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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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北倉庫の計算所、数える手



I 港の朝と、不気味な静けさ


 朝焼けの港は、いつもよりも静かだった。

 潮窯の梁に掛けられた鈴が微かに揺れているのに、音は響かない。

 遠くで魚を干す音や、網を巻き上げる軋みはある。それでも、どこか耳の奥が詰まるような圧迫感があった。


 ナディアが笛を胸に当て、低く囁いた。

「……嫌い。今朝の空気、数字の匂いがする」


 ヨハンは窓辺で海を見下ろし、胸の銀を押さえる。

「鍵は胸に、鍵穴は“あいだ”に――掴め」


 ボミエは杖を抱えながら、尻尾をふわふわと揺らした。

「数字ニャ……。また、紙のやつらが動いてるニャ」



II 計算所への道


 港の北側、崩れかけた倉庫群の奥――そこに計算所はあった。

 壁の隙間から覗くのは、無数の帳面と、雨に濡れて光る算盤の玉。

 ミレイユが名録を胸に抱き、静かに告げた。

「ここが“合算”の場所……帳簿官たちが、人の“名”を数字に換える場所」


 ルーシアンは瓶を揺らし、霧を薄く散らした。

「潮の匂いがしない。ここは港じゃない……“紙”の底だ」


 ヴァレリアが袖の棘を握りしめ、短く答えた。

「順番だけは、こっちで決める」



III 扉の前の番人


 計算所の入口には二体の影が立っていた。

 一体は紙の影――記数吏デシマ。数字の束を抱え、無表情な仮面を被っている。

 もう一体は骨の影――補助吏カルキュル。骨の指をカチカチ鳴らしながら、珠を弾くように地面を叩いていた。


 ヨハンが前へ出て、胸の銀を見せる。

「通してもらうぞ。港の名を、勝手に数えさせはせん」


 デシマの仮面がかすかに揺れる。

「……通過条件、提示」


 ナディアが笛を鳴らした。低く短い音――拒絶の拍。

 ボミエが杖を突き、きっぱりと言う。

「嫌いニャ。その条件、こっちが決めるニャ」



IV 数字の罠


 その瞬間、足元に数字の線が走った。

 床に浮かび上がった算盤のような図形が、ひとつひとつの足跡を絡め取る。

 ルーシアンが霧を濃くし、床の罠を曇らせた。

「罠だ。踏むな、動くな」


 ヴァレリアが袖の棘を抜き、罠の交点に突き刺した。

「順番を崩す」


 棘が突き刺さるたび、算盤の玉が外れて落ちる。

 ミレイユは名録の余白に素早く《嫌》の一字を書き込み、その紙片を罠に貼り付けた。

 数字は震え、絡め取った力を失った。



V 計算所の内部


 扉の奥は、異様な空気で満ちていた。

 長い机がいくつも並び、その上には大量の算盤、そろばん玉のように転がる紙片、そして赤黒いインク壺。

 壁には名の抜けた人影の紙が無数に貼り付けられている。


 ミレイユが小声で言う。

「これは……“削除”された名前。存在はあったのに、記録から消された人たち」


 ボミエが耳を伏せた。

「ひどいニャ……。どうしてこんなことするニャ」


 ナディアは笛を胸に押し付け、低く呟いた。

「数字にするためよ。名を、灯りを、拍を、全部……借り物に換えるため」



VI 襲いかかる紙の兵士


 奥から紙の兵士たちが現れた。

 全身が帳面でできており、腕は細長いペン先、指先は鋭い刃のようだった。

 彼らは一斉に音を立て、紙を裂く音とともに突進してくる。


 ルーシアンの霧が床を覆い、兵士たちの動きを鈍らせる。

 ヴァレリアが棘を投げ、次々とその首元を貫いた。

 ボミエが杖を振り、「《スターライト・ケージ》!」と叫ぶと、星の檻が兵士たちを閉じ込めた。

 ナディアの笛が鋭い拍を刻み、ヨハンが掌で紙の胸を掴み、力を込める。

 「掴め!」


 紙は耐え切れず、崩れ落ちた。



VII 現れた黒衣の帳簿官


 奥から、ひとりの男が歩み出てきた。

 黒い帳簿を抱え、顔には無数の数字の刻印。

 帳簿官ベラーノだった。


 彼は低い声で告げた。

「ここは計算所。名は数えられ、返済は命で行われる。――港の名は、もう借金だ」


 ヨハンが睨み返す。

「誰がそんなことを認めた」


 ベラーノは淡々と数字を弾く。

「事実だ。港は灯りを灯しすぎた。その灯りの分だけ“借り”がある」



VIII 数字の雨


 天井から数字の雨が降ってきた。

 白い紙片に刻まれた数字が無数に舞い、体に当たるたび、重くのしかかる。

 ボミエは杖を振り、星の輪で防ぐが、全ては防ぎきれない。


 ナディアが笛を吹き、港の拍を呼び戻す。

 ルーシアンの霧が雨を散らし、ヴァレリアが棘で数字の束を裂く。

 ミレイユが名録を開き、余白に《在》と記した瞬間、数字の一部が消えた。



IX 灯りの席の声


 広場の灯りの席が、遠くから低く「とん」と鳴った。

 その音が港の仲間の胸に届く。

 ヨハンは拳を握りしめた。

「……在、か。掴め」


 その一言で、数字の重さが少し軽くなる。

 灯りの席が座主として、港を守ろうとしているのがわかった。



X 計算所の崩壊


 ミレイユが名録を掲げ、港の名を呼んだ。

「ここに、在る!」


 その瞬間、計算所全体が震えた。

 壁に貼り付けられていた紙が剥がれ、数字が空気に溶けていく。

 ルーシアンの霧が渦を巻き、ヴァレリアの棘が扉を押し開けた。

 ボミエが杖を掲げ、最後の呪文を放つ。

「《句点の封》!」


 紙の兵士たちが崩れ落ち、机の上の算盤が砕け散る。

 計算所は崩壊し、数字の支配が一時的に断たれた。



XI ベラーノの言葉


 ベラーノは、崩れゆく計算所の中央で静かに帳簿を閉じた。

「これで終わりではない。――借りは残っている」


 その声は怒りでも憎しみでもない。ただ淡々とした宣告だった。

 ヨハンは拳を握りしめ、低く答えた。

「借りは返すさ。だが、こっちの“順番”でな」


 ベラーノは影に消えた。



XII 港への帰還


 夜、港に戻ると、潮窯の梁が低く鳴った。

 ナディアは笛を握りしめ、ボミエは杖を抱きしめて椅子に座る。

 ミレイユは名録を閉じ、余白に小さく書き込んだ。


《計算所崩壊/借り:一時停止/座主:在を保持》


 ルーシアンは霧の瓶を棚に戻し、ヴァレリアは袖の棘を整えた。

 ヨハンは胸の銀を押さえ、静かに祈る。

「鍵は胸に、鍵穴は“あいだ”に――掴め」



XIII 夜の兆し


 海の向こう、王都の塔。

 ロザリアは窓辺で薔薇を一枚剥ぎ、短く呟いた。

「嫌い――だから、もっと読むことになる」


 遠く、海蝕洞の底で骨の王が笑った。

「嫌い、嫌い……いいぞ。数字は刃になる」



つづく:第四十四話 骨と紙の誓約

崩れた計算所の余波が港を襲う。

迫る満月、揺れる扉。

そして、港の誰かが――その“借り”のために呼ばれる。

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