満潮までの三日
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Ⅰ 潮の匂いと星の粉
屍の群れが泡のように引いた夜の余熱が、小屋の板壁にまだ張り付いていた。夜明けの光は斜めに差し、埃の粒のなかに、星魔法の余韻がかすかにきらめいている。ピックルは耳をぴくりと動かし、窓枠に上がって外をうかがった。ボミエは卓上に広げた羊皮紙に、震える手で細い線を引いている。星々の座標をつなぐ練習――昨夜、彼女自身が“境界”を引いた手の再現だ。
「ボミエ、肩、上がってる。息吸って、四拍で吐いて」
「ふ、ふっ……すぅ……」
猫人の未熟な魔法使いは、言われた通りに呼吸を整え、杖の先を小さく回した。星の粉が紙の上に散り、線の切れ目を埋めた。耳がほんの少しだけ立つ。
「いい。まっすぐじゃなくていい、って御坊も言ってたでしょ。つなげば、線になる」
ピックルはさらりと笑ってみせ、しかし視線はすぐ窓の外へ戻る。港の外に黒帆の影はない。だが、昨夜の女――セラフィナ・ノクティファーの笑みが、視界の端に黒い縁取りを残していた。
ヨハンは一心に床を擦っていた。祈る部屋を磨くことは祈りの一部だと、師に叩き込まれている。だが今の彼は、埃だけでなく、自分の中の古い教えの残滓まで、板に擦り付けて落とそうとしているようにも見えた。
扉が軽く鳴り、ルシアンが顔を出した。濡れた髪から滴が落ちる。
「御坊。潮は今夜、少し高くなる。満潮は三日後。……その前に“海の下”を見たほうがいい」
「礼拝堂の扉、か」
ヨハンの胸のペンダントは、衣の布越しに冷たい円の存在を主張している。エステラが言った“鍵”。確証はない。だが確かめねば、セラフィナに揺さぶられ続ける。
アメリアが壁にもたれ、短剣の柄を軽く叩く。
「昼のうちに行く。市警も港の外に“封鎖”の準備はするけど、夜の相手は夜のやり方でしか止められない。……礼拝堂が“赦し”の力を持つなら、それは生者にも死者にも届くはず」
「ボミエ、ピックル」
ヨハンは二人の猫人に目を向けた。
「来るか?」
「行く」
ピックルは即答し、尻尾をぴんと伸ばした。ボミエは耳を伏せ、杖を握りしめ、小さくうなずいた。
「い、行きます……逃げない、です」
ナディアが鍋をかき混ぜ、声を飛ばす。
「帰ってくるまで、ここは任せて。ミラは私が見る。リオ、扉。レーナ、鐘の人に“合図”の新しいパターンを伝えて」
「合図?」
「“星三つ”」
レーナが首を傾げると、ナディアは目配せだけで説明した。鐘を三つ、それから短く二つ――星の三角。昨夜、彼らが即興で作った、星と潮の連係信号だ。
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Ⅱ アーチの下の下
ルシアンの案内で、彼らは港の外れにある潮吹穴へ向かった。断崖に開いた黒い口。吐息のように湿った風。中から、海の匂いと古い祈りの匂いが混ざった気配が上がってくる。
「引き潮のあいだに入る。満ちてきたら、戻る。……途中、潮の“逆さ階段”がある。足を取られるな」
アメリアが先に滑り降りた。岩肌に刻まれた古い手形は、苔に覆われ、指の一本が欠けている。ピックルはひょいひょいと軽々と、ボミエは尻尾で体を支えながら、ゆっくり。ヨハンは杖を突き、ペンダントを胸に押さえた。
洞窟の奥は、潮に磨かれた滑らかな石の廊下へ続いていた。壁に、古い線――十字に似て非なる、波を抱く意匠。マリナ・デル・ベーラの“潮の十字”に近いが、もっと古く、もっと祈りの数が多い。
突き当たりに、円形の扉があった。石の輪の中央に、銀の受け座。古い古代文字。ヨハンは息を整え、ペンダントを取り外す。掌の上で銀が、暗がりのなか微かに光った。
「御坊」
ルシアンが囁く。「潮が、聞いてる」
ヨハンは受け座にペンダントを当てた。金属が石に触れる、硬い音。そして、洞窟全体が、深いところで一度だけ呼吸をしたように、うねり――扉が回転した。内側から、冷たい空気と、乾いた匂いが流れ出す。
「……開いた」
石の輪は、静かに彼らを迎え入れた。内側は礼拝堂――だが、水に浸かった痕跡のない乾き。天井は低く、中央に丸い“光の井戸”があり、海面を通して揺れる日差しが、床に水紋の模様を描いている。祭壇には石の書見台。そこに、塩で固めたような古い書冊が置かれていた。
近づくと、空気が変わった。水の匂いが消え、紙と骨の粉の匂い。ピックルが息を呑み、ボミエが杖を抱きしめる。ヨハンは書冊に手を伸ばしかけ、指を止めた。
「触れるのは、最後に」
祭壇の周囲の床には、刻まれた言葉があった。彼らの知らない古語。だが、ところどころ、現代語に近い単語が混じる。
――赦し
――契約
――代価
――逆さに読むな
「逆さに読むな?」
アメリアが眉をひそめる。その言葉の不吉な響きは、ヨハンの胸の奥の痛みと、不意に繋がった。かつて、焼印を逆さに読めば“赦しの言葉の欠落”であった、あの紋様――
「御坊。潮が、逆に引いてる」
ルシアンの声で我に返る。礼拝堂の床の砂が、彼らの足のまわりでほのかに動く。どこからか、乾いた擦過音。アーチの影で、塩で固まった人の形が、こちらに向き直った。
塩の亡者。海に沈み、塩に噛まれて形を止めたものが、祈りの残響でここに留められている。
「境界!」
ピックルが素早く空に線を引く。ボミエは躓きそうになりながらも、床に星の粒を落とす。塩の亡者の足は遅い。だが、砂と塩は星の粉を吸い、線が途切れやすい。ヨハンは杖で床を叩き、別の祈り――“帰還”の節を唱える。死者は土へ、水は海へ。塩は、塩へ。
「Revertere… 帰れ、元いた場所へ」
塩の亡者が一体、歩みを止め、肩が崩れる。空気が乾き、皮膚が張り詰めるような痛み。ボミエの星が震え、線が揺れる。
「ピックル、上!」
アメリアの声。天井の“光の井戸”から、黒い影がひらりと落ちた。蝙蝠――否。大きすぎる。翼の縁に指がある。ヴァンパイアの使い魔だ。ピックルは素早く指を弾き、光の網を上に投げた。星の網が、影の翼を絡め取る。
「ボミエ、ここ!」
ピックルの指示に反応し、ボミエは杖を振る。星の粒が一筋、天井の井戸へ伸び、光の穴を細くする。影は網の中で暴れ、やがて塩の粉になって床に散った。
ヨハンは書見台の前に膝をつく。塩の書冊――頁は硬く、端で指を切りそうだ。息を止め、最初の頁をわずかに持ち上げる。文字が、波の泡のように浮かび上がり、耳ではなく骨で読めと言う。赦しの定式――赦すのではない。赦し“を呼ぶ”式。祈りの主語は、祈る者ではない。海。風。星。……そして、人と人の間にある“もうひとつの手”。
「御坊、潮が――」
ルシアンが急いた。礼拝堂の入口から、じわじわと水が滲み出している。引き潮の時間が終わる。外の洞窟の“逆さ階段”に、もう水音がのぼり始めている。
「持てるか?」
アメリアが書冊の背を指で叩く。ヨハンは首を振った。
「これは、ここでしか読めぬ。外へ出せば、塩は崩れる」
「じゃあ、写す」
ピックルが羊皮紙と墨を取り出す。ボミエが灯りを魔法で増す。ヨハンは声を低くし、頁の一節を読み上げ、ピックルが素早く写し取り、ボミエが震える線をつないでいく。三節、四節。水は足首に触れ、塩の亡者の肩が床に崩れ落ちる。五節目の途中で、ルシアンが声を張り上げた。
「戻る!」
彼らは書見台から離れ、扉を押し、石の輪を回す。海が息を吸い込み、吐き出す。水が礼拝堂の床を舐める。星の粉が濡れ、光が沈む。扉が閉じると同時に、潮が廊下に達し、足元をすくった。ピックルがボミエの手首を掴み、アメリアがヨハンの襟を引いた。ルシアンが胸で水を割り、彼らを先へ押しやる。
洞窟を抜けるころ、太陽は傾き、港の上に薄く霧が降りていた。彼らは岩に背を預け、同時に息を吐いた。ヨハンの手には、濡れを避けて守った羊皮紙が数枚。赦しの定式の断片。読み解くには、時間も、祈りも、手も要る。
「三節目の“主語の転換”、面白い」
ピックルが耳を立て、目を細める。ボミエは毛並みを逆立て、頬を赤くしながら、それでも静かに言った。
「“赦す”のは、神様でも、わたしたちでもなくて……“間”……」
「関係」
ヨハンは短く付け足した。声は疲れていたが、どこかに熱の芯が宿っていた。
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Ⅲ 潮女の笑い
帰路、アーチの陰で薄い香が漂った。鼻に馴染み始めた匂い。エステラだ。彼女は石の階段に座り、足を組み、膝の上で扇を軽く打っている。背後には誰もいない……ように見せて、影がふたつ、こちらの動きに合わせてわずかに呼吸を変えた。
「いい顔になってるじゃない、御坊。海の下の“祈り”はどう?」
「祈りは、塩に閉じ込められておったが、少しだけ“手”で持てるようになった」
「手、ね」
エステラの口元が、猫のようにわずかに持ち上がる。猫人たちが警戒して耳を伏せたのを見て、彼女は指を振った。
「安心して。食べやしない。……三日。約束は、覚えてる?」
「セラフィナも潮も、約束を忘れん」
「それと同じように、均衡も忘れない。今夜、レジスタンスを名乗る連中が、亜人の子を“保護”したふりをして、別の船に“譲渡”する。三番桟橋。鐘は二つ。……あんたの“手”はどうする?」
アメリアが目を細めた。「市警に言えば?」
「言えば、彼らは“姿を変える”。形を変えた悪は、祈りの言葉じゃ縛れない」
エステラの言葉は、刃ではなく、淡い塩だった。舌の上で溶け、喉に残る。
「鍵の話だがの」
ヨハンはわざと声を硬くした。「礼拝堂の鍵は、ここにある。だが、扉は一つではないらしい」
「そう。陸にも扉、海にも扉、心にも扉。鍵は、時々、鍵穴を選ぶ。……御坊、三日後、潮の上で“選んだ”鍵穴に鍵を入れて。誰のために、どちらのために、“赦し”を呼ぶのか」
エステラは立ち上がり、扇をたたむ。「代価を忘れないこと。赦しは、いつだって誰かの痛みの上に立つ。……その痛みを、手で分け合えるなら、祈りは実になる」
彼女は潮の匂いの中へ消えた。影も一緒に。
彼女がいなくなってから、ピックルがふっと息を吐いた。
「嫌いじゃない。ああいう、鼻の利く人」
「ぼ、ボミエは……こわい、です」
「怖がっていい。怖いって言えるのは、強いことだから」
ピックルはボミエの耳をやさしく撫でた。ボミエの尻尾が、照れたように左右に揺れた。
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Ⅳ 星網と塩線
二日目の夜、港にはうっすらと白い霧が降りた。潮の霧。鐘の音が一つ、二つと鳴り、三番桟橋の影が動く。アメリアは市警の少数を散らし、ルシアンは水の下で待ち、ナディアは鐘の人と合図を合わせる。レーナは看板の裏に祈りの言葉をこっそり書き、リオは釘袋を腰に下げ、ボミエとピックルは星粉の袋を胸に抱えた。
「行くよ、ボミエ」
「う、うん……!」
彼女たちが走る足音は猫のように軽い。桟橋の影で、黒い袋が、亜人の子らを飲み込もうとしていた。ピックルの指が星座を描き、ボミエが床に星の釘を打つ。星網が静かに降り、袋の口を縫い止める。
叫び。走る足音。アメリアの笛。ルシアンの水音。ヨハンの祈り。
「Revertere…」
袋から小さな手が伸びた。水掻きのある指。ルシアンがそれを掴み、引き上げ、ナディアが毛布を広げる。リオが剣呑な視線で黒帆の男に睨みを利かせ、レーナが棒で足を払う。ピックルがもう一筋、星の線を引き、ボミエが震える手でそれをつなぐ。
「よし!」
アメリアの短い合図。黒帆の連中は潮に足を取られ、網に絡まり、逃げる。二日目は、血の匂いよりも、海の匂いが勝った。
礼拝所に戻ると、ミラが毛布から少し顔を出して笑った。猫人の子らも笑った。ヨハンは胸の前で小さく十字を切り、“赦しの定式”の断片を卓に広げた。読み合わせ。主語の転換。関係の呼び出し。痛みの分配。星の座標。潮の時間。
「御坊」
ピックルが杖の先で紙を軽く叩く。
「“呼ぶ”とき、最後の句点の前に“手”を入れる。ここに名詞。……“手”。それが主語にも、目的語にもなる」
「手は、誰の手でもよいのか」
「ううん。“握られている手”。……関係」
ヨハンは、胸のどこかが痛んで熱くなるのを感じ、掌を見た。古い戦場の傷跡。師の冷たい指。昨夜、ミラの額に触れたときの熱。ボミエが星の線の上で震えながらも離さなかった杖の感触。ピックルが彼女の手を重ねた瞬間の、音のない合図。
「――三日目だ」
アメリアが夜の外を一瞥し、低く言った。「満潮。潮は約束を忘れない」
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Ⅴ 満潮、赤い月
夜の海は、黒い呼吸をしていた。潮は高く、港の壁を舐め、アーチの腹を濡らす。赤い月が雲間に覗き、石畳に血のような光を落とす。鐘が鳴る。ゴーン、ゴーン、ゴーン――間を置いて、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン。
彼女は現れた。
セラフィナ・ノクティファー。黒をまとい、白い喉に夜の露を滴らせ、唇に乾いた花の色を宿して。背後には、昨夜よりも深く、破れた網にかかったような屍の群れ。さらに、海の下から、もっと古い影が上がってくる気配――溺れた船員、銀の鎖で繋がれた囚人、紋章のよれた旗を抱えた兵士。誰もが目に“欠け”を持ち、口に“欠落”を抱えている。
「鍵は?」
問う声は優しく、深い谷のように響いた。ヨハンは胸の前に手を置き、衣の下の銀に触れた。
「ここにある」
「頂戴」
「渡さぬ」
セラフィナは笑った。夜の花がほどけるように。
「代わりに、あなたの“手”を」
彼女は一歩近づき、両手を伸ばした。指先は冷たく、しかし触れずとも頬に温度を想像させる。ヨハンの視界が一瞬、揺れた。砂漠の夕陽、雪の匂い、塔の風、師の指――さまざまな記憶が夜の底から泡のように浮かび、喉へ押し寄せる。渡せば、楽になる。渡せば、街は――
「だめ!」
ピックルの声が切った。星の線が空に走り、セラフィナの影の裾を縫い留める。ボミエが杖を握り、線の結び目を震える指で固める。アメリアが横から踏み込み、短剣の柄で地面を打った。合図。ルシアンの水が路地を這い、塩が輪を作る。ナディアの笛が高く、鐘の下で合わさる。
「セラフィナ」
ヨハンは声を低く、しかし震えずに言った。
「ワシは鍵を渡さぬ。渡すかわりに、呼ぶ。“赦し”を。……誰かが誰かを“器”にする祈りを、ここで終わらせるために」
「赦し?」
セラフィナは笑みに、薄い苛立ちを混ぜた。「誰を?」
ヨハンは羊皮紙の断片を両手で持ち、短く祈る。主語は“間”。目的語は“手”。呼びかけは、星と潮と人の息。最後の句点の手前に、彼は自分の右手と、隣の誰かの左手を重ねた。
ボミエの手だった。
彼女は驚き、小さな声を漏らし、しかし逃げなかった。耳が震え、尻尾が足に巻きつき、目は真っ直ぐに光った。
「Ex voco… Misericordia…」
呼ぶ。
赦しを。
“間”から。
空気が反転した。潮の匂いが柔らかくなり、海風が塩の棘を失い、屍の喉から一斉に乾いた音が漏れた。何体かは膝を折り、何体かは顔を覆い、何体かは自らの胸に手を当て――彼らを縛っていた“欠落”の文字が、ほんの一瞬だけ、紙の裏から表へ返った。
セラフィナの口元から、笑みが消えた。
「面白い。……けれど、まだ足りない」
彼女が指を軽く弾くと、海の下から“群れ”が上がってきた。溺れた者たち。髪に海藻を絡め、目から小魚を落とし、口には“赦し”の欠けた砂。彼らは星の線をものともせず、水ごと押し寄せてくる。
「ピックル!」
「わかってる!」
ピックルは奥歯を噛み、両手で空を裂いた。星の線が幾重にも重なり、空中に“星籠”が編まれる。ボミエが下で、震えながらも結び目を固める。アメリアが屍の関節を折り、ルシアンが水の向きを変え、ナディアが鐘の人と合図を変調させる。リオが背中合わせに棒を振り、レーナが看板の棒を支える。
ヨハンは、もう一度、赦しを呼ぶ。今度は、彼の左手に別の手が重ねられた。硬く、骨ばって、しかし温かい手。ナディアの手だった。
「“誰かが誰かのために払う”のではなく、“互いに少しずつ痛む”。……それが、赦しの形」
羊皮紙の三節目が、まるで自分自身で読むように、喉の奥で音になった。星籠の目が一瞬だけ光り、押し寄せる“群れ”の先頭が、ふっと力を抜いたように沈む。肩から、重みが落ちる。海は奪うことをやめ、抱くことに戻る。
セラフィナの眼が、夜の底の光を研ぎ澄ませた。
「ならば、代価は誰が払うの?」
「ワシら、全員じゃ」
ヨハンは胸の前に十字を切り、深く息を吐いた。肩の傷が疼き、古い心の傷も疼き、しかし、その痛みはひとりぶんではなかった。手の中のボミエの震え、ナディアの掌の熱、ピックルの額の汗、アメリアの呼吸、ルシアンの水の冷たさ――それらが、痛みを“分ける”。代価を“分ける”。
セラフィナは一歩、後ずさる。彼女の外套の裾が、星の線に触れて焼けるように煙り、微かに形を失った。
「その鍵、やはり、あなたにふさわしくない」
彼女は言い、微笑んだ。笑いは痛みを隠すためのものに変わっていた。
「まだ三日目。夜はこれから何度でも来る。満潮は、今夜だけじゃない」
彼女が影に溶けると、屍たちはまた泡のように消えた。海の呼吸が落ち着き、赤い月が雲に隠れる。残ったのは、濡れた石と、息の音と、誰かの短い笑い声。
「勝った、の?」
ボミエがそっと尋ねる。ピックルは耳をぴんと立て、少しだけ肩をすくめた。
「“今夜は”、ね」
アメリアが短剣を納め、空を見上げる。「鐘を、朝まで止めるな。夜警を回す。……御坊、あんたは?」
「礼拝堂に戻る。赦しの定式を、もう少し読ませてくれ。――“主語のない赦し”の節、今夜やっと、わかった気がした」
ナディアが笑う。「難しい話は、朝ごはんのあとに」
ルシアンが海を振り返り、低く呟いた。
「潮は、約束を忘れない。……人も、忘れないといい」
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Ⅵ 灯りを分ける
礼拝所に戻ると、ミラが目を覚ましていた。毛布の端から顔を出し、薄く笑う。リオは扉の前で舟のように丸まり、眠りながらも片目だけを開ける器用さでこっちを見た。レーナは看板の表に、小さく星を描き足す。
「御坊」
ピックルが、何かを躊躇うようにヨハンの袖を引いた。尻尾が左右に小さく揺れる。
「“スターライトの杖”、学院に一本だけ“試作”があって……破損して使えないんだけど、星の“芯”は生きてるって。いつか、私――」
「欲しいのか」
「うん」
ピックルは、珍しく素直に頷いた。「でも、今はボミエが先。彼女の線は震えるけど、星の“芯”はぶれないから」
「ピックル……」
ボミエの耳が熱で赤くなる。目が潤む。ヨハンはふたりの頭に手を置いた。猫の子らは少し驚き、しかし逃げずに目を閉じた。
「杖はいつか持て。だが、杖がなくとも、お主らはもう“手”を持っておる」
ナディアが鍋の蓋を上げ、香を部屋に満たした。
「タコ、今日は出さないから安心して」
「……助かる」
笑いが、疲れの上にそっと置かれた毛布のように広がった。誰かが短く祈り、誰かが静かに泣き、誰かが鐘の数を数えた。
夜は去った。だが、夜はまた来る。
そのあいだに、彼らは灯りを分け合う。星の粉を分け、塩の線を分け、痛みを分け合う。セラフィナの影が届かぬところまで。
――満潮は一度ではない。
赦しも、一度ではない。
ヨハンは胸のペンダントに触れ、静かに瞳を閉じた。師の最期の重みが、今日は少しだけ軽くなって感じられた。代わりに、手の中の“いくつもの手”の重みが、心地よく重く、彼をこの街に繋ぎ留める。
鐘が、夜明けの一打を打つ。ゴーン。
マリナ・デル・ベーラの三日目が終わり、四日目が始まる。
潮は約束を忘れない。彼らもまた、忘れない。
――鍵は、どの鍵穴に。赦しは、誰の“間”に。すべては、手と手の間で決まるのだ。