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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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査閲会所の夜、紙の法廷

 



I 白蝋の四角、満月前夜


 港の広場に描かれた白蝋の四角が、夜の潮風の中でゆっくりと光り始めた。

 満月が雲を割り、光は線を縫うように四辺を照らす。

 その瞬間、紙の匂いが一段と濃くなった。乾いた接着剤、古いインク、そして薔薇を焦がした蜜――あの匂いだ。


 潮窯の仲間たちは、広場の端から静かに見守った。

 ナディアが笛を胸に抱きしめ、ルーシアンは霧を足元に溜め、ヴァレリアは袖に棘を忍ばせる。

 ボミエは杖を握り、耳をぴんと立てていた。

 ヨハンは胸の銀を押し、「鍵は胸に、鍵穴は“あいだ”に」と心の奥で繰り返していた。



II 紙の法廷、開廷


 風が止み、白蝋の四角の中心に影が立ち上がった。

 影はゆっくりと形を取り、人の姿になった――帳簿官ベラーノ。

 その手には、あの呼吸する帳簿フェジア。頁の小口が歯のように震え、乾いた舌打ちが夜の空気を切った。


 「査閲会所、開廷。」

 ベラーノの声は低く、紙の裏から響くようだった。

 「貸借の精算を行う。 呼び出し、順に」


 フェジアの頁がめくれ、項目が浮かぶ。

 名、声、灯り――港の全員の存在を記す文字が並ぶ。

 ひとつひとつが、紙の檻の中で光を放っていた。



III 最初の呼び出し


 最初に呼ばれたのは、港の少年トマスだった。

 足が震えて前へ進めないトマスの肩に、ボミエがそっと杖を置いた。

 「大丈夫ニャ。怖がらないでニャ。」


 トマスが四角の中に立つと、紙の法廷がざわめく。

 フェジアの舌が空を舐め、記録が浮かぶ。


《鐘の鳴り:不揃い》《利子:未精算》


 ベラーノが告げた。

 「貸借、整えよ。鐘を、きちんと鳴らせ。」


 その瞬間、灯りの席が小さくとんと鳴いた。

 トマスは胸を張り、震える声で言う。

 「ぼくは鐘を鳴らす。港の朝を知らせるために。」


 フェジアの頁が一枚、ぱたりと閉じた。

 トマスの呼吸が少し楽になり、紙の匂いが一瞬薄れた。



IV 灯りの席の召喚


 次に呼ばれたのは――灯りの席だった。

 白蝋の四角の中央が震え、潮窯の梁から光が伸びて、見えない椅子がそこに現れる。


 港中がざわめいた。

 ナディアは笛を握り、低く息を吐いた。

 「……嫌い。でも、聞く」


 フェジアの舌が動く。


《灯りの席:未登録》《返照:過剰》《借り:不明》


 ベラーノが問いかけた。

 「その灯りは何だ。何を照らしている。」


 席は答えない。

 ただ――とんと低く響いた。

 それは言葉ではなかったが、意味はあった。

 「在」――そう聞こえた。


 フェジアの頁がかすかに震え、紙の声が乾いた笑いを漏らした。



V 逆押しの青


 そのとき、ミレイユが胸から骨の王冠の砕片を取り出した。

 砕片は青い光を放ち、白蝋の四角の縁を撫でる。

 ナディアが笛を掲げ、短い旋律を吹いた。


 砕片の青が光の線となり、白蝋の内側へと流れ込む。

 紙の法廷の枠が一瞬揺らぎ、フェジアが苦しげに頁を閉じた。


 「不正操作。」ベラーノの声が低く響く。

 だが、灯りの席の呼び出しは消えた。

 港の空気が少し軽くなる。



VI 記録の裂け目


 帳簿官たちが動いた。

 白い外套がひらめき、手には赤いインク壺と鋭い羽根ペン。

 彼らは港の地面に細い線を走らせ、そこに新たな記録を刻もうとした。


 ルーシアンの霧が足元を覆い、線の輪郭を溶かした。

 ヴァレリアが袖の棘を抜き、線の端に「礼」を打つ。

 ボミエが杖を振り、「句点」を落として記録の流れを断つ。


 ナディアの笛が鋭く鳴り、港の拍が揃う。

 「嫌いは嫌い。――だけど、奪わせない。」



VII フェジアの罠


 だが、フェジアは別の罠を仕掛けていた。

 港の屋根の上に、薄い紙の影がいくつも広がっていく。

 子どもたちの部屋、潮窯の隅、灯台の足元――あらゆる場所に「見えない頁」が貼り付けられていたのだ。


 ボミエの耳が動く。

 「……紙の匂いニャ。」


 ルーシアンが霧を高め、港の空気を撫でる。

 ヴァレリアが気配を読み、棘を構えた。

 ヨハンは胸の銀を押し、「掴め」を心で唱える。


 灯りの席が強く光り、「とん」と鳴いた。

 その瞬間、貼り付けられた紙の影が一斉に剥がれ、広場の白蝋の四角に吸い込まれた。



VIII 宰相の声


 風が止み、紙の裏から声がした。

 薔薇宰相ロザリアだ。


 「嫌い。――だから、覚えなさい。

 帳は敵じゃない。借りは刃になる。読むことを忘れないで。」


 その声に、港の空気がかすかに震えた。

 ナディアは笛を握りしめ、静かに頷いた。



IX 帳簿官の撤収


 白蝋の四角が淡く光り、帳簿官たちがゆっくりと退いた。

 フェジアの頁が閉じられ、最後の一行だけが地面に残る。


《次回査閲:満月の夜、再召喚》


 ベラーノは何も言わず、影とともに消えた。

 紙の匂いだけが、港に薄く残った。



X 潮窯の夜


 潮窯に戻ると、港の仲間たちが静かに集まった。

 ナディアは喉を撫で、低く息を吐いた。

 ボミエは杖を抱き、星の光を見つめる。


 ヨハンは杯を掲げた。

 「名に。」

 ルーシアンが応える。「水に。」

 ヴァレリアが低く言う。「順番に。」

 ミレイユは小さな声で、「ここに。」

 ナディアは喉で、「歌に。」

 そしてヨハンが締める。「掴むために。」


 杯が触れ合い、静かな音が潮窯に響いた。

 灯りの席が「とん」と鳴き、港の夜に拍を刻んだ。



XI 余白の誓い


 夜更け、ミレイユは名録の余白にそっと書いた。


《嫌いは刃になる。読むことをやめない。》


 その行を囲うように、灯りの席が微かに光った。

 「とん」。――それは誓いの返照だった。



XII 次なる影


 海の向こう、王都の塔。

 ロザリアは窓辺に立ち、紙の束を手にしていた。

 その視線の先で、骨の王冠の破片が薄く光る。


 「……嫌い。」

 それは呟きのようで、命令でもあった。


 そして、次の波が港へ向かって動き始めた。




つづく:第四十一話 骨と紙の交差点

満月が迫り、港と王都の帳簿が再び繋がる。

骨の王と紙の宰相、その狭間で灯りの席が選ぶのは――守るべき港か、それとも借りを清算する未来か。

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