らせたが、セラフィナはそのたびに潮の流れを操り、屍を蘇らせる。
「この街は、わたくしの“庭”。誰も、私を縛れない」
その傲慢な声に、ヨハンの胸の奥で何かが燃えた。
鍵を握る手が熱くなる。
背後ではピックルとボミエが必死に星の網を維持している。
「まだ、持ちこたえられるニャ……!」
「ボミエ、もう少し耐えて!」
アメリアの剣が光り、ルシアンの水が渦を巻く。
ライネルの杖からは、青白い炎が放たれた。
だが、セラフィナはまだ笑っていた。
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VI 夜明けの約束
戦いの最中、鐘が鳴った。
港の鐘楼が、夜明けを告げるように大きく響く。
その音に、屍たちの動きが一瞬だけ止まった。
ヨハンはその隙を逃さず、胸の前で十字を切り、祈りを放った。
「Ex voco… Misericordia!」
潮の匂いが一瞬だけ和らぎ、セラフィナの影が後退する。
彼女は悔しげに目を細め、夜の霧の中へと消えた。
残されたのは、荒れ果てた港と、疲れ切った仲間たちだけだった。
ヨハンはペンダントを握りしめ、深く息を吐いた。
「……満潮まで、あと二日」
その声に、ピックルとボミエが並んで頷く。
「次は、絶対に守るニャ」
「ええ、絶対に」
赤く染まり始めた空の下、仲間たちは再び誓いを胸に刻んだ。
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VII 新たな絆
戦いの後、ライネルは礼拝所に腰を下ろした。
彼の表情はまだ硬いが、どこかで氷が解け始めている。
「俺は、もう一度“契約”を結ぶためにここに来たわけじゃない。ただ――あの女を止めるためだ」
その言葉に、ヨハンは静かにうなずいた。
「なら、目的は同じだ。……一緒に戦え」
ボミエが小さく笑い、しっぽを揺らした。
「仲間が増えたニャ。これでセラフィナに勝てるニャ!」
その言葉に、疲れた仲間たちの顔にもわずかな笑みが浮かんだ。
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VIII 迫り来る満潮
だが、夜は確実に近づいていた。
港の外には、不穏な霧が広がり、海鳥たちが姿を消している。
潮の流れも微妙に変わり、街の年寄りたちが顔を見合わせ、低く呟く。
――満潮の夜、何かが起きる。
その予感は、街全体を静かに覆い始めていた。
ヨハンはペンダントを握りしめ、深い祈りを胸の奥に刻んだ。
「神よ……この街を、守らせてくれ」
その願いに答えるかのように、遠くで鐘が短く鳴った。
潮は、約束を忘れない――次の夜に向けて、ゆっくりと、確実に動いていた。