屍鬼の行進、骨の王冠
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I 満月と塩の匂い
満月は、海を眼にした。
表面張力の破れ目に月光が沈み、港の水面にはもう一つの目が開く。誰もが一度はそこを見返してしまい、見返した一拍のあいだに、胸の奥の主語が薄氷のように軋む。
――鐘楼が先に鳴った。二三/一四。
トマスの指は震えていない。少年のぼくは、もう「背中」へ滑らない。
塩の匂いに、焦がした砂糖と紙灰の混じった匂いが重なった。エステラが調合した迷い香だ。匂いの舌を迷子にする。港の軒先には布が張られ、鏡面は煤で覆われ、敷居には句点が小さく打たれている。
ヨハンは胸の銀を握り、短く落とした。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」
ナディアは笛を横にし、唇を温める。今や「わたし」という主語は失われ、わたしたちの声で港の喉を繋ぐ指揮者だ。
ルーシアンは潮の流れに指を浸し、逆潮の段を刻む。ジュロムは槌の柄を撫でて、地の呼吸を数える。ヴァレリアは袖の中、棘の礼の角度を確かめた。
そして、ボミエは杖の結び目に頬を寄せる。
「星、お願いニャ。居場所を照らして、怖がりの心臓にも点をひとつニャ」
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II 屍鬼の行進
最初の骨は、海から来た。
魚の群れが一斉に沈黙し、代わりに白い指が水面を破る。指が腕になり、肋が網のように編まれ、頭蓋が月を呑み込もうと口を開く。スケルトン。その背には海に膨れたゾンビが跨がり、船の代わりに人を漕いで上陸してくる。
骨と腐肉は、音を持っていた。
骨のカチカチ、腐肉のぬた。それらが混ざった拍は、町の心臓の拍を奪いに来る。
「始める!」
ナディアの二三/一四に、港の喉が応える。
ルーシアンが水門から逆潮を噴き上げ、先陣のゾンビを足首からさらう。エステラは泳ぎの遅れた者の首根を噛み、海へ戻した。
ジュロムの槌が地を叩くと、石畳に潜んでいた骨の根が震え、浮き上がる。そこへヴァレリアの棘が礼の角度で置かれ、走る骨の踝を次々と躓かせた。
「順番」
彼女はそっと呟くだけで、笑わない。
ミレイユは名録の余白に《ここ》を連番で縫い、路地と路地の継ぎ目へ貼っていく。ここに足を置く者は、視線を奪われても落ちない。
その上を、ボミエの杖からこぼれた星砂が縫い止めるように散った。
「足下、見えるニャ! ――《スターライト・リム》!」
月光より冷たい白が、骨の列を撫で、見えない段差を作る。スケルトンの膝は半拍遅れ、ジュロムの一撃が間に滑り込む。
「オラオラオラオラァァァッ!」
彼の笑いは、地の拍に似ていた。
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III 黒い噴水、復活の手
倒した骨は、そこで終わらない。
石と骨の隙間から黒い霧が噴き、倒れた骸骨の関節へ吸い込まれていく。関節は、しばらく静かに震えたのち、勝手に組み合わさる。頭蓋は別の肋骨と結婚し、腕は知らない骨盤に求婚する。
――立つ。
倒しても、また立つ。
「塩ニャ!」
ボミエが腰の小袋を千切り、星砂塩をルーシアンの霧に混ぜる。
「塩霧で乾かす!」ルーシアンが頷き、霧を一段、白くした。
塩の層は黒霧を吸う。関節は軋み、勝手な婚姻は解消され、再婚は遅れる。
ナディアの笛が逆位相をかけ、黒い噴水の拍を崩す。
ミレイユは名録の端に×印を素早く書き、倒れた地点に貼った。
――ここでは起き上がらない。
×の上で、骨は眠りに近い順番で静まった。
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IV 港の喉、遠くの笑い
屋根のへり、鐘楼の影、桟橋の柱。笑いはいつも、遅れて来る。遅れて開く口は、誰のでもない歯列で、港中の目を疲労させる。
エステラは鼻で風を切り、低く唸った。
「視線狩りの匂いが残ってる……レクシコンの残香。でも、今は骨が主役」
ヨハンは銀を押し、胸の奥に青を点けた。ザードルの席の返照が、港の拍に小さく刻み目を付ける。
「嫌いは礼で持て。憎みは扉を錆びさせる――忘れるな」
ヴァレリアが横目で彼を見て、「順番」とだけ言い、また棘を置いた。置かれた刃は、礼のまま罠になる。
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V 浜の墓地、骨の喉歌
北浜の砂地が、喉になった。
砂粒が擦れ、骨の喉歌が低く広がる。歌は言葉を持たず、拍だけを誇り、港の合唱を上書きしようとする。
「歌は道具。奪わせない」
ナディアが高い裏拍で差し込み、港の喉をまとめ、異物の拍を四枚の屏で囲う。
ルーシアンが霧で層を重ね、ミレイユが《われら》を四方に張った。
ボミエが句点を角に落とす。「四角で縫うニャ!」
ジュロムが四隅の地を叩き、エステラが匂いの高さを均し、ヴァレリアが礼の刃で輪郭を押さえる。
骨の喉歌は籠に入り、鳴き止んだ。砂の中に、黒い小さな種のようなものが残る。
ヨハンはそれを塩で埋めた。「種は芽吹かせぬ」
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VI 路地の突風、臓腑の扉
狭い路地に、内側から風が吹いた。
家々の扉が臓腑のように開閉し、吐いた息は冷たい。ゾンビが扉から生まれる。家の記憶をまとって。
――台所の匂いのついた前掛け、手紙の染み、子どもの身長を刻んだ柱の欠け。誰かの生活が、逆さに歩いてくる。
ミレイユが走る。「名に戻す!」
彼女は前掛けの名前を呼び、手紙の宛名を声にして、柱に刻まれた日付を読んだ。
ゾンビの足はそれに躓き、顔の皮がほどけ、布になり、紙になり、柱になって、家に戻った。
「誰かの誰は、物にも残る」彼女は息を荒げ、笑った。
残った抜け殻を、ジュロムが槌で軽く叩いた。
地に帰る音がした。
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VII 桟橋下の段、骨の塔
桟橋の下、骨の塔が立ち上がる。
肋骨が欄干、脊柱が支柱になり、頭蓋が灯りのように点る。塔の中からは、弱い声が何人分も漏れた。
「……見てる」「……わたしはどこ」「……帰れる?」
レクシコンの置いた借用の罠だ。視線を借りたままの子らの声が、骨の塔に釘を打っている。
「返照を連れてくるニャ!」
ボミエの杖がとんと鳴り、青い星が塔の継ぎ目へ降る。
ルーシアンが水を梯子にして、星を上へ押し上げる。
ナディアが返照の節を吹き、ミレイユが名録の小さな青を塔に貼る。
エステラは鼻で声の温度を拾い、ヴァレリアが礼の刃で塔の歪みを置き直す。
――釘が抜けた。
声は落ちて、胸へ戻る。塔は砂になり、潮にさらわれた。
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VIII 骨の海原、潮の道
押し返して、押し返して、今度はこちらが踏み込む番だ。
港の北端、断崖の下の水門。昨夜降りた深淵への口は、白蝋の縁を薄く光らせている。
ルーシアンが潮を読んで言う。「二刻。潮が沈む。今なら道が出る」
ナディアが行進の譜を立て、ミレイユが《ここ》の旗を縫う。
ジュロムが前、ヴァレリアが横、エステラが鼻で先を探り、ルーシアンが水で段を刻む。
ボミエは隊の真ん中で杖を抱え、「怖くない怖くないニャ」と小さく唱える。
ヨハンは最後尾で銀を押し、掴めを落とし続けた。
水路の壁に、骨の燐光が灯る。
それは目ではない。ただ、見られたいという意志の残り火だ。
踏まない。見ない。掴む。句点を置く。
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IX 骨の回廊、喪の礼
回廊の床は喪の布のように柔らかく、沈む。沈んだ分だけ、誰かの名が足裏に刻まれる。
――アレーネ/エリアス/ピリオ
ミレイユが読み上げ、ナディアが無音の合図で礼を返す。
ヴァレリアが棘を置き、名と名の間に礼の角度を差し込む。「順番」
ジュロムは槌で静かに二度叩く。怒らない鎮魂の打音だ。
ボミエはその都度、句点を落とす。
「ここで眠るニャ。起きなくていいニャ。帰るのは声だけニャ」
黒い霧が足首にまとわりつくたび、ルーシアンは塩で霧を乾かし、エステラは鼻で嫌いを確かめる。
「嫌い。――だから、続ける」
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X 小聖堂、骨の唱和
水の天井が低くなり、石の尖塔が見えた。
小聖堂。祭壇は骨で編まれ、燭台は肋骨で、聖句は頭蓋の内側に裏書きされている。
祭壇の前に、**司式骸骨**が立っていた。胸骨に穴が開き、そこに黒い風が出入りしている。
「主語を、返せ」
ヨハンが言う。
司式は首を大きく傾げ、胸の穴をこちらへ向けた。黒い風が吸い込む。声だけを。主語を抜かれた声は、祭文にされる。
ナディアが返照の裏拍を差し込み、ミレイユが《われら》を聖句の余白へ上書きする。
ルーシアンが水で膜を張り、ボミエが句点で穴の周縁を縫う。
ジュロムが槌で祭壇の下を一度だけ叩き、ヴァレリアが礼の角度で胸骨に置く。
エステラは司式の背で匂いの出口を押さえた。
黒い風は薄くなり、胸骨は静かに閉じた。
祭壇は、骨から石に戻る。
「嫌いな礼は、丁寧に裂く」ヨハンが息を吐いた。
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XI 骨の海蝕洞、王の前庭
さらに進むと、音がなくなった。
波の気配だけがあり、音は遠い。
洞の口が大きく開き、そこは海に面した円形劇場――海蝕洞の前庭だった。
岩棚が段々に広がり、各段に骨の観客が座っている。皆、胸に穴。呼吸の代わりに風を通して座っている。
中央に、黒い祭壇。骨の王冠が、そこに置かれていた。
空気が凝り、冷え、言葉の前に影が立つ。
闇の幕が裂け、**死霊ノ王**が現れた。
背は高い。痩せているが、空間がその体を避けて流れるので、重く見えた。
王冠は頭上ではなく、胸の前に浮かび、心臓の代わりに微弱な光を拍で放っている。
その目は、穴ではない。減りだ。周囲から息と視線と拍を少しずつ削って、自分の静けさにしていく。
「やぁ、主語を守る者たちよ」
王の声は、石と骨の中間で響いた。
「この前の戯れは愉快だった。骨は倒され、霧は乾き、祭は裂かれた。――だが、借りは返したか?」
鐘楼の棚の《返照の帳》が、遠い地上でひとりでにめくれた気がした。
ナディアの胸には、わたしの代わりにわたしたちがある。あの献納が、ここでも利子を求めている。
「借りは、ここで返す」
ヨハンが一歩出た。銀は冷たい。だが、青は灯っている。
「返す、だと?」
ネクロ・ロードが胸に浮かぶ王冠を撫でた。
「おまえたちは生を借りている。名を借り、視線を借り、息を借り、拍を借りる。死は、それらを整理する収穫だ」
ヴァレリアの棘が袖の中で音を立てる。礼の角度が、半度だけ鋭くなった。
ジュロムは槌の頭を地に置き、短く言う。「地は、貸し借りの帳じゃねぇ。踏む場所だ」
エステラが鼻で王の匂いを嗅ぎ、目を細めた。
「骨と霧、そして古い鉄……戦場の匂い。嫌い」
ルーシアンは潮の段を測り、ボミエは杖の結び目を抱く。猫の耳はぴんと立ち、恐怖で手が汗ばむ。
「帰る場所、守るニャ。借りは返すけど、居場所は渡さないニャ」
ミレイユは名録を開き、余白に小さな青を打つ。
――《灯りの席:返照、在》
ザードルの席が、遠くで頷いた。
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XII 対峙
海蝕洞の天井から、冷たい雫が一定の間隔で落ちる。拍だ。
ネクロ・ロードは一歩、祭壇から降りて来た。降りながら、骨の観客が立ち上がる。肩が擦れ、空気はさらに軽くなる。
「嫌いなら、続けるがいい」
王は薄く笑い、胸の王冠がひとつ明滅した。
「嫌いは長持ちする。礼もな」
ナディアが笛を構え、無言の合図を仲間に散らす。
ルーシアンの霧が層を作り、ジュロムの槌が地を確かめる。
ヴァレリアは礼から置き、エステラは鼻で出口を探り、ミレイユが《ここ》を縫い、ボミエが句点を要に置く。
ヨハンは銀を押し、掴めを落とした。
王と、対峙。
骨の観客の眼窩に、海が映った。満月は、眼のままだった。
――戦いの第一声は、まだ鳴っていない。
しかし、港の喉はすでに息を合わせ、拍を揃えている。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。」
ヨハンの祈りが、海蝕洞の扉の蝶番を、わずかに鳴らした。
ネクロ・ロードの影が、一歩、こちらへ傾く。
王冠の光が、青に触れた。
――幕が上がる。
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つづく:第三十五話 骨潮の奉納、王冠の脈
海蝕洞の円形劇場で、拍と拍が噛み合う。
骨の観客が立ち上がり、黒い潮が王の袖から溢れ、港の合唱は返照の利子を払う覚悟を試される。
星は震えず、祈りは掴み、槌は地を打ち、棘は礼を裂く。
そして――誰かの主語が、ひとときわたしたちに溶ける。




