満月の夜、扉の裁き
I 白金の月、薄い鈴
満月は、紙のように薄かった。
港の屋根に落ちた光は、針で刺せば裂けそうな白。
潮止門の蝶番は一日じゅう黙っていたくせに、夜が落ちると自分でじりじりと熱を帯び、誰も触れていないのに「開廷」の姿勢を取った。
潮窯の梁は、一度だけとんと鳴った。灯りの席は黙したまま、椅子の背から在の重みを落とす。
ナディアは笛の銀輪に額を当て、長い息を吸う。
ヨハンは胸の銀を押し、短く祈った。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――掴め」
ボミエは杖の結び目を両手で包み、耳をぴんと立てる。
「イヤな紙の匂いと、骨の歌……。でも、負けないニャ」
ミレイユは名録を胸に、余白へ細い《在》を書き足した。
ルーシアンは塩霧の瓶を三本、腰に通す。
ヴァレリアは袖の礼の棘を数え、角度を確かめた。「順番は、こちらが決める」
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II 扉前の二つの壇
潮止門の前に、二つの壇が設えられていた。
左は白蝋と紙の壇。契印樹の枝から押印の房が垂れ、呼吸する帳が口を開けて待つ。
右は黒蝋と骨の壇。肋冠が組まれ、骸骨の合唱隊が肋笛を抱えて並ぶ。
そのあいだ――門の根方の梁に、見えない椅子が置かれている。
灯りの席。今夜、座主として口を持つのはこの席であり、席の沈黙だ。
先に声を投げたのは、紙の壇だった。
帳簿官ベラーノ。灰色の外套、糸のような眉。
「開廷」
応じたのは、レールの奥から這い上がる低い拍。
**死霊ノ王**の合図。
「誓交」
――扉は、裁きを始める。
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III 第一条:利子と拍、座主の証言
フェジアの頁が風にめくれ、金文字の第一条が浮かぶ。
《主語の半音一を利子として供出。骨側は合唱の一拍を献納し、亡骸探索を三旬延。
証言者:灯りの席。》
ベラーノの視線がナディアの喉へ、肋冠の影がナディアの袖へ滑る。
ボミエが先にとんと足下を鳴らす。「イヤニャ!」
《句点の網》が青白く走り、二つの狙いを点で裂いた。
ルーシアンの霧が狙いの高さを曇らせ、ヴァレリアの礼が根を押さえる。
ミレイユは条文の余白に注記を先に刺した。
> 《座主:証言義務なし/預り:債権化不能》
ナディアは笛を額に置き、わたしたちの喉で沈黙を吹く。
灯りの席がとん。
金文字の「利子」の一部が、青に溶けた。
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IV 第二条:代償者の指名
次の頁が開く。第二条。
《代償者を一名。紙側は記録、骨側は器官を指定可。
指名拒否は黙示の同意に等し。》
紙の舌がミレイユの指へ伸び、骨の爪がボミエの耳へ降りる。
「順番」ヴァレリアが袖を払う。礼が斬へ半度だけ傾き、舌の側を静かに裂く。
舌は怒らず、順に退く。
ルーシアンの霧が爪の関節を鈍らせ、ナディアの裏拍が狙いを空振りに変える。
――そのときだ。
誰の名も告げられていないのに、一人の足元に白蝋の円が灯った。
トマス。鐘楼の少年の靴の周りで、白が花のように開く。
「やめろ」ヨハンの掌に逆薔薇が走る。
ミレイユが注記を滑り込ませる。
> 《未成年:担保不可》
白蝋の花は一瞬ためらい、別の足元へ移った。
――ナディアの影だ。
ボミエの毛が総立ちになる。「ダメニャ!」
灯りの席がとん。
影は座主の背に吸われ、白蝋の円は消えた。
条文は進む。――代償者の欄は、未記入のまま。
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V 星封蝋の再試行
ベラーノは外套の内側から星封蝋を取り出した。
薔薇と王冠の二重紋。空へ投げれば港全体を内部にする網。
「管理対象:座主」
「もうその手は食べたニャ!」
ボミエが杖を高く掲げ、《句点の網》をより細かく編んで放つ。
点が点を縫い、星の線は音の上でほどけた。
ルーシアンが霧で結び目を曇らせ、ヴァレリアが礼で一点を押さえる。
ナディアの笛が逆拍を刻み、港の拍は外からの網に共鳴しない。
ミレイユは《在》を封蝋の中央に先押しし、星そのものの規格をずらした。
空の封蝋は軋み、紙の粉になって海風に散った。
――だが、代償は来る。
ボミエの耳の中で、小さな鈴が二つ割れた。
彼女は笑って見せた。「大丈夫ニャ……星は、まだ見えるニャ」
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VI 骨の合唱:拍の簒奪
ネクロ・ロードの合図で、骸骨の合唱が唄い出す。
肋笛は呼吸の隙を拾い、歌の間に黒い縫い目を忍ばせる。
ナディアが裏拍で砂を混ぜ、ヴァレリアが礼で額を押さえ、ルーシアンが塩霧で肋笛の管を曇らせる。
ミレイユは自分の羽根筆を折り、折れ口を血で濡らし、その黒へ名の槍を刺した。
合唱は一音、喉を落とした。
灯りの席がとん。その落差を在で埋める。
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VII 裁きの問い:扉は誰のものか
潮止門の鉄が低く鳴り、文字にならない問いが浮き上がる。
扉は誰のものか。
紙は「法」と答え、骨は「拍」と答え、港は黙った。
ヨハンの掌の逆薔薇が熱い。「扉はあいだのためにある。誰のものでもなく、皆のものだ」
ミレイユが余白に書く。
> 《持ち主:在/用益:わたしたち》
ナディアが笛で無音を置き、ボミエが句点で端を留め、ヴァレリアが礼で角を押さえ、ルーシアンの霧が線を曇らせる。
扉は一度、沈むように黙した。
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VIII 選定――呼ばれた名
紙の壇から紙衛士が一体、骨の壇から連結吏が一体、同時に歩み出た。
二つの影は同じ人を目で指す。
――ヴァレリア。
「礼の手が、扉の根を押さえる。代償は、順番の見地から適正」
ベラーノが言う。
骨側も頷く。「礼は刃になる。刃は拍を割る。担保に相応」
潮がわずかに強く引き、灯りの席が小さくとん。
座主は黙した。返し所は今ではない。
ボミエが一歩前へ。「イヤだニャ!代償者はあたしが――」
ヴァレリアが手を伸ばし、ボミエの額に礼を置いた。
「順番」
それだけ言って、彼女は自分の足元に句点を落とした。
――在の位置を自分に確定する点。
ナディアが震える声で問う。「……本当に、行くの?」
ヴァレリアは背筋を伸ばし、軽く礼をした。
「礼は盾。盾は門に先に立つ」
ヨハンが掌を差し出す。「掴め。――戻って来い」
ヴァレリアは微笑んで、その掌の逆薔薇に自分の指を置いた。
「借りは返す」
ミレイユが震える筆で名録に細く書く。
> 《代償者:ヴァレリア(礼の手)――返還所:座主の時》
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IX 薄葉の棺
紙と骨が連名で持ち出したのは、薄葉の棺だった。
紙の層を百枚、骨の棘で綴じた、光を通す箱。
ヴァレリアがその中に礼の姿勢で横たわると、紙は彼女の輪郭を写し、骨は拍を一本絡めた。
ナディアの笛がひび割れそうに高まる。
灯りの席が強くとん――だが返し所はまだ来ない。
ルーシアンの霧が棺の縁を濡らし、ボミエの句点が綴じ目に挟まる。
ミレイユは砕片の青で棺の端に小さく《在》を書いた。
ヨハンは掌を棺の上に置き、低く言う。
「扉は残る。――戻って来い」
紙の兵が棺を軽々と持ち上げる。その軽さが恐ろしい。
骨の合唱が一節を歌い、棺は徴税船の方へ運ばれていった。
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X 残された拍、薄い笑み
ヴァレリアが去った瞬間、潮窯の梁に皺が一つ増えた。
在の跡。礼の欠損。
港の空気は軽くなったが、胸は重い。
ベラーノが外套を払う。「承認」
フェジアが頁を閉じ、紙の匂いが引く。
ネクロ・ロードの拍が一度だけ頷き、肋冠が降ろされた。
湾の沖で、徴税船がゆっくりと反転する。
ナディアは笛を胸に押し当て、目を閉じた。
「嫌い」
座主は、黙して在を保つ。
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XI 潮窯の夜:空席と誓い
潮窯の卓に杯が並ぶ。
今夜は一つ、空席がある。
ミレイユ「名に」
ルーシアン「水に」
ボミエ「句点にニャ」
ナディア(わたしたち)「歌に」
ヨハン「掴むに」
――灯りの席は鳴らない。座主は時を待つ。
ヨハンが掌を見つめ、低く続けた。
「礼を返す。わしの借りだ」
ミレイユは名録の余白に書く。
> 《救出先:徴税船――薄葉の棺格納庫(甲板下・紙庫第三)
> 鍵:星封蝋の規格/逆薔薇の掌/在の注記》
ボミエは杖を抱きしめ、尻尾を強く叩いた。
「あたし、星の封をもう一度編めるニャ。耳なんていくつでも捨てられるニャ」
ナディアが顔を上げる。「捨てない。――返すの。座主が返す時を、皆で連れて来る」
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XII 海の底、骨の王の独白
海蝕洞の奥、ネクロ・ロードは割れた王冠の芯を撫で、遠い港の空席を眺めた。
「嫌い。――良い礼だ。刃を忘れていない」
骨の観客に風が通り、満月の拍は一段と早くなる。
「返しに来い。扉のところで待つ」
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XIII 王都の塔、薔薇宰相の花弁
王都の高塔。ロザリアは一枚だけ薔薇の花弁を剝ぎ取り、窓外へ放った。
花弁は風に乗り、港の屋根でひらりと伏せる。
そこには斜めの文字。
嫌い。――だから、読み続けなさい。
座主は管理できない。扉は所有できない。
薄葉の棺は軽く、鍵は重い。
次は書庫で。――数字を裏返す梯子を持っていきなさい。
ミレイユが花弁を拾い、名録の余白へ貼る。
梯子――注記の縦の連なり。裏で読むための足場。
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XIV 出立の支度
夜更け、潮窯では梯子を作る作業が始まった。
ミレイユは短冊《在》《われら》を縦に糸で綴じ、裏を表に返す綴じ目を準備する。
ボミエは**《句点の網》を細かく編み、星で封蝋の規格を再配列できるように結び目を覚える。
ルーシアンは曇と乾の塩霧を作り直し、瓶の口に紙を噛ませて匂いを鈍らせる。
ナディアは笛の管の中に音の句読点を刻みつけ、逆拍と無音の場所を増やした。
ヨハンは掌の逆薔薇に薄い布を巻き、血が滲むのを抑**えた。
灯りの席は、とんと一度だけ鳴いた。
返し所は――近い。
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XV 明け方、鐘の高さ
東の白が濃くなる。
トマスが鐘楼で小さな鐘を持ち上げ、恐る恐る打った。
高さは合っている。
港の呼吸が、ひとつ、またひとつ、揃った。
ナディアは笛を握り、口の端だけで笑った。
「嫌い。――だから、行く」
ヨハンは胸の銀を押し、扉に向き直る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――掴め」
風は塩の匂いを運び、遠い船腹の鉄が微かに鳴った。
薄葉の棺は、まだ港の外にある。
だが、梯子はこちらにできた。裏へ降りるための、言葉の足場が。
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つづく:第四十七話 薄葉の棺庫、裏返る階
徴税船の甲板下――紙の書庫と骨の格納庫が絡み合う「棺庫」へ。
反誓の梯子で裏へ降り、星の封を組み替え、礼の手を連れ戻す。
星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。
そして座主が選ぶ“返し所”。――在の一拍で、扉がもう一度開く。




