王都からの列車、薔薇宰相の影
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I 港の朝、軋むレール
朝の光はあるのに、音のほうが先だった。
海沿いの崖を削って通す一本の古いレール――塩を噛んで錆び、魚の鱗のように剝がれたその鉄が、久しぶりに軋んだ。
灯台の影を裂き、短い編成の列車が現れる。機関車は黒、煙は薄青。車体の側面には、王都の紋章と絡み合う薔薇の浮彫り――薔薇宰相ロザリアの印。
プラットフォームはない。港の積み場にそのまま列車が横付けされ、紙の匂いが海風に混じった。甘くて乾いた、焼いた接着剤の匂い。
先頭車両の扉が静かに開き、帳簿官たちが降り立つ。灰色の外套、白い手袋、胸のポケットには赤いインク壺と封緘印。
彼らの先頭に、主監。眉は糸のように細く、声は紙の裏側から響く。腕には紺革の厚い帳簿――だが、その帳はただの帳ではなかった。表紙の中央が呼吸している。
人の顔をした帳簿。頁の小口が歯の列のように震え、革の綴じ紐は喉仏みたいに上下する。
ベラーノが薄く笑った。
「王都の査閲だ。《返照の帳》の実地精算――貸借を整えに来た」
港の空気が、潮だまりのように沈む。
ナディアは笛を握り、わたしたちの声で囁いた。
「嫌い。――だから、続ける」
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II 布告:査閲会所の設置
帳簿官たちは港の広場に白いロープを張り、四隅に印璽の杭を打ち込んだ。杭の上には薄紅の薔薇が一輪ずつ、紙で折って置かれる。
ベラーノが紺革の帳を開くと、頁が勝手にめくれ、文字が浮かんで消えた。
「本会所は《返照の帳》の出張口である。各人は主語の残高を提出せよ。利子が滞納された場合、差押を執行する」
「差押って、何を……」と誰かが呟く前に、フェジアの口が開いた。頁の間から出た赤い舌が、空中に一行の文字を舐めて書く。
《主語/視線/喉/名録/灯り》――押収対象
ボミエが杖を抱え、耳をぴんと立てた。
「……灯りはダメニャ。ジュロムの席は、差押え禁止ニャ!」
ベラーノは視線をすべらせ、猫の子を数えるようにボミエを見た。
「禁が効くのは、法の内側だけだ」
ヨハンは胸の銀を押し、短く落とした。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」
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III 最初の査問
最初に呼ばれたのは、港の少年トマスだった。
ベラーノは銀の指で少年を示し、フェジアが頁を鳴らす。
「鐘の鳴り、利子の滞り。――主語、供出」
トマスの喉が詰まる。言葉が背中へ戻りそうになる。
ナディアの笛が二三/一四を短く刻み、ルーシアンの霧がトマスの足下へ薄い段を敷く。
ミレイユは名録の余白に《ぼく》を太く書き、ヴァレリアは礼の角度でその行へ棘を置いた。
ボミエが句点を踵に落とす。「ここニャ。落ちないニャ」
トマスは息を吸い――今度は前に吐いた。
「ぼくは、鐘を鳴らす!」
フェジアの頁が一枚、折られる。
ベラーノは薄く笑い、次の名を呼んだ。
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IV 紙の虫と差押印
帳簿官のひとりが、ナディアの喉へ差押の印を翳した。印面の字は反転した薔薇――逆薔薇。
印が空気を押す。触れた音が紙になって裂け、喉の半分が帳簿の余白みたいに無口になった。
「返せ」
ヴァレリアが袖の中の棘を礼から斬へ半分傾け、印の柄を縫い止める。
ルーシアンの霧が印面を濡らし、ボミエの句点が朱肉の表面張力を壊す。
ミレイユは名録の余白に《わたしたち(預)》と書き足し、灯りの席がとんと鳴って喉の空白を支えた。
印は滑り、逆薔薇は滲んだ。
ベラーノは目を細め、フェジアの頁を指で扇いだ。紙魚が几帳面に列を作って這い出し、港の地面に小さな穴を穿つ。道の記憶に虫喰いを作る。
「嫌い」
エステラはいない。だが、影犬の血の匂いが残っていた。
ルーシアンがその匂いを霧に混ぜ、紙魚の道へ吹き込む。
紙の虫は匂いを嫌って折れ、穴は句点で塞がれた。
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V 薔薇の影、紙の声
そのとき、フェジアの頁の奥で、乾いた笑いがした。
ロザリアだ。
紙の裏から、薄い声が滲んでくる。
「嫌い。――だから、学びなさい」
指導ではない。試験でもない。ただ、嫌いの使い方を促す声。
ベラーノは微かに顎を引いた。それが合図となり、広場の白いロープが少し締まる。
査閲会所の境界が強まる。ロープの四隅に置かれた紙の薔薇が、一枚ずつ花弁を剝ぎ、空へ放つ。花弁は紙片になり、落ちながら項目を増やした。
《灯りの席:要監視》《名録:複写申請》《星杖:登録外》
ボミエが目を丸くする。
「杖はピックルの遺し物ニャ……登録なんて、してないニャ……」
「ならば、臨時登録だ」
ベラーノが印璽を返し、フェジアが舌で項目を朱に染める。
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VI 砕片、逆押し
ミレイユが目を伏せ、胸から青い欠片を取り出した。
骨の王冠の砕片。
灯りの席の脇に置かれていたそれは、触れると冷え、痛くない。
「逆押しをかける。――王の印で、紙の印を返す」
ミレイユは欠片をナディアに渡し、ナディアは笛の銀輪に砕片をはめ込んだ。
ボミエが杖の結び目をとんと鳴らし、「《星燐・逆薔薇》!」
ルーシアンの霧が砕片の縁を洗い、ヴァレリアが礼で角度を置く。
ヨハンは胸の銀を押し、掴めを落とした。
ナディアの笛が短く鳴る。
砕片の青が逆薔薇の朱へ沈み、印は裏返った。
臨時登録は臨時免除に、複写申請は複写禁止に、要監視は要灯に――記載が反転する。
フェジアの頁がぱんと閉じた。
ベラーノの左頬が、紙のように薄く引き攣る。
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VII 帳簿官の反撃:計算盤の雨
帳簿官たちが一斉に懐から計算盤を抜いた。
珠は骨、枠は蔓薔薇。
彼らは無言で珠を弾き、空に数字を飛ばす。数字は網になり、人の名の上に覆いかぶさる。主語が数字に変えられてしまう。
ナディアが二三/一四を切り、ルーシアンが霧で数字の角を丸め、ミレイユが**《われら》で名を太くする。
ヴァレリアの礼は網の目に棘を置き、ボミエの句点が数字を語に戻す。
ヨハンは掴めで掌を差し出し、数字を受け止めた。
「わしらは、数えられるだけの誰**かではない」
灯りの席がとんと鳴り、港の床が一拍広がる。
数字の網はほどけ、計算盤は沈んだ。
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VIII フェジア、顔の頁
フェジアが頁を舐め、今度は顔の頁を開いた。
鏡のような紙に、港の人々の顔が並ぶ。
ひとつ、ひとつ――紙に貼り付けようとする。顔を記録にすることは、主語を平面にすることだ。
エステラの匂いはない。だが、影犬霧がまだ薄く効いている。
ルーシアンが匂いの高さを調整し、ミレイユは顔の下に《ここ》を挿れる。
ヴァレリアは礼で頁の端を押さえ、ボミエが星で綴じ糸を焼いた。
ナディアが笛で返照の節を吹く。
顔は紙から剝がれ、胸に戻る。
フェジアの舌が紙を裂き、悔しげに頁を閉じた。
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IX ロザリアの手紙
ベラーノが外套の裏から、封蝋の手紙を取り出した。
薔薇の紋、逆薔薇の名――ロザリアからの委任状。
封を切ると、匂いがした。砂糖を焦がして薔薇で煮た蜜の匂い。嫌いな甘さ。
ナディアが手紙を受け取る。文字は短く、斜め。
> 嫌い。――だから、続けなさい。
> ただし、帳は壊すのでなく、読みなさい。借りは裏にも書かれる。
紙の裏を透かすと、薄い追伸が見えた。
> 灯りの席は、収奪不能。――王国法にも記されている。
ベラーノの眉が糸のように震えた。
「主監命令を上書き……宰相権か。――嫌いだ」
「嫌いなら、続けるといい」
ヨハンが言う。「嫌いは芯になる」
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X 帳簿官の撤収と置き土産
日が傾く。列車の汽笛が一度、短く鳴った。
ベラーノはフェジアを閉じ、白いロープの四隅から紙の薔薇を回収する。
「執行は延期する。……だが、査閲会所は残す」
広場の石畳に、白蝋で描かれた四角が残った。四隅には薄い押印。
「次回査閲:満月の翌朝」
紙の声が書いて去る。
列車は塩のレールを軋ませ、薔薇の影を引いて崖沿いに去った。
潮の風が紙を冷やし、港の屋根に青い点が一つ、また一つと戻る。
灯りの席は静かにとんと鳴き、在の印を保った。
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XI 潮窯の夜、貸借の読み合わせ
潮窯。
ミレイユが名録を広げ、港の人々の名を読み、刻まれた借りと返しを声で追う。
ルーシアンが霧で欠けた拍を埋め、ヴァレリアが礼で順番を戻し、ナディアはわたしたちの喉で合唱を繋ぐ。
ボミエは杖の結び目で卓を「とん」と鳴らし、句点の網を準備する。
ヨハンは杯を配り、短く挙げた。
「名に」――ミレイユ。
「水に」――ルーシアン。
「順番に」――ヴァレリア。
「句点にニャ」――ボミエ。
「歌に」――ナディア(わたしたち)。
「掴むに」――ヨハン。
杯が触れ合い、拍が揃う。
灯りの席が一度、深く点滅した。とん。――地の返り拍。
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XII 夜半の忍び、紙の影
しかし、帳簿官は去っていなかった。
列車の最後尾から紙の影が一枚、港の夜の壁に貼り付いたまま残っていた。
――紙衛士。
蝋引きの薄い身体、角は折られ、腹に封蝋。彼らは目録に名前のない余白を食べに来る。
最初の余白は、子どもの影だった。
パラフィンは窓の布をそっとめくり、寝息の間の空白を切り取り、封蝋で袋にする。
ボミエの耳がぴくりと立った。
「……紙の匂いニャ」
彼女は窓辺に駆け寄り、杖の結び目をとんと鳴らす。
句点の火が走り、封蝋の縁が剝がれた。
ルーシアンが霧で封蝋を冷やし、ヴァレリアが礼で袋の首を押さえ、ミレイユが名で袋を縫い直す。
ナディアが返照の節を吹くと、影は胸へ戻った。
パラフィンは磨りガラスのように薄くなり、壁へ逃げた。
ヨハンが掴めで掌を差し出す。
「扉は残る。――出て行け」
紙の衛士はひらりと折れて、白蝋の四角の中へ潜った。
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XIII 白蝋の四角、罠の読み
広場の白蝋の四角は、ただの枠ではなかった。
査閲会所は、次の満月に向けて書式を育てている。
枠の中に座れば、問われるのは主語。――**『あなたは、あなたである必要がありますか』**という質問。
ミレイユは四角の縁に青い点を打った。
「読む前に、書く。こちらから条件を置くの」
彼女は余白に《灯りの席:免責》《子の影:不可譲》《遺物:不可分》を書き込み、ヴァレリアが礼で角に棘を置いた。
ルーシアンは塩で蝋の表面を曇らせ、ボミエが句点で四辺を縫う。
ナディアは笛を額に当て、わたしたちの沈黙を置いた。沈黙も記だ。
白蝋は鳴った。不承諾の音。
「嫌い」紙の裏の笑いが低く言い、だから続けなさいが薄く重なる。
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XIV 列車の来歴、港の来歴
夜のふち、トマスが鐘楼の下で小さな声を出した。
「この線路は、昔、骨粉を運ぶためにできたんだって。戦場から集めた骨を砕いて、畑に撒くために」
ミレイユが頷く。
「借りは、いつも肥えにされる。記が食べ物に変わるみたいに」
ヨハンは胸の銀を押し、鍵を確かめた。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――わしらは扉を閉めきらん。開けたまま守る」
ナディアのわたしたちが、二三/一四を小さく刻む。
ボミエは杖の結び目でとんと卓を鳴らし、ルーシアンは霧で段を作り、ヴァレリアは礼を置き、ミレイユは名を太くした。
灯りの席が応える。とん。
エステラの匂いは風の高さで残り、ジュロムの地は床の奥で持たれている。
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XV 小さな喪失、小さな返照
深夜、返照の帳が棚でひとりでにめくれた。
貸方に細い字で《査閲会所設置:一》が増え、借方に《免責条項:三》が加わる。
利子――主語の小片が、ナディアの胸から一音だけ削れた。
彼女は喉に手を当て、わたしたちの中で沈黙を静かに撫でる。
そのとき、灯りの席が少し強く光り、削れた一音と同じ高さでとんと鳴いた。
返照。預り。
席は主語の欠片を預かった。
ナディアは目を閉じ、「ありがとう」とだけ言った。
嫌い、と言える場所が、ここにある。
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XVI 朝の兆し、薔薇色の帳
東が白む。
列車は去ったのに、薔薇色の薄い帳が港の屋根の上に残っている。
紙は空にまで伸びる。嫌いな甘さは、朝の風でも剝がれない。
ミレイユが名録を閉じ、肩で息をした。
「読むことが、戦いになるなんてね」
ヨハンは小さく笑った。
「書くことも、戦いじゃ。――掴むためにな」
ボミエは杖の結び目に額を当て、そっと言った。
「星は、逃げないニャ。句点も、逃げないニャ」
ヴァレリアは袖を整え、「順番」とだけ言って立ち上がった。
ルーシアンは霧の瓶を並べ、海の匂いの高さを整える。
灯りの席が一度、深く点滅し、潮窯の梁に新しい皺が刻まれた。
――居場所の皺。在の跡。
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XVII 余白に書く、港の備忘
広場の白蝋の四角の外側に、港の子らがチョークで絵を描き始めた。
魚、星、鐘、猫、杖、槌、薔薇、匂い、霧、拍、ここ。
文字にならない記が石に残る。紙は食べられる。石は齧りにくい。
ミレイユはその上に、細く《嫌い》と書き、二重線で囲った。
ナディアは笛で無音の合図を置く。
ルーシアンが絵の縁に塩を撒き、ヴァレリアが礼の角度で足跡の順番を付けた。
ボミエが句点を端に落とし、ヨハンは掴めで掌を広げた。
風が起き、薔薇の甘さが少しだけ薄くなった。
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XVIII 遠景:海の底で回る歯車
海蝕洞のさらに底。
ネクロ・ロードは割れた王冠の芯を削りながら、遠い港の紙の騒ぎを聴いていた。
「帳の国は骨を好む。――嫌いだ」
彼の嫌いは、冷たい。だが、温くなり始めていた。刃の芯が、彼の胸でも磨かれる。
骨の観客の胸に風が通り、次の満月の拍が刻まれる。
借りの輪郭は、まだ増える。
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XIX 夜明け前の祈り
最後の星が、海の目に沈む。
ヨハンは胸の銀を押し、低く祈った。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――次も、掴む」
とん。
灯りの席が答える。
嫌いと言える口が、港の喉に残っている。
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つづく:第四十話 査閲会所の夜、紙の法廷
白蝋の四角は“紙の法廷”へ変わり、満月前夜、港の名と顔が次々に召喚される。
ベラーノと顔帳フェジアは《借りの裏》を突き、灯りの席を“証人”に呼び出す。
星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。
そのとき、骨の王冠の砕片が、もう一度だけ印を反転させる――ただし、代価として誰かの一音が紙に貼り付く。




