表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/323

乾ドックの信号箱、笑う腕木

 



I 干上がった棺、笑う口金


 南波止場の外れ――潮が引き切ると顔を出す大きな窪地がある。

 乾ドック。木枠と鋲打ちの鉄板で組まれた長い棺。沈めれば船を抱き、干せば船底の傷が露わになる。

 その胸骨のような側面に、苔むした信号箱が一つ、取り残されていた。

 箱の屋根は波に削られ、壁には腕木信号の根元だけが残る。腕は失われているのに、支点だけが笑っていた。

 風が吹くたび、金属の口金がカタカタと打ち鳴らされる。――笑いだ。紙が緊張するときに鳴る、乾いた笑い。


 ミレイユが名録を胸に抱き、箱の前で足を止めた。

「ここね。《交差点》の次の座標。紙の切替表にも、王都の図面にも〈乾ドック・信号箱〉とある」

 ルーシアンは霧の瓶を攪拌し、塩気の高さを変えた。「潮の下で紙と骨が噛み合う。ここで腕木が笑えば、どちらかへ通す」


 ナディアは笛を額に当て、わたしたちの喉で短く拍を置く。

 ボミエは杖の結び目を握り、耳をぴんと立てた。「……イヤな紙の匂いニャ。けど、骨も笑ってるニャ。両方ニャ」


 ヨハンは胸の銀を押し、低く落とした。

「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」



II 箱の中の舌、紙の歯車


 信号箱の扉は外からは開かない。だが、中からは笑っている。

 ルーシアンが霧で蝶番を湿し、ヴァレリアが礼の角度で釘の頭を押す。

 釘は怒らない。礼に押されると、順番に抜ける。

 扉が僅かに浮いた瞬間、箱の中から舌が出た。紙でできた長い舌。端には赤い舌苔――朱肉。

 舌は床板を舐め、線路を描こうとしていた。


 ミレイユが名録の短冊ここで舌を軽く叩いた。

 「書くのはこちら」

 ナディアの笛が二三/一四の小節で舌先をずらし、ボミエが句点を落として流れを切る。

 ヴァレリアは袖から礼の棘を一本抜き、舌の側面に置いて角度を固定した。


 箱の奥で、紙の歯車が回る音がした。

 ――判決用紙ヴェルディクトの心臓だ。

 ベラーノは来ていない。だが、法廷は自走するように作られている。



III 腕木信号セマフォールの笑い


 外壁の支点が、いきなりひゅんと跳ねた。

 失われたはずの腕が、影で伸びたのだ。

 腕木信号セマフォールは、影で腕を補い、風の角度で笑う。

 腕が上がれば進行。下がれば停止。斜めなら注意。

 いまは――笑っている。角度が読めない。紙の符丁でも、骨の合図でもない高さ。


 ボミエが杖の結び目で「とん」と足元を鳴らす。「高さを聞くニャ。星で測るニャ」

 星の環が腕木の影に沿って伸び、角度を数字に変える。

 ミレイユがその数字に《嫌》を一字だけ刻む。

 笑いは数字を嫌う。影の腕が一度止まり、角度が読めた。――半分上、半分下。

 進行と停止の中間。あいだのまま、笑う。


 ナディアが短く息を吸う。「嫌い。中間の笑いは、誰かを挟んで割る」



IV 紙の信号士フラッグ、骨の笛子リブリード


 箱の下から二つの影が現れた。

 一つは紙の影、信号士フラッグ。四角い帽子をかぶり、両手に旗。旗は判決文の切れ端で、振られるたびに項目が増える。

 もう一つは骨の影、笛子リブリード。肋骨を束ねた笛を吹き、骨合唱の節を抜き取る。


 フラッグが旗を振る。「項目:主語/顔/灯り/名録――提出!」

 リブリードが肋笛を鳴らす。「述語:整える/刻む/奪う」

 紙と骨が呼応し、腕木がさらに笑う。――あいだに人を立たせ、どちらにも従わせようとする笑い。


 ヴァレリアが礼の棘を床に置いた。「順番。先にこちらが問う」

 ミレイユが短冊われらを箱の欄外に貼る。

 ルーシアンの霧が旗のインクを滲ませ、ボミエの句点が笛の穴を一つ塞いだ。

 ナディアが笛で返照の節を吹く。灯りの席が遠くで「とん」と鳴いた。



V 灯りの席、座主として口を開く


 広場――潮窯の梁の上。

 灯りの席が静かに立った。見えない椅子が、そのまま座主になって喋る。

 言葉はひとつだけ。

 「在」


 その一音が、乾ドックの空気を水平にした。

 腕木の笑いが半拍だけ止まり、フラッグの旗から項目が落ちた。

 リブリードの肋笛は、息を取り違えた。


 ヨハンが掌に力を込める。

 「扉は在の側に立てる。――鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」



VI 判決用紙の雨、句点の網


 信号箱の舌が激しく動いた。

 空へ、判決用紙が数十枚、一斉に跳び上がる。

 四隅に逆薔薇の押印、中央に空欄。――これから書き込む紙だ。人を平面にするための床。


 「撒くニャ!」

 ボミエが杖を高く掲げ、「《句点の網》!」

 星の小さな点が網になり、降りてくる紙の間に張られて速度を奪う。

 ルーシアンの霧が紙肌を湿し、ヴァレリアが礼で角を押え、ミレイユが《ここ》で空欄を先に埋めた。

 ナディアの笛が無音の合図で拍を揃え、灯りの席が「とん」と補拍を落とす。


 雨は床にならなかった。空欄は余白のまま、潮風に破れた。



VII 骨の車輪、紙の歯止め


 乾ドックの底が鳴った。

 骨でできた台車が、泥に埋もれていたレールの上を遡ってくる。

 積荷は喉の鈴と眼の欠片。

 ――今夜持ち去るはずだったものたち。


 ヨハンが前へ出る。「返せ」

 掌の掴めが台車の前に壁をつくり、ルーシアンの塩霧が車輪を噛ませない。

 ヴァレリアが台車の鼻に礼を置き、ミレイユが荷票に《在》を記す。

 ボミエが「《スターライト・ケージ》!」で荷台を囲い、ナディアがわたしたちで鈴の高さを元へ戻す。


 腕木が笑っても、車輪は進まない。

 フラッグが旗を振っても、荷票の項目は増えない。

 リブリードが肋笛を鳴らしても、述語は整わない。



VIII 笑う腕木の「間」へ


 笑いはそこで終わらない。

 腕木の支点がきいと鳴り、影の腕が二重になった。

 進行と停止が同時に掲出され、目は二重写しを見る。

 ――混乱は、借りを増やす最短の術だ。


 ナディアが笛を裏に返し、管の内側で音を反転させる。

 「嫌い。――同時の命令は誰かを割る」

 二三/一四が上下同時に吹かれ、腕木の二重影が一点で重なった。

 その間へ、ヴァレリアの礼が一本、正確に刺さる。

 「順番」

 進行の後に停止、停止の後に注意――順を書き直す。


 ボミエが句点を順番の端に置き、ミレイユが《ここ》でそれを綴じる。

 腕木の笑いが、ひと呼吸だけ黙った。



IX 紙の顔、骨の耳


 フラッグは次の仕掛けを出してきた。

 ――顔札。

 薄い紙の面に、港の者たちの顔が印刷されていく。

 貼られれば、顔は紙になる。主語は平面に変えられる。


 ルーシアンの霧が版のインクを冷やし、ミレイユが顔の下に《名》を太く書く。

 ヴァレリアは礼で面の額を押さえ、地の高さに下ろす。

 ボミエは杖で星を散らし、紙の繊維をほどく。

 ナディアが笛で返照の節を吹くと、顔は紙から剝がれ、胸に戻った。


 ――その時。

 リブリードが肋笛を逆に吹いた。

 耳を狙う骨の音。

 聞き方を奪い、言葉を別の方向へ曲げる。


 灯りの席が強く光った。

 「在」

 在は聞き方の根だ。

 肋笛の逆は正に戻り、耳は胸の方を向いた。



X 砕片の代価、青い欠損


 信号箱の舌が、砕片の青を舐めようと伸びた。

 ナディアの笛に王冠の砕片がはめ込まれていることを、紙は嗅ぎ取ったのだ。

 ――奪えば、印を返せなくなる。


 ヨハンが前に出、掌で舌を掴んだ。

 掴めは刃ではない。錨だ。

 舌の朱が掌に移り、皮膚に逆薔薇が浮かんだ。

 「借りはわしが持つ。――席は灯れ」


 灯りの席がとん。

 半音がまた預けられた。

 ナディアの喉の欠けは増えたが、声は薄くも揺らいでもいない。預りが約束になったからだ。



XI 腕木の根を刈る


 ヴァレリアが信号箱の根元に膝をついた。

 蔓薔薇に似た紙蔓が、箱の下から地に潜り、乾ドック全体へ笑いの配線を伸ばしている。

 「順番を切る」


 礼の棘を一本、根へ置く。

 彼女は斬の棘を袖の奥から初めて出し、礼の上から半度だけ傾けた。

 礼を保ったまま斬る――ヴァレリアだけが使える礼斬。

 紙蔓の中を流れる笑いの順列が崩れ、腕木の支点が泣いた。


 ボミエがそこへ句点を打ち、「《句点の楔》!」と結び目を鳴らす。

 ミレイユが《在》を印し、ルーシアンが塩霧で乾かす。

 ――根が留まった。



XII 干割れの下の骨、胸の王冠の影


 乾ドックの床板の下で、骨が笑った。

 王冠の影が泥の中を移動し、切替輪の見えない予備へと宿ろうとしている。

 ――ネクロ・ロードは、交差点を一つでは終わらせない。


 ナディアが笛を掲げる。

 「嫌い。――増やす笑いは、刃で数える」

 二三/一四が倍速で奏され、港の喉が拍を刻み増す。

 ルーシアンが塩霧を三層にし、ボミエが星の環を二重に、ヴァレリアが礼を四隅に置き、ミレイユが《われら》を太くする。

 ヨハンが「掴め」で扉を押さえ、灯りの席が「とん」で地を支える。


 泥の中の王冠は、笑うのをやめた。

 ――次に会うときまで。



XIII 紙の退き、骨の沈黙


 フラッグの旗が垂れ、リブリードの肋笛が割れた。

 信号箱の舌は朱を失い、白い紙屑になって床に落ちる。

 腕木の支点は笑いを忘れ、ただの鉄に戻った。


 乾ドックに風が通る。

 潮が回り始める。

 紙は退き、骨は沈む。

 あいだに残ったのは――在の拍。



XIV 取り戻される鈴、戻れなかった半歩


 台車から喉の鈴が降ろされ、ナディアの指の間で高さを探す。

 どの鈴も、戻るべき胸を覚えていた。

 ただ一つ、半歩だけ高い鈴があった。

 ――ザードルの席の返照と同じ高さ。


 ボミエが鈴を両手で包む。「戻っていいニャ。怖くないニャ」

 鈴はためらい、灯りの席が「とん」と同じ高さで呼びかけた。

 鈴は戻った。

 半歩の残響だけが、潮窯の梁に皺を刻んだ。



XV 紙の書類、薔薇の一片


 夕刻、港の風に小さな紙片が舞い込んだ。

 薔薇宰相ロザリアの花弁。

 そこには短く、斜めに書かれていた。


嫌い。――だから、よくやった。

ただし、信号箱は人を笑わせるためにあるのではない。

腕木は順番の手。礼を忘れなければ、刃にもなる。

座主に告ぐ。――預りすぎるな。返しどころを見なさい。


 紙の裏に、ごく薄い地図。

 港の北、廃倉庫群の奥――計算所と記された紙の塔。

 満月の前夜、帳はそこで合算を行う。



XVI 潮窯の夜、座主の沈黙


 潮窯の卓に杯が並び、七つの拍が順に落ちる。

 ミレイユ「名に」

 ルーシアン「水に」

 ヴァレリア「順番に」

 ボミエ「句点にニャ」

 ナディア(わたしたち)「歌に」

 ヨハン「掴むに」

 ――灯りの席は、今夜は鳴らない。

 座主としての口を、今は閉じている。預りが重くならぬように。


 代わりに、梁が低く鳴った。

 地は、怒らない。

 返すべきを、覚えている。



XVII ミレイユの備忘、礼の欠片


 ミレイユは名録の余白に、細く書いた。

 > 《乾ドック 信号箱:根切/舌収/腕木礼斬(棘-1)》

 > 《預り:半音二(席)/印:逆薔薇掌ヨハン

 > 《次:北倉庫 計算所(紙の塔)》


 ヴァレリアは袖から折れた棘の半欠片を取り出し、ボミエの掌に載せる。

 「護符じゃない。――借りの証」

 ボミエは真剣に頷き、「必ず返すニャ」と胸にしまった。



XVIII 夜警と子ら、鐘の高さ


 トマスが鐘楼で小さな鐘を試しに鳴らす。

 高さは、戻っている。

 子らの顔は紙から剝がれ、頬の温度が夜風で上がった。

 紙の衛士パラフィンは、白蝋の四角へ封じられたまま。

 査閲会所は消えない。だが、境界は薄い。


 ナディアは喉を撫で、「嫌い」とだけ言って、笑わなかった。

 笑いは、誰かを挟むから。



XIX 海の底、骨の王の独り言


 海蝕洞。

ネクロ・ロードは割れた王冠の芯を磨き、乾ドックの笑いの止む瞬間を聴いた。

 「座主が口を持った。――在は、読めない」

 骨の観客の胸に風が通り、拍は増速される。

 「嫌い。――良い」

 王の嫌いが、ほんの少しだけ温かくなった。



XX 明け方の祈り、次の扉


 東の空が白む。

 ヨハンは胸の銀を押し、短く祈った。

 「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――次も、掴む」


 港の屋根に青が点り、潮窯の梁に皺が増えた。

 在の皺。

 紙の塔への道は、まだ遠い。

 でも、地は怒らない。灯りは座り、わたしたちは息を合わせる。


 乾いた笑いの支点は、もう笑わない。

 かわりに――扉が、そこに立っている。



つづく:第四十三話 北倉庫の計算所、数える手

王都の帳は港の「名」を数えに来る。

机の上の算盤が雨に、数字の網が喉にかかる。

星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。

そのとき灯りの席は、座主として預りを返す“とき”を選ぶ――在の高さで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ