乾ドックの信号箱、笑う腕木
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I 干上がった棺、笑う口金
南波止場の外れ――潮が引き切ると顔を出す大きな窪地がある。
乾ドック。木枠と鋲打ちの鉄板で組まれた長い棺。沈めれば船を抱き、干せば船底の傷が露わになる。
その胸骨のような側面に、苔むした信号箱が一つ、取り残されていた。
箱の屋根は波に削られ、壁には腕木信号の根元だけが残る。腕は失われているのに、支点だけが笑っていた。
風が吹くたび、金属の口金がカタカタと打ち鳴らされる。――笑いだ。紙が緊張するときに鳴る、乾いた笑い。
ミレイユが名録を胸に抱き、箱の前で足を止めた。
「ここね。《交差点》の次の座標。紙の切替表にも、王都の図面にも〈乾ドック・信号箱〉とある」
ルーシアンは霧の瓶を攪拌し、塩気の高さを変えた。「潮の下で紙と骨が噛み合う。ここで腕木が笑えば、どちらかへ通す」
ナディアは笛を額に当て、わたしたちの喉で短く拍を置く。
ボミエは杖の結び目を握り、耳をぴんと立てた。「……イヤな紙の匂いニャ。けど、骨も笑ってるニャ。両方ニャ」
ヨハンは胸の銀を押し、低く落とした。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」
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II 箱の中の舌、紙の歯車
信号箱の扉は外からは開かない。だが、中からは笑っている。
ルーシアンが霧で蝶番を湿し、ヴァレリアが礼の角度で釘の頭を押す。
釘は怒らない。礼に押されると、順番に抜ける。
扉が僅かに浮いた瞬間、箱の中から舌が出た。紙でできた長い舌。端には赤い舌苔――朱肉。
舌は床板を舐め、線路を描こうとしていた。
ミレイユが名録の短冊で舌を軽く叩いた。
「書くのはこちら」
ナディアの笛が二三/一四の小節で舌先をずらし、ボミエが句点を落として流れを切る。
ヴァレリアは袖から礼の棘を一本抜き、舌の側面に置いて角度を固定した。
箱の奥で、紙の歯車が回る音がした。
――判決用紙の心臓だ。
ベラーノは来ていない。だが、法廷は自走するように作られている。
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III 腕木信号の笑い
外壁の支点が、いきなりひゅんと跳ねた。
失われたはずの腕が、影で伸びたのだ。
腕木信号は、影で腕を補い、風の角度で笑う。
腕が上がれば進行。下がれば停止。斜めなら注意。
いまは――笑っている。角度が読めない。紙の符丁でも、骨の合図でもない高さ。
ボミエが杖の結び目で「とん」と足元を鳴らす。「高さを聞くニャ。星で測るニャ」
星の環が腕木の影に沿って伸び、角度を数字に変える。
ミレイユがその数字に《嫌》を一字だけ刻む。
笑いは数字を嫌う。影の腕が一度止まり、角度が読めた。――半分上、半分下。
進行と停止の中間。あいだのまま、笑う。
ナディアが短く息を吸う。「嫌い。中間の笑いは、誰かを挟んで割る」
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IV 紙の信号士、骨の笛子
箱の下から二つの影が現れた。
一つは紙の影、信号士。四角い帽子をかぶり、両手に旗。旗は判決文の切れ端で、振られるたびに項目が増える。
もう一つは骨の影、笛子。肋骨を束ねた笛を吹き、骨合唱の節を抜き取る。
フラッグが旗を振る。「項目:主語/顔/灯り/名録――提出!」
リブリードが肋笛を鳴らす。「述語:整える/刻む/奪う」
紙と骨が呼応し、腕木がさらに笑う。――あいだに人を立たせ、どちらにも従わせようとする笑い。
ヴァレリアが礼の棘を床に置いた。「順番。先にこちらが問う」
ミレイユが短冊を箱の欄外に貼る。
ルーシアンの霧が旗のインクを滲ませ、ボミエの句点が笛の穴を一つ塞いだ。
ナディアが笛で返照の節を吹く。灯りの席が遠くで「とん」と鳴いた。
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V 灯りの席、座主として口を開く
広場――潮窯の梁の上。
灯りの席が静かに立った。見えない椅子が、そのまま座主になって喋る。
言葉はひとつだけ。
「在」
その一音が、乾ドックの空気を水平にした。
腕木の笑いが半拍だけ止まり、フラッグの旗から項目が落ちた。
リブリードの肋笛は、息を取り違えた。
ヨハンが掌に力を込める。
「扉は在の側に立てる。――鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」
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VI 判決用紙の雨、句点の網
信号箱の舌が激しく動いた。
空へ、判決用紙が数十枚、一斉に跳び上がる。
四隅に逆薔薇の押印、中央に空欄。――これから書き込む紙だ。人を平面にするための床。
「撒くニャ!」
ボミエが杖を高く掲げ、「《句点の網》!」
星の小さな点が網になり、降りてくる紙の間に張られて速度を奪う。
ルーシアンの霧が紙肌を湿し、ヴァレリアが礼で角を押え、ミレイユが《ここ》で空欄を先に埋めた。
ナディアの笛が無音の合図で拍を揃え、灯りの席が「とん」と補拍を落とす。
雨は床にならなかった。空欄は余白のまま、潮風に破れた。
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VII 骨の車輪、紙の歯止め
乾ドックの底が鳴った。
骨でできた台車が、泥に埋もれていたレールの上を遡ってくる。
積荷は喉の鈴と眼の欠片。
――今夜持ち去るはずだったものたち。
ヨハンが前へ出る。「返せ」
掌の掴めが台車の前に壁をつくり、ルーシアンの塩霧が車輪を噛ませない。
ヴァレリアが台車の鼻に礼を置き、ミレイユが荷票に《在》を記す。
ボミエが「《スターライト・ケージ》!」で荷台を囲い、ナディアがわたしたちで鈴の高さを元へ戻す。
腕木が笑っても、車輪は進まない。
フラッグが旗を振っても、荷票の項目は増えない。
リブリードが肋笛を鳴らしても、述語は整わない。
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VIII 笑う腕木の「間」へ
笑いはそこで終わらない。
腕木の支点がきいと鳴り、影の腕が二重になった。
進行と停止が同時に掲出され、目は二重写しを見る。
――混乱は、借りを増やす最短の術だ。
ナディアが笛を裏に返し、管の内側で音を反転させる。
「嫌い。――同時の命令は誰かを割る」
二三/一四が上下同時に吹かれ、腕木の二重影が一点で重なった。
その間へ、ヴァレリアの礼が一本、正確に刺さる。
「順番」
進行の後に停止、停止の後に注意――順を書き直す。
ボミエが句点を順番の端に置き、ミレイユが《ここ》でそれを綴じる。
腕木の笑いが、ひと呼吸だけ黙った。
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IX 紙の顔、骨の耳
フラッグは次の仕掛けを出してきた。
――顔札。
薄い紙の面に、港の者たちの顔が印刷されていく。
貼られれば、顔は紙になる。主語は平面に変えられる。
ルーシアンの霧が版のインクを冷やし、ミレイユが顔の下に《名》を太く書く。
ヴァレリアは礼で面の額を押さえ、地の高さに下ろす。
ボミエは杖で星を散らし、紙の繊維をほどく。
ナディアが笛で返照の節を吹くと、顔は紙から剝がれ、胸に戻った。
――その時。
リブリードが肋笛を逆に吹いた。
耳を狙う骨の音。
聞き方を奪い、言葉を別の方向へ曲げる。
灯りの席が強く光った。
「在」
在は聞き方の根だ。
肋笛の逆は正に戻り、耳は胸の方を向いた。
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X 砕片の代価、青い欠損
信号箱の舌が、砕片の青を舐めようと伸びた。
ナディアの笛に王冠の砕片がはめ込まれていることを、紙は嗅ぎ取ったのだ。
――奪えば、印を返せなくなる。
ヨハンが前に出、掌で舌を掴んだ。
掴めは刃ではない。錨だ。
舌の朱が掌に移り、皮膚に逆薔薇が浮かんだ。
「借りはわしが持つ。――席は灯れ」
灯りの席がとん。
半音がまた預けられた。
ナディアの喉の欠けは増えたが、声は薄くも揺らいでもいない。預りが約束になったからだ。
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XI 腕木の根を刈る
ヴァレリアが信号箱の根元に膝をついた。
蔓薔薇に似た紙蔓が、箱の下から地に潜り、乾ドック全体へ笑いの配線を伸ばしている。
「順番を切る」
礼の棘を一本、根へ置く。
彼女は斬の棘を袖の奥から初めて出し、礼の上から半度だけ傾けた。
礼を保ったまま斬る――ヴァレリアだけが使える礼斬。
紙蔓の中を流れる笑いの順列が崩れ、腕木の支点が泣いた。
ボミエがそこへ句点を打ち、「《句点の楔》!」と結び目を鳴らす。
ミレイユが《在》を印し、ルーシアンが塩霧で乾かす。
――根が留まった。
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XII 干割れの下の骨、胸の王冠の影
乾ドックの床板の下で、骨が笑った。
王冠の影が泥の中を移動し、切替輪の見えない予備へと宿ろうとしている。
――ネクロ・ロードは、交差点を一つでは終わらせない。
ナディアが笛を掲げる。
「嫌い。――増やす笑いは、刃で数える」
二三/一四が倍速で奏され、港の喉が拍を刻み増す。
ルーシアンが塩霧を三層にし、ボミエが星の環を二重に、ヴァレリアが礼を四隅に置き、ミレイユが《われら》を太くする。
ヨハンが「掴め」で扉を押さえ、灯りの席が「とん」で地を支える。
泥の中の王冠は、笑うのをやめた。
――次に会うときまで。
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XIII 紙の退き、骨の沈黙
フラッグの旗が垂れ、リブリードの肋笛が割れた。
信号箱の舌は朱を失い、白い紙屑になって床に落ちる。
腕木の支点は笑いを忘れ、ただの鉄に戻った。
乾ドックに風が通る。
潮が回り始める。
紙は退き、骨は沈む。
あいだに残ったのは――在の拍。
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XIV 取り戻される鈴、戻れなかった半歩
台車から喉の鈴が降ろされ、ナディアの指の間で高さを探す。
どの鈴も、戻るべき胸を覚えていた。
ただ一つ、半歩だけ高い鈴があった。
――ザードルの席の返照と同じ高さ。
ボミエが鈴を両手で包む。「戻っていいニャ。怖くないニャ」
鈴はためらい、灯りの席が「とん」と同じ高さで呼びかけた。
鈴は戻った。
半歩の残響だけが、潮窯の梁に皺を刻んだ。
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XV 紙の書類、薔薇の一片
夕刻、港の風に小さな紙片が舞い込んだ。
薔薇宰相ロザリアの花弁。
そこには短く、斜めに書かれていた。
嫌い。――だから、よくやった。
ただし、信号箱は人を笑わせるためにあるのではない。
腕木は順番の手。礼を忘れなければ、刃にもなる。
座主に告ぐ。――預りすぎるな。返しどころを見なさい。
紙の裏に、ごく薄い地図。
港の北、廃倉庫群の奥――計算所と記された紙の塔。
満月の前夜、帳はそこで合算を行う。
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XVI 潮窯の夜、座主の沈黙
潮窯の卓に杯が並び、七つの拍が順に落ちる。
ミレイユ「名に」
ルーシアン「水に」
ヴァレリア「順番に」
ボミエ「句点にニャ」
ナディア(わたしたち)「歌に」
ヨハン「掴むに」
――灯りの席は、今夜は鳴らない。
座主としての口を、今は閉じている。預りが重くならぬように。
代わりに、梁が低く鳴った。
地は、怒らない。
返すべきを、覚えている。
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XVII ミレイユの備忘、礼の欠片
ミレイユは名録の余白に、細く書いた。
> 《乾ドック 信号箱:根切/舌収/腕木礼斬(棘-1)》
> 《預り:半音二(席)/印:逆薔薇掌》
> 《次:北倉庫 計算所(紙の塔)》
ヴァレリアは袖から折れた棘の半欠片を取り出し、ボミエの掌に載せる。
「護符じゃない。――借りの証」
ボミエは真剣に頷き、「必ず返すニャ」と胸にしまった。
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XVIII 夜警と子ら、鐘の高さ
トマスが鐘楼で小さな鐘を試しに鳴らす。
高さは、戻っている。
子らの顔は紙から剝がれ、頬の温度が夜風で上がった。
紙の衛士は、白蝋の四角へ封じられたまま。
査閲会所は消えない。だが、境界は薄い。
ナディアは喉を撫で、「嫌い」とだけ言って、笑わなかった。
笑いは、誰かを挟むから。
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XIX 海の底、骨の王の独り言
海蝕洞。
ネクロ・ロードは割れた王冠の芯を磨き、乾ドックの笑いの止む瞬間を聴いた。
「座主が口を持った。――在は、読めない」
骨の観客の胸に風が通り、拍は増速される。
「嫌い。――良い」
王の嫌いが、ほんの少しだけ温かくなった。
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XX 明け方の祈り、次の扉
東の空が白む。
ヨハンは胸の銀を押し、短く祈った。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――次も、掴む」
港の屋根に青が点り、潮窯の梁に皺が増えた。
在の皺。
紙の塔への道は、まだ遠い。
でも、地は怒らない。灯りは座り、わたしたちは息を合わせる。
乾いた笑いの支点は、もう笑わない。
かわりに――扉が、そこに立っている。
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つづく:第四十三話 北倉庫の計算所、数える手
王都の帳は港の「名」を数えに来る。
机の上の算盤が雨に、数字の網が喉にかかる。
星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。
そのとき灯りの席は、座主として預りを返す“とき”を選ぶ――在の高さで。




