骨の王冠を砕け
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I 骨写経の間、はじまりの音
骨で編まれた聖壇は、呼吸していた。
胸に浮かぶ王冠が脈を刻むたび、壁に並ぶ骨の巻物が薄く波打ち、黒い文字が書き換わる音を立てる。紙ではない。骨だ。骨が記すのは、生者の名、行い、そして拍。奪った「誰であるか」は骨の繊維に沈められ、死霊ノ王の心臓――胸の王冠に利子として送られていく。
ナディアは笛を横にし、無音の合図を仲間へ散らした。
ルーシアンは塩を霧に溶かし、ミレイユは名録の余白へ《ここ》を連番で縫う。ヴァレリアは袖の中の棘を礼の角度で置き、ボミエは杖の結び目を抱きしめる。
ヨハンは胸の銀を押し、低く落とした。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」
王は目を細め、胸の王冠を一度だけ撫でた。
呼吸の温度が下がる。骨の観客の胸がひとつ、ふたつと開き、骨合唱が洞の空気を整列させた。
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II 二三/一四、対旋律の陣
ナディアの笛が二三/一四を刻む。
港の喉――わたしたち――が洞を満たし、骨合唱とぶつかる。
ルーシアンの霧が段を作り、骨の波の縁を鈍らせる。
ミレイユは《ここ》で足場を増やし、ヴァレリアは置いた棘で波の額を半拍遅らせる。
ボミエは星を結び、輪で岸を補強した。
「スターライト・リム、二重ニャ!」
白い輪が聖壇の縁に落ち、黒い文字の流れをひととき止める。
ネクロ・ロードは笑わない。胸の王冠を軽く弾いた。
骨の巻物がひとりでに開き、名の列からひとつ、光が抜け落ちる。
返照の帳が遠く、鐘楼でぱたと鳴った気がした。
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III 半影、喉を狙う舌
祭壇の影が薄く膨らむ。
中級吸血鬼――半影の喉盗りが、音の谷から這い出した。指先の鏡刃は、首元の鈴(盗んだ喉仏)を微かに鳴らしながら、次の喉を品定めする。
狙いは、やはりナディア。
わたしたちの喉を黙らせれば、骨合唱は独唱となる。
「順番」
ヴァレリアがそこにいた。礼から斬へ半度傾けた棘が、半影の手首と肘のあいだに句読点のような刺を入れる。
ボミエが同じ点を重ねた。「二重句点ニャ!」
半影の速度がもつれ、壁に縫い止められる。
グリシェは声を持たぬ笑いを胸で震わせ、肩を引こうとした。――動けない。
ルーシアンの霧に混ぜられた影犬の血が、半影に匂いの重さをまとわせていた。
「嫌い」
ナディアが言う。「だから、続ける」
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IV 骨筆の雨、名の狙撃
王が退屈したように、骨の観客へ指を鳴らす。
千の胸から、骨筆の細い糸が伸び、空で羽根に変わった。狙いは――記録。ミレイユの名録だ。
一本目、ヴァレリアが礼でほどく。
二本目、ルーシアンが霧で濡らす。
三本目、ボミエが句点で折る。
四本目――早い。
ヨハンが胸の銀を押し、掌で受けた。
祈りは刃ではない。掴むための手だ。骨筆は、その掌に刺さらない。
「……助かった」
ミレイユの指が震え、羽根筆が紙を撫でる。「《われら》を太く――」
名録の余白に青い点が灯る。ザードルの席――灯りの席の返照だ。
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V 灯りの席、地の返り拍
洞の床に、とんと低い音が落ちた。
ジュロムの槌がここにないのに、地がそれを覚えている。
港の床、潮窯の梁、鐘楼の段――とんは連鎖し、聖壇の縁を鈍らせた。
「地は、借りを持っている」
ヨハンが呟く。「返すのは――今じゃ」
ナディアが頷き、譜を返す。二三/一四が反転し、返り拍が骨合唱の隙へ滑り込む。
骨の波は半歩もたつき、巻物の黒が擦れて白を露出した。
「そこニャ!」
ボミエが杖を掲げ、星の糸を黒の隙へ通す。「《星継ぎ》!」
星の糸が白と白を繋ぎ、骨の文へ未知の読点を紛れ込ませる。文章は咳き込み、王の胸の王冠がひとつ濁った。
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VI 王の呼吸、奪われる一秒
ネクロ・ロードは胸の王冠を深く撫でた。
洞の空気が一秒、止まる。
呼吸の剥奪。歌は耐えない。半拍が空になり、骨合唱の述語がすべり込む――整える。
ナディアの指が滑り、合唱が軋む。
その空白に、とんが落ちた。灯りの席の返り拍だ。
ジュロムの最後の打音が、わずかに空白を埋める。
ミレイユが余白の《ここ》を濃くし、ルーシアンが塩を増やし、ヴァレリアが礼を厚く置く。
ボミエは涙目で点を落とし続けた。「句点は逃げないニャ……!」
合唱は持ち直す。王冠の脈は、なお深い。
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VII 名の釘、骨冠への道
「王冠を、直接狙う」
ミレイユが顔を上げ、羽根筆を噛んだ。「名で釘を打つ。主語で穴を開ける」
ナディアが短く合図を刻む。「寄る」
ルーシアンが霧で道を敷き、塩で縁を固める。
ヴァレリアが礼の棘で額を止め、ボミエが輪を二重に。
ヨハンは銀を胸に押し、掴めを落とす。
ミレイユは聖壇へ歩み寄り、骨の文の白と白の隙へ、自分の指の血で文字を書いた。
――《われら》
それは借りではない。献納だ。主語の釘として。
王冠が低く唸り、骨の観客が立ち上がる。
王の視線がわずかに落ち、胸の光が一段濁った。
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VIII 半影の逆襲、最後の一滴
グリシェが抜けた。
影犬の霧の重さを、半影は学び、別の谷から舌を伸ばす。
狙いは――ミレイユ。名を書いた手を折るつもりだ。
「そこニャ!」
ボミエが腰の小瓶を掴む。影犬の血、最後の一滴。
杖の結び目に滴を落とし、とんと強く打つ。「《星燐・嗅》!」
星の光が匂いに変わり、半影が輪郭を持つ。
ヴァレリアの棘が礼から斬へ――半拍だけ鋭くなり、グリシェの胸を縫い止める。
ルーシアンの霧が塩で凝り、ミレイユの手元を覆う。
グリシェは胸の無声を吐き、喉の鈴を落とし、壁の裏へ崩れ込んだ。
戻らない。――匂いが、彼の主語を重くしている。
「嫌いって言ってたの、覚えとくニャ」
ボミエは震える声で吐き捨て、杖を胸に抱いた。
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IX 灯りの席、槌の幽影
とん。
床だけでなく、空気が鳴った。
潮窯の灯りの席から伸びる目に見えない梁が、洞の天井を支え、その梁を通じてジュロムの幽影が槌を持って立った。
見えない。――でも、いる。
ヨハンは頷き、銀を胸に押し、幽影の隣でとんと落とした。
ナディアが拍を一段低くし、港の喉が地に下りる。
「今じゃ」
ヨハンの声は静かだ。「王冠を、殴る」
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X 七つの拍、青い割れ目
ナディア――第一拍。
ルーシアン――第二拍。
ミレイユ――第三拍。
ヴァレリア――第四拍。
ボミエ――第五拍。
ヨハン――第六拍。
そして、灯りの席――第七拍。
七つの拍が一点に落ちる。
胸の王冠に、青い割れ目が走った。
王の静けさが、一呼吸だけ乱れる。
骨の巻物がざわめき、壁の黒が白へと裏返る箇所が生まれた。
「……面白い」
ネクロ・ロードの声が、初めて微かに温度を持った。
「嫌いを磨くと、刃になる。――良い」
王は胸に浮かぶ王冠を押し下げ、肋の裏へ隠した。
骨の観客が合掌し、洞の空気が固くなる。接近を拒む礼の壁だ。
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XI 利子の突きつけ
《返照の帳》が遠い鐘楼でぱらりとめくれ、貸方の欄に骨が増えた。
借方の欄には、歌、礼、句点。
利子――主語。
ナディアの胸のわたしたちが軋む。
彼女は笛を握り、短く言った。
「半分、預ける。灯りが支える」
灯りの席が強く光り、わたしたちの声の主語を仮置きする。
ナディアは空になった半分で指揮だけを残し、譜を降る。
合唱は続く。続きながら、借りを延べる。
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XII 骨の雨、句点の網
王は降らせた。
骨の雨。歯の泡。肋の棘。糸状の骨筆。
洞は白い線で満ち、息は紙やすりになった。
ボミエが網を投げる。句点の網だ。
点と点、点と点――省略記号のように繋いだ微小な輪が、骨の雨の間を塞ぎ、速度を奪った。
ルーシアンの霧が塩で重みを与え、ヴァレリアの礼が輪郭を押さえ、ミレイユの《ここ》が足の位置を守る。
ヨハンは掴めを落とし続ける。
胸の銀は冷たい。だが、青は灯っている。
とん。――灯りの席が、答えた。
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XIII 名の槍、骨の心臓
ミレイユが、震える指で羽根筆を折った。
折れた筆先を、自分の血で濡らし、骨の巻物の白へ突き刺す。
名の槍。
――《港》《灯り》《地》《鼻》《句点》《われら》
名は釘だ。骨は名に従う。主語が刺されば、述語はよろめく。
王の胸がわずかに反る。
隠した王冠の輪郭が肋の裏で青く光った。
「今ニャ!」
ボミエが杖の結び目を強く打つ。「《スターライト・ケージ》!」
星の檻が王の胸を囲い、圧をかける。
ルーシアンの霧が乾かし、ヴァレリアが礼の角度で押す。
ヨハンは銀を胸に押し、掴めを落とした。
――ひび。
隠した王冠に、二本目の青い割れが走った。
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XIV 骨の王、初めての後退
洞の床が沈み、骨の観客がざわめく。
ネクロ・ロードは胸に手を置き、礼を返すように頭をわずかに傾けた。
「奉納は受けた。返済は延期する」
王は背後の骨写経を一巻、自ら破り、黒を海へ投げた。
骨の舟が遠い水面に現れ、退く。
王は祭壇の影へ融け、最後にひとことだけ置いた。
「嫌いを磨いておけ。次に会うとき、刃の芯を見る」
骨の雨が止み、洞の空気が静かになった。
呼吸が戻る。拍が戻る。名が、白の上で熱を持った。
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XV 拾うもの、失うもの
グリシェの落とした喉の鈴を、ナディアが拾い上げた。
「返せないものが、ある。……でも、覚えておく」
ミレイユは折れた筆を拾い、名録の端に小さな青を打つ。
――《灯りの席:在》
ルーシアンは霧から塩を取り出し、床の割れ目に撒いた。骨は芽吹かない。
ヴァレリアは袖の血を拭き、棘を礼へ戻す。「順番」
ボミエは杖の結び目に額を当て、とんと小さく鳴らした。
「……守れたニャ? ジュロム、見てたニャ?」
とん。
返事は短く、重く、怒らない。
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XVI 海へ、灯りへ
海蝕洞を出ると、外の海はまだ眼だった。
満月は薄れ、波頭に青い線が残る。
遠い港の方角で、鐘がひと打。トマスのぼくが、ここまで届く。
舟は戻る。港は待っている。
潮窯の灯りの席が、席のまま灯っている。
ヨハンは胸の銀を押し、短く祈った。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――次も、掴む」
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XVII 潮窯の夜、席の声
戻った潮窯で、杯が配られる。
ミレイユ「名に」
ルーシアン「水に」
ヴァレリア「順番に」
ボミエ「句点にニャ」
ナディア(わたしたち)「歌に」
ヨハン「掴むに」
杯が触れ合い、拍が揃う。
灯りの席が、少しだけ明るくなった。
とん。――地の返り拍。
《返照の帳》は静かだ。だが、貸方の欄に細い線が増えている。
骨/笑い/影。
借方――歌/礼/句点/主語(預り)。
紙の裏で、薔薇の匂いがかすかに笑った。
ロザリアの手。
「嫌い。――だから、続けなさい」
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XVIII 朝の前、砕けた王冠の破片
夜更け、ミレイユがそっと鐘楼へ上った。
棚の隙間に、青く光る欠片が一つ、置かれていた。
骨の王冠の破片。
掴んだ指が冷える。だが、痛くない。
名録の余白に、小さく書く。
――《砕片:返照可》
これは借りた刃。次の返済に使われるだろう。
ミレイユは欠片を灯りの席のそばに置き、祈りの代わりに**「ここ」と囁いた。
席の灯が一度**、深く点滅する。
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XIX 海霧の奥、王の工房
そのころ、海蝕洞のさらに底。
ネクロ・ロードは胸の空洞に指を差し入れ、割れた王冠を慎重に撫でていた。
青い傷は、まだ残っている。
王は目を閉じ、別の骨から冠の芯を削り始めた。
「……嫌いを、こちらも磨こう」
観客席の奥、骨の写経が再開される。
地の打音、鼻の高さ、喉の鈴。
――だが、灯りは写せない。席は、在の側にある。
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XX 明け方の合図
東の空が白む。
港の屋根に青い点がいくつも灯り、子らの視線が順に返っていく。
トマスの鐘がふた打、三打。
ナディアの喉は半分、灯りの席に預けたまま。だが、歌は途切れない。
ヨハンは潮窯の扉を開け、海風に胸をさらした。
祈りは短くてよい。鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。
扉は残った。
次の拍へ、掴みかかるために。
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つづく:第三十九話 王都からの列車、薔薇宰相の影
骨の王冠の砕片を手にした港に、王都から「帳簿官」を名乗る一団が到着する。
《返照の帳》の実地査察――貸借の強制執行。
紙の裏で笑う薔薇宰相ロザリア、そして人の顔をした帳簿。
星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。
そのとき、灯りの席がひととき主語を預かったまま、港の名を守るだろう。




