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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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骨合唱と喉盗り、影犬の血

 



I 拍の欠落、二つの沈黙


 海蝕洞の天井から落ちる滴は、さっきまで一定だった。

 いまは二つ、欠けている。

 地の打音と、鼻の高さ。ジュロムとエステラが持っていた拍が、洞の空気から消え、石の肌に空白として貼り付いたままだ。


 死霊ノネクロ・ロードは、胸に浮かせた骨の王冠を指先で一度だけ撫で、洞の温度をさらに一度下げた。

 骨の観客席――千の肋が息の代わりに風を通す客席は、ほとんど目に見えない拍手を続けている。骨の拍は人の拍より遅い。遅いのに、削るのが速い。


 ナディアの喉にはわたしたちがいる。わたしは失われた。けれど、指揮の芯はぶれていない。

 ヨハンは胸の銀を握り、低く落とす。

「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」


 ルーシアンが霧の層を増し、ミレイユは《ここ》を段ごとに縫い、ヴァレリアは袖の棘を礼の角度で置いていく。

 ボミエは杖の結び目を抱き、耳をぴんと立てた。

「怖いけど、見るニャ。句点を足に、逃げないニャ」



II 骨合唱、胸腔のオルガン


 王が胸の王冠を軽く弾く。

 観客席の肋が一斉に膨らみ、洞の空気が吸われ、次の拍で吐き出された。

 胸腔のオルガン。骨合唱。

 その音は言葉を持たず、述語だけで進む。――奪う/整える/刻む。

 音に合わせて床が波になり、立っているだけで踵から拍が剥がれ落ちる。


「対旋律で返す!」

 ナディアの笛が二三/一四を逆さに折り、港の喉を対の流れへ導く。

 ルーシアンは霧の段を拍の合間へ挿し、ミレイユは《ここ》を斜めに継いだ。

 ヴァレリアの置いた刃が波の額で半拍止め、ボミエの**《スターライト・リム》が輪の縫い目を星で縫**う。


 骨合唱は迷う。

 迷いは怒りではない。ただ、整えようとする癖が足りなくなる。

 王は笑わない。胸の王冠を一度、濁らせる。



III 喉盗りの半影


 祭壇の影が薄く波打った。

 中級吸血鬼グリシェ――さっきエステラの喉を奪った半影の盗人が、音の谷から舌のように伸びる。指先の鏡刃が、次の喉を選別していた。


 狙いは――ナディア。

 わたしたちの喉。その主語ごと奪えば、合唱は黙る。


 ヴァレリアがそこにいた。

 「順番。最初に斬るのは、わたし」

 棘が礼から斬へ、半度だけ傾く。置く刃の礼を保ったまま、切っ先で半影へ句読点を刺す――点と点を結び、線にする一閃。


 ボミエの杖も同じ場所に点を落とす。

「二重句点ニャ!」

 半影の皮膚は血を持たないが、速度を持つ。速度がもつれ、グリシェの手首が洞の壁へ縫い付けられた。


 グリシェは喉仏をぶらさげた帯を鳴らし、声なき笑いを胸で震わせ――消えた。

 半影は逃げ方を持っている。速度を主語にしている存在は、誰にもなって消える。


「追わない」ヴァレリアが袖を整え、棘を礼へ戻す。「順番を崩さない」


 ナディアは喉を押さえ、わたしたちを整え直す。

 合唱は途切れない。途切れないが、利子の影が喉の裏で冷えている。



IV 影犬の血


 エステラの遺した皮のポーチを、ミレイユが胸に抱えていた。

 中には小瓶がひとつ。ラベルには**〈影犬の血〉と古い筆致である。

 影犬――影に匂いを与える獣の血。絶えた一族から密かに受け継がれ、半影を嗅げるようにするための媒染**。


 エステラは生前、この瓶を最後まで使わなかった。

 「嫌いな匂いは、作る。――でも、借りは増やさない」

 彼女の言葉が、ミレイユの指先で震える。


「使うニャ」ボミエが言う。「エステラの鼻に戻って、半影を嗅げるニャ」

 ルーシアンがうなずき、瓶の口に指を当てる。血は冷たい。鉄ではなく、夜の匂いがする。

 霧に一滴混ぜると、洞の空気は陰影に厚みを持った。影が立体になり、半影が匂いになった。


 エステラがいたら、笑って言ったはずだ。嫌い、と。

 それでも、血は道具になる。


 ナディアが無音で合図し、ルーシアンの影犬霧が洞を満たす。

 ミレイユは《ここ》を影に押し込み、ヴァレリアは礼の角度で半影の肩に置いた。

 ボミエが杖で点を打つ。「逃げ道に句点ニャ。追うのは匂いニャ」



V 骨の糸、記録の狙撃


 グリシェが遠のいた側で、王は次の刃を出した。

 骨の観客の口から細い糸が伸び、空中で羽根に変わる。骨筆。

 狙いは――ミレイユの名録。記録を奪えば、ここは消える。


 糸の一本目を、ヴァレリアが袖の中で摘んだ。礼でほどく。

 二本目はルーシアンの霧で濡らす。乾いた骨筆は水に弱い。

 三本目はボミエの句点で折る。

 四本目――間に合わない。


 ヨハンが胸の銀を押し、前に出た。「掴め」

 祈りは刃ではない。掌だ。骨筆は祈りの掌に刺さらない。

 ミレイユの名録は守られ、紙の端に小さな青が灯る。ザードルの席の返照だ。


「……ありがとう」

 ミレイユの声は、書く者の乾きを含んで震えた。



VI 骨潮の段差、地の残響


 骨潮が再び押し寄せる。ジュロムの地がない場所は、滑る。

 ナディアが裏拍で段を作り、ルーシアンが塩を霧に増やす。

 ボミエは槌の前でとんと結び目を打った。「地に句点ニャ。揺れでも転ばないニャ」


 とん。

 空気の奥で、同じ高さが返った。

 ジュロムの最後の打音。怒らない重み。

 港の地は、まだ持っている。


 ヨハンは槌に指を置き、短く目を閉じた。

 「――借りは、わしらが返す」



VII 半影の嗅跡、返り血


 影犬霧が効いてきた。

 洞の壁のしみが、匂いになった。グリシェが通った跡は、濡れた墨と銀の舌の匂い。

 エステラの瓶から最後の滴が霧に混ざったとき、半影の輪郭が一瞬だけ浮いた。


 「そこニャ!」

 ボミエが**《スターライト・バースト》を点射する。星の弾は光でなく輪郭を焼く。

 ヴァレリアがその焼け縁に縫い針のような棘を通し、礼の角度で固定**した。


 グリシェの胸に、初めて紅が滲む。

 彼は喉を落としていない。奪ってきた喉の鈴が腰で鳴った。

 鳴りに、ナディアの無音の合図が重なり、わたしたちの声が鈴を黙らせる。


 グリシェは歯を見せた。笑いか、憎しみか。

 影の背へ潜ろうとして――引かれない。

 影犬霧が、匂いで彼を重くする。逃げるには軽さが要る。匂いは重い。


「嫌い、と言っておくわ」

 ナディアが笛を構え、わたしたちの声で言った。「だから、続ける」



VIII 骨の王冠、呼吸の剥奪


 王が退屈したかのように、胸の王冠を深く撫でた。

 洞の空気が、一秒間だけ止まる。

 呼吸の剥奪。

 人は息を止められても一秒は耐える。――だが、歌は耐えない。拍が抜ける。


 ナディアの指が滑り、合唱は半拍だけ空になった。

 その半拍に、骨合唱の述語が滑り込む。――整える。

 港の喉は王の拍に合わせさせられる。


 ミレイユが《われら》を太く書き直し、ルーシアンが塩をさらに増やす。

 ボミエが句点を何度も落とし、ヴァレリアが礼を厚く置く。

 ヨハンは掴めを落とし続ける。「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」


 合唱は持ち直す。持ち直すが、利子が積まれていく音が、遠くの鐘楼でカチと鳴った気がした。



IX 影犬の遠吠え、青い点


 どこからともなく、犬の声がした。

 影犬の遠吠え。――いや、声ではない。匂いが声のように聞こえる。

 エステラの瓶に残っていた最後の揮発が、霧の中で鳴ったのだ。


 その遠吠えに反応して、潮窯の天井の青い灯がひとつ強く瞬く。

 ザードルの席――灯りの席が、返照を返す。

 骨の王冠の光と背中合わせに、青が点を打つ。


 ナディアのわたしたちが、もう一度揃った。

 「嫌い。――だから、続ける」



X 喉の授け、棘の誓い


 グリシェを縫い止めたまま、ヴァレリアが袖の中の棘を一本、折った。

 それは彼女の声の棘。礼を形づくるための芯。

 彼女はそれをナディアの喉に置いた。

 「借りだ。返すな。――今夜だけは」


 ナディアのわたしたちに、ヴァレリアの礼が混じる。

 合唱は硬く、鋭くなる。

 グリシェの半影は裂け、洞の壁に貼り付き、剥がれない。


 ボミエが見上げ、涙を拭って笑った。

 「……かっこいいニャ」


 ヴァレリアは頷かない。順番だけを見ている。

 「最後に斬るのも、わたし」



XI 骨の観客、立ち上がる潮


 王は、やはり笑わなかった。

 ただ、胸の王冠を逆撫でる。

 骨の観客が、全員立った。

 立つ音は無い。無いが、温度が落ちた。


 床が沈む。

 骨潮が、ここからは海になろうとしている。

 水ではなく、骨の海。繋ぎ目は黒い霧、波の泡は白い歯。


 ルーシアンが歯を食いしばった。

 「引き潮は来ない。――満ちるだけだ」


 ナディアが合図を掲げ、後退の譜を取る。

 ミレイユが《帰還線》を引き、ボミエが句点で継ぐ。

 ヴァレリアが礼で扉の蝶番を押さえ、ヨハンが掴めを落とした。


「喉は置いていけ」

 ヴァレリアが短く言い、半影の縫合を解いた。グリシェは壁から剥がれ、這った。

 ナディアの喉でわたしたちが唸る。

 ――奪わせない。



XII 退きながら、噛み合いを崩す


 撤退は敗ではない。順番の移動だ。

 彼らは拍を折り畳み、段を逆に踏み、帰還線の端から端へと渡った。

 骨の海は追う。追うが、句点に躓く。

 ボミエの小さな点は、王の述語を半拍遅らせる。


 ルーシアンの塩霧が黒い糊を乾かし、ミレイユの《ここ》が敷居を厚くする。

 ヴァレリアは最後尾で礼を置き、ヨハンは掴めを落とし続ける。

 ナディアの合唱は後ろを向かない。前だけを見る。

 エステラの影犬の匂いが、グリシェの進路を縫い留めている。


 王は胸の王冠を撫で、数を取った。

 「地を一、匂いを一。――喉は貸され、礼は流通した」


 負債の目録が更新される気配が、遠い鐘楼で紙の擦れる音になった。



XIII 洞の縁、海の目


 海蝕洞の口が開く。

 外の海は眼だ。満月はまだ見ている。

 そこをくぐれば港へ戻れる。戻れるが、追われる。


 トマスの鐘が遠くからひと打ち、胸に入った。

 少年のぼくは、ここにも届く。


 ヨハンが最後に振り返る。

 王は追ってこない。胸の王冠を軽く撫で、海の潮を整えている。

 嫌い、と誰かの笑いが遠くで揺れ、だから続けなさい、と紙の裏から声がする。


「続けるとも」

 ヨハンは囁き、銀を胸に押した。「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」



XIV 潮窯へ/声の空席


 夜、潮窯。

 槌は空席の前に置かれ、瓶は灯りのそばで眠っている。

 ナディアは声の主語を半分残し、半分を預けたまま椅子に座った。

 ヴァレリアは礼の棘を一本失い、喉が掠れている。

 ルーシアンは霧の層を薄くし、ミレイユは名録の端に青を打った。

 ボミエは杖の結び目を額に当て、「怖かったニャ……でも、見たニャ」と小さく言った。


 ヨハンは杯を配る。

 「名に」――ミレイユ。

 「水に」――ルーシアン。

 「地に」――ヨハンが代わりに、とんと卓を叩く。

 「順番に」――ヴァレリア。

 「句点にニャ」――ボミエ。

 「掴むに」――ナディアのわたしたちが、かすれながらも答えた。


 杯が触れ合い、拍が揃った。

 鼻は風の中に、地は床の奥に、灯りは天井に、それぞれ残っていた。



XV 返照の帳、次の支度


 朝の前。

 鐘楼の棚で、《返照の帳》が静かに閉じた。

 貸方の欄に、骨の字が薄く増えている。

 借方の欄には、歌と礼と句点が並び、利子は主語とある。


 ロザリアの笑いが紙の裏で乾き、「嫌い。――だから、続けなさい」と薄く書き添えられた。


 港の空は冷たく、海はまだ眼だ。

 海蝕洞の奥で、王冠は脈を刻み続けている。


 影犬の血は瓶の底に一滴、残っている。

 それは匂いの約束。半影の逃げ道を、もう一度だけ重くする余白だ。


 ヨハンは銀を胸に押し、低く祈った。

 「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。扉は残る。――次も、掴む」




つづく:第三十七話 骨写経、灯りの席

骨の王は記録を奪うために「写経」を始め、鐘楼の棚は紙より先に骨で埋められていく。

影犬の血は最後の一滴を残し、半影は喉を狙い続ける。

星は震えず、祈りは掴み、棘は礼を裂き、霧は段を刻む。

そして灯りの席が、ひとときわたしたちの主語を支える。

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