骨と紙の誓約
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I 潮の匂いに混じるインクと骨粉
計算所が崩れた翌朝、港の風は不自然に甘かった。
干した網の塩気の奥で、焦がした砂糖と古いインクが喉に貼りつく。海鼠のぬめりのように、目に見えぬ約款が空気の内側で揺れている。
潮窯の梁は一度だけとんと鳴り、すぐに黙った。灯りの席は今は座主として口を閉ざし、預りを手元で抱いている。
ナディアは笛の銀輪に指をかけ、低く息を吐いた。
「……嫌い。朝から条文の匂いがする」
ヨハンは胸の銀を押し、短く祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」
ボミエは尻尾をふくらませ、杖の結び目を両手で包んだ。
「条文なんて嫌いニャ。海の音のほうがずっと美味しいニャ」
ミレイユは名録の余白に指を置き、紙の震えを読む。
「今夜――誓約が来る。紙と骨の両方から。どちらも“免除”を餌に、港を担保に変えに来る」
ルーシアンは霧の瓶を揺すり、風の高さを嗅いだ。
「骨粉の匂いが増えてる。王の側も準備を終えた」
ヴァレリアは袖の中で棘を数え、礼の角度で置き直した。
「順番をこちらが決める。――それだけだ」
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II 召引状:白蝋と黒蝋
昼前、広場の白蝋の四角が薄く発光し、中央に二つの封筒が現れた。
ひとつは白蝋の封――薔薇の紋。帳簿官ベラーノの手。
もうひとつは黒蝋の封――骨の冠。**死霊ノ王**の印。
ナディアが白い封を取る。文字は短く、斜めだ。
《査閲会所より:誓約儀の執行。今夜、潮止門にて。
条項:主語の半音を利子に代え、灯りの席を証人に。
免除:計算所の負債、一時猶予。
宵の口、開廷。》
ミレイユが黒い封を開く。紙はざらついて、骨の粉が指に付着した。
《骨の王より:誓交儀。満潮の始、潮止門にて。
条項:拍を供出、合唱より一拍を献納すれば、亡骸の探索を延期。
証明:燭台の座主を呼べ。》
両方が同じ場所、同じ夜を指定していた。
ヨハンは胸の銀を押し、海へ目を向けた。
「扉は一つ。鍵は二本持って来よる」
ボミエはむっとして鼻を鳴らす。
「こっちの鍵は一つで充分ニャ。星と猫の鍵で足りるニャ」
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III 潮窯の評議:代償者を誰に
潮窯の卓に杯が並ぶ。今日は酒ではなく水。誓いの前に舌を清める。
ナディアが言う。「代償者を指名してくるはず。紙は主語を、骨は拍を取りたがる。わたしか、席を狙う」
「わしが行こう」ヨハンが即答した。「掴めは錨だ。扉は押しとけば閉まらん」
「ダメニャ!」ボミエが机を叩く。耳がぴんと立ち、瞳が濡れていた。
「ヨハンは扉を押さえる手、ここから動けないニャ!」
ヴァレリアが静かに続ける。
「順番。前に出るのは私。礼で根を押さえる」
ルーシアンは霧の瓶を二本差し出した。
「曇と乾。どっちも持っていけ。声が取られそうになったら、曇で高さを隠す」
ミレイユは名録の余白に小さな異体字で《在》を書き、短冊にして配った。
「誓文はすき間で決まる。本条に勝てなくても、注記で逆を差し込める。――余白を先に埋めるの」
灯りの席は黙っている。だが、足元の地が緩やかにとんと合いの手を入れた。座主は聴き、数え、時を選ぶつもりだ。
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IV 反誓の綴じ目
支度は祈りに似て、工作でもあった。
ミレイユが王冠の砕片を薄く削り、青い粉をインクに混ぜる。
ボミエは**《句点の網》を細く編み、指先で扱える小綴じに仕立てる。
ヴァレリアは礼の棘を一本、半分に割ってボミエに渡した。「楔だ。礼を忘れるな」
ルーシアンは塩霧を三層に整え、瓶の口に紙を噛ませて香りを鈍らせた。
ナディアは笛の銀輪に砕片をはめ直し**、逆薔薇を返す準備をする。
ヨハンは掌に残る逆薔薇の痕を見下ろし、短く呟いた。「借りはわしが持つ」
最後に、ミレイユが短冊《在》を灯りの席の背に貼り、そっと囁く。
「座主さま。返すべき時はあなたが決めて」
席は細く光り、とんと一度だけ鳴いた。
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V 潮止門:二つの壇、ひとつの扉
夜。満潮が始まる。
潮止門は港と外海を隔てる大きな扉で、今夜は両側から光を浴びていた。
門の左に紙誓の壇――白い机と契印樹(押印の枝が垂れ下がる奇妙な樹)、呼吸する帳が口をあけて待つ。
右に骨誓の壇――骨で組まれた燭台と肋冠、骸骨の合唱隊が肋笛を携えて並ぶ。
中央、門の根方に細い梁が一本渡され、その上に椅子が見えないまま在る。
――灯りの席。今夜は壇と門のあいだに座して、座主を務める。
ベラーノが現れた。灰色の外套、薄い笑み。
「開廷」
骨の合唱に混じって、レールの内側でネクロ・ロードの低い拍が響く。
「誓交」
二つの声が同時に夜に落ちた。
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VI 第一条:主語の半音、拍の献納
フェジアの頁が風でめくれ、第一条が浮かぶ。
《主語の半音を利子に代え、二七日保全。
骨側は拍を一献納し、亡骸の探索を三旬延期。
証人:灯りの席。》
ベラーノの目がナディアの喉へ、骨の王の影がナディアの袖へ伸びる。
「それは駄目ニャ!」ボミエが一歩踏み出す。杖の結び目がとんと鳴り、句点の火が二つの手を弾いた。
ヴァレリアが礼で二つの腕の根を押さえ、ルーシアンが霧で高さを曇らせる。
ミレイユが短冊《在》を第一条の余白に先書きする。
「注記――在の預りは債権化しない」
ナディアは笛を額に置き、わたしたちの喉で沈黙の一拍を置いた。
灯りの席がとん。
第一条の行末に小さな青が灯り、利子の金文字が一文字だけ溶けた。
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VII 代償者の選定:紙の指、骨の爪
第二条が浮かぶ。
《代償者を一名。
紙側は記録を、骨側は器官を指定可。
証言拒否者は黙示を同意と見なす。》
フェジアの舌が、ミレイユの指へ伸びた。
書く手を止めれば、注記は消える。
同時に、肋冠の影がボミエの耳へ爪を伸ばした。聞き方を奪えば、合図は乱れる。
「順番」
ヴァレリアの声は落ち着いていた。袖の中の礼が斬へ半度だけ傾き、紙の舌の側面に礼斬が入る。
舌は怒らず、順番に退いた。
ルーシアンの霧が骨の爪を重くし、ボミエの**《星継ぎ》が耳の周りに輪を結ぶ。
「聞き方は星**で守るニャ!」
ナディアが短く笛を鳴らす。拒否の拍。
ヨハンは掌を差し出し、「掴め」。
――代償者は未定のまま、行が次へ送られた。
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VIII 紙の法:判決用紙の雨
フェジアが苛立ったように頁をしならせ、空へ判決用紙を放つ。
四隅に逆薔薇、中央空白。書き込まれる前に床にしたい紙だ。
「《句点の網》!」ボミエが網を広げ、紙同士の間を点で塞ぐ。
ルーシアンの霧が紙肌を湿し、ミレイユが空白の中央へ《在》と先押しする。
ヴァレリアの礼が角を押さえ、ナディアが返照の節で網を固めた。
紙は床にならなかった。
余白は余白のまま、潮風で千切れ、海に溶ける。
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IX 骨の法:骨筆と肋笛、拍の簒奪
今度は骨側が出る。
肋笛の合唱が呼吸をひとつ奪い、骨筆の糸が歌の間に黒を縫い込もうとする。
ナディアが裏拍で合唱に砂を混ぜ、ヴァレリアが礼で額を押さえ、ルーシアンが塩霧で骨筆を鈍らせる。
ミレイユは羽根筆を折り、折れ口を自分の血で濡らし、黒の縫い目に名の槍を刺す。
ボミエが**《スターライト・ケージ》で縫い目全体を囲い、青で焼く。
――拍は戻った。奪われた一呼吸のかわりに、灯りの席がとんで補**った。
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X 宰相からの紙片:余白免責
潮風が紙の花弁を一枚、壇の上へ運んだ。
薔薇宰相ロザリアの筆致。斜めで短い。
嫌い。――だから、誓え。
ただし、余白を残しなさい。判文は裏で読む。
座主は証人ではない。座主は座主。
灯りは収奪不能。――王国法にもある。
ベラーノの眉が糸のように震え、フェジアの頁がぱんと閉じた。
ネクロ・ロードの拍が一瞬濁り、肋冠の影が薄くなる。
ミレイユは名録の余白に注記を書いた。
> 《座主:証言義務なし/収奪不能》
灯りの席が小さく光り、「とん」。
――座主は在で答える。
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XI 第三条:盟約の核/反誓の綴じ目を打つ
第三条が浮かぶ。
《港は借りの一部を誓約し、紙と骨に等分して担保とする。
違反には強制執行。》
ヨハンが前に出る。掌には逆薔薇の痕。
「担保は港じゃない。わしらだ」
掌を条文の中央に置き、掴めを落とす。
ボミエが**《句点の楔》を掌の縁に打ち、文の流れを切る。
ヴァレリアが礼で第三条の角を抑え、ルーシアンの霧が朱を曇らせる。
ミレイユが王冠の砕片インクで余白へ反誓を書いた。
> 《担保:在/返還:座主の時**》
ナディアは笛で返照の最後を吹き、わたしたちの喉で誓いの主語を在へ戻す。
灯りの席がとん。
第三条は立ったまま、芯を別の言葉に替えられた。
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XII 代償者の再指名:見えない刃と返し所
フェジアが最後の一枚を捲り、代償者を再指名する。
紙の刃は今度こそナディアの喉を狙い、骨の爪はミレイユの指を狙う。
ルーシアンの霧が斜めに走り、二つの狙いをもつれさせた瞬間、見えない刃が別の方向から伸びた――灯りの席へ。
ヴァレリアが叫ぶより早く、席が先に鳴いた。
「在」
座主は返し所を開いた。
港中に預けられていた半音二が一度返され、ナディアの喉に温度が戻る。
同時に、席の灯が薄くなった。預りを軽くするために、自身の灯りの皮を一枚、剝いだのだ。
「嫌い」ナディアの目に水がにじむ。「座主に触るな」
ヨハンは掌を掲げ、逆薔薇の火をほんの少し強めた。
借りは掌に集める。席には触れさせん。
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XIII 骨と紙の沈黙、そして承認
海は目を細め、風は紙を冷やし、骨は拍を落とした。
ベラーノは無言で封緘印を返し、フェジアを閉じた。
ネクロ・ロードの影は胸で一拍だけ頷き、肋冠を下ろした。
承認は、言葉ではない。
――沈黙である。
第三条の末尾に、骨の小さな符丁と紙の短い署名が並ぶ。
> 《骨:納拍延期/紙:査閲猶予》
その下に、ミレイユの反誓が青く光る。
> 《在:座主返還》
灯りの席が最後にとん。
誓約は交わされた。だが、芯は港の側にある。
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XIV 余波:青い欠損と逆薔薇の掌
儀が終わると、潮止門はただの木と鉄に戻った。
ナディアの喉に半音が戻り、代わりにヨハンの掌の逆薔薇が濃くなった。
「味が変わった」ヨハンは笑った。「塩が甘い」
ルーシアンが苦笑する。「それは紙だ。しばらく霧で洗え」
ボミエは灯りの席の背に頬を寄せ、小さく鳴いた。
「ありがとうニャ、座主さま。重いの、少し軽くなったニャ?」
席は答えない。けれど、梁の皺が一つ深くなった。在の跡が増える。
ヴァレリアは袖の中で折れた礼の欠片を握り、そっとミレイユに渡した。
「返す日はあなたが決める」
ミレイユは頷き、名録の余白に細い行を足す。
> 《返し所:座主の時》
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XV 去り際の二つの影
ベラーノは潮風に外套をはためかせ、列車の方角へ視線を送った。
「次回査閲――満月。法廷は再開する」
フェジアの頁がかすかに笑い、紙の匂いを残して消えた。
ネクロ・ロードの声はレールの内側で低く、温かった。
「嫌い。――だから、待つ。刃を磨け。拍を太らせて来い」
骨の合唱は肋笛を下げ、潮の闇に沈んだ。
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XVI 潮窯の夜:返歌の席
潮窯では、杯の代わりに鈴が並んだ。
トマスが小さな鈴を振り、高さは確かめられた。
ナディア「歌に」
ルーシアン「水に」
ヴァレリア「順番に」
ミレイユ「名に」
ボミエ「句点にニャ」
ヨハン「掴むに」
灯りの席は今夜も鳴らない――座主は返し所を見極めている。
代わりに地が「とん」と低く打ち、梁に皺がひとつ増える。
ミレイユは名録の余白に、今日の反誓を正書した。
> 《骨と紙の誓約:末尾注記《在》をもって芯を差し替え。
> 預り(座主):半音返還/灯りの皮一。
> 掌:逆薔薇濃。
> 次回:満月再開廷》
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XVII 北空の兆し:徴税船
夜更け、北の海に黒い帆が一本、線のように立った。
船腹は低く、甲板に紙の箱と骨の樽を山のように積んでいる。
舷側には薔薇と王冠の両方の浮彫り――**徴税船**だ。
ルーシアンが窓辺で風を嗅ぎ、肩を竦めた。
「紙と骨の連名……最悪の種類だ」
ボミエが杖を抱きしめ、耳をぴんと震わせる。
「来たニャ。次は物じゃなくて“人”を取りに来るニャ。嫌いニャ」
ナディアは笛を胸に当て、まぶたを閉じた。
「嫌い。……だから、歌う」
ヨハンは掌の逆薔薇に息を吹き、短く言った。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――掴め」
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XVIII 明け方の祈り:座主の一拍
東の際が白む。
灯りの席がようやく一度、とんと鳴いた。
返し所はまだ。預りは軽くなったが、返す時は満月の前夜――紙が法廷を、骨が合唱を持ち込む夜だ。
港は呼吸を揃え、在の皺を撫でた。
嫌いと言える口が残り、掴む手があり、礼が角を守る。
そして、扉は立っている。
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つづく:第四十五話 徴税船と星の封蝋
薔薇と王冠の二重紋を掲げた徴税船が港に碇を下ろす。
彼らは「物」ではなく「人」の連行を試み、座主を「管理対象」に書き換えようとする。
星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。
そしてボミエの《句点の網》が、封蝋そのものを星で組み替える――ただし代価は、ひとりの“昔の笑い”。




