表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/323

深淵の視線、失われた主語

 



I 白蝋の紋、濡れた石


 白いものは夜になるほど濃く見える。

 港の石畳に残された白蝋の紋は、潮がさっと舐めるたび、じわりと輪郭を太らせた。円に似て、しかし円ではない。どこにも中心がなく、見る者の視線が触れた箇所が即席の中心に変わる。

 ミレイユは膝をつき、羽根筆の先で紋の溝をなぞった。指は冷たい蝋に汚れ、紙の灰の匂いが立ち上る。


「構文がない。……主語の欄が空白のまま固定されてる」

「じゃが、空白が固定されることはないはずじゃ」ヨハンが胸の銀を握る。

「だから淀むのさ」エステラが鼻先をしかめた。「匂いが回り続けてる。見るが、誰が見るかが決まらない匂い」


 ナディアが白蝋の鍵を掌で転がし、淡い青い返照を確かめる。

「――合唱で埋める。主語をわれらで置きなおすわ」


「句点も要るニャ」ボミエが杖の結び目を抱きしめ、頬の朱をそっと撫でた。「居場所を打っておけば、視線は迷子にならないニャ」


 港の家々の窓では、何人かが目を開けたまま眠っていた。まぶたは上がっているのに、誰も見ていない目。視線から主語が剥がされると、人はこうなるのかと、ヨハンは胸の奥が鈍く冷えるのを感じた。



II 鐘楼の棚、栞の血


 鐘楼に戻ると、増設された棚は夜気で膨らみ、差し込まれた栞の端が湿って波打っていた。

 ミレイユが一枚引き抜くと、その紙片の切り口から赤い点がじわ、と滲んだ。血の色に似ているが、匂いは鉄ではなく蝋と薔薇だ。


「視線狩りは続いてる」

「なら逆手に取る」ナディアが笛を持ち上げた。「栞の名前を呼び戻す。『見られる』を『見返す』に譜を反転する」


 ジュロムが槌の柄を握り直す。「地は持つ。名の足場を叩き固めてやる」

 ルーシアンは霧を細かく散らし、栞の束に水の膜をかけた。「視線が滑らないように、段差をつける」

 ヴァレリアは袖の中の棘を撫で、目を細める。「最初に斬るのは、わたし。――でも、置く刃から始める」


「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」

 ヨハンは祈りを落とし、胸の銀で言葉の底を指さし示した。


 合唱。ナディアの音が棚の隙へ染み込み、ミレイユの筆が**「ここ」を連番で縫い、ボミエの句点が梁の結び目を留める。エステラの鼻が匂いの高さをならし、ルーシアンの水が層を支え、ジュロムの一打が地の呼吸を合わせる。ヴァレリアは礼の角度で刃を置き**、見えない出入り口に躓きを仕掛けた。


 栞の赤は薄れ、代わりに青い点がひとつ、控えめに灯った。ザードルの席の返照が、棚のどこかで小さく笑ったようだった。



III 失われた主語


 その時だ。鐘楼の階段から、トマスがよろよろと上ってきた。ロープを握る指がゆるく震え、目は開いているのに焦点がどこにも合っていない。


「……鳴らすのは、だれ?」

 少年は自分を指させない。主語が滑り落ちている。

 ヨハンは彼の肩を掴んだ。「お前じゃ、トマス。お前が鳴らすんじゃ」


 その言葉は、空に落ちて、受け皿を失った音のように漂った。

 ミレイユが唇を噛む。「視線だけじゃない。主語を奪う儀式が始まってる」


「読める?」ナディア。

 ミレイユはうなずき、白蝋の紋の写しを広げた。「深淵の扉が開いてる。『見る』だけが先に行って、『誰が』がこちらに置き去り。――『主語狩り』」


 エステラが鼻で風を切る。「匂いが降りてる。港の地下、古い水門の方へ」



IV 深淵への降下


 港の外れ、使われなくなった水門は、夜露で黒く濡れていた。鉄の格子は歪んでいて、内側から蝋がはみ出した跡がある。

 白蝋の鍵を差し込むと、鍵は音もなく溶け、格子の蝶番が一度だけ鳴き、闇が口を開いた。


 下は冷たい。石段は潮の塩でざらつき、壁には目のような水の珠が並んでいる。

 ボミエが杖の結び目をとんと鳴らした。「句点を打って行くニャ。帰り道が消えないようにニャ」

 ナディアが二三/一四の短い合図を吹くたび、壁の珠は瞬き、青い点がひとつ、ふたつと増えていった。


 やがて、階段は終わり、水面が現れた。鏡のような黒い水。覗き込むと、自分ではない顔が微かに揺れ、レクシコンの仮面の白がそこかしこに沈んでいるのがわかった。


「見るな」ルーシアンが手で制す。「見返される。視線の主語を持っていかれる」

「掴むニャ」ボミエが杖を掲げ、星の微光で水の表皮だけを撫でる。「触れずに道だけ照らすニャ」


 黒い水の上に、細い板のようなものが浮かび上がる。合唱が道を生成し、句点がその継ぎ目を留めた。

 彼らはその上を、息を殺して渡った。



V 視照者シアラー


 最初の広間は、眼の部屋だった。

 壁にも床にも天井にも、薄い瞼のような膜がびっしりと生え、ゆっくりと開閉を繰り返している。まるで巨大な生き物の呼吸に合わせて、視線そのものが収縮しているようだった。


 その中央に、背の曲がった影が立っていた。背骨は書見台、腕は物差し、指先は羽根筆。頭の位置にあるのは眼窓――覗き穴だ。

 視照者シアラー。見るために生まれ、見ること以外を持たない者。


「主語を返せ」ヨハンが言う。

 視照者は首を傾げ、覗き穴を順にこちらへ向けた。

 穴がこちらを貫く。見られる。胸の奥が一瞬空洞になり、心臓が名を忘れかけた。


「鼻を前に」エステラの声が鋭い。「匂いで居場所を上書きする!」

 彼女は懐から小さな布包みを取り出し、焼いた砂糖と潮と紙灰を混ぜて床へ撒いた。甘く、塩辛く、灰の乾いた匂いが層を作る。

 ルーシアンの霧が層に厚みを与え、ナディアの笛が層の拍を刻む。

 ボミエは句点を視照者の足元に置いた。「ここニャ。動けなくなるニャ」


 視照者の膝が半歩遅れ、ヴァレリアの置かれた刃が礼の角度でその手首に触れる。切らない。動詞だけを鈍らせる。


 ミレイユが羽根筆で床に大文字の《われら》を書き、ジュロムが地で下線を引いた。

 ――視照者は、静かに覗き穴を閉じた。見るだけの身体は、見られないと呼吸ができないのだ。


「退け」ヨハン。

 視照者は礼をするように背を丸め、壁の瞼の中に溶けていった。



VI 失語の礼拝堂


 次の廊は沈黙で埋まっていた。

 音を出せない沈黙ではない。音が届かない沈黙だ。言葉を口にすれば、それは自分の背中の方へ流れていき、二度と戻らない。

 壁には古い祈祷文が黒く焼き付けられており、主語だけが欠落していた。

 ――**( )は赦し、( )は立ち、( )**は掴む。


 トマスの肩がふるえた。彼は口を開き、声にならない声で、「ぼくは……」と呻いた。主語が滑り、足元の板から落ちかける。


「句点!」ボミエが跳ぶ。「ここにいていいニャ。あなたはここニャ」

 杖の結び目がとんと鳴り、トマスの足元に小さな円座が現れた。

 ナディアが彼の背中に手を置き、笛を無音で吹く。音は出ないが、拍だけが背骨を正す。

 ミレイユが祈祷文の空白に小さな字で《われら》を書き込み、ルーシアンが霧の綿をその上にふわりと乗せた。


 沈黙は薄くなり、言葉が前に落ち始めた。

 ヴァレリアが袖の中で棘を撫で、「順番は守られた」と囁く。

 ジュロムは槌で床を一度だけ叩き、地の呼吸を震わせた。



VII レクシコンの聖壇


 最後の広間は聖壇だった。

 白蝋の床に赤い文字が彫り込まれ、その中央に仮面が置かれている。仮面は誰の顔でもなく、目の形だけが過剰に強調されている。

 レクシコンは姿を見せなかった。かわりに、視線だけが四方から集まり、仮面の空洞に落ちていく。


「主語を返せ」ヨハン。

 仮面は返事の代わりに、床の文字を一行だけ反転した。赤が白に、白が赤に。

 ――《主語=(空白)/述語=奪う/目的語=視線》

 「嫌い」ロザリアの笑いが遠くで揺れ、黄の天蓋が薄く光る。「だから、続けなさい」


 ナディアが笛を持ち、合図を仲間に散らした。

 「反転譜でいく。奪うの反対は返す。空白の反対は**『われら』**」


 ミレイユが大きく紙を広げ、等号に二重の釘を打つ。

 ルーシアンの水が仮面の周囲に輪を作り、ボミエが句点で輪の接点を留める。

 ジュロムの槌は低く三度、ヴァレリアの棘は礼の角度で斜に置かれ、エステラの鼻が匂いの高さを換調した。


 ヨハンは胸の銀を押し、低く祈る。

 「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――返名」


 拍が落ち、仮面の眼窩の底で青い火が瞬いた。ザードルの席が、視線の底に点を置いたのだ。

 見るが止まり、見返すが立つ。仮面は軽くなり、床の文字がひとりでに《主語=われら》へと書き換わっていく。


「返せ」ナディア。

 仮面の中から、小さな子どもの目がいくつも浮かび上がり、ぽつり、ぽつりと水面のように揺れた。

 ボミエが両手で杖を抱え、涙を飲みこむ。「帰るニャ。……こっちに帰るニャ」


 目は、いくつか戻った。

 ――ぜんぶではない。



VIII 失われたもの


 仮面は最後にひびを入れ、音を出さずに崩れた。

 レクシコンの声は聞こえない。ただ、見ているという冷気だけが広間に残る。

 トマスは自分の胸を叩いた。「ぼくは……ここにいる」

 彼の主語は戻った。だが、その隣にいた小柄な少年――ペドロは、瞳の中にまだ空白を抱いていた。


「ペドロ、帰ろう」ナディアが手を伸ばす。

 少年はうなずく。だが、その首の動きには誰も乗っていなかった。うなずいたのは身体で、主語は――どこかに置いてきた。


 ミレイユが名録に小さな青を記し、余白にこう書いた。

 ――《主語:保留。返照を待つ》

 エステラは鼻で深く息を吸い、薄く首を振った。「返照は来る。……ただ、時間がいる」


 ヴァレリアは袖の中で棘を撫で、「順番」とだけ言った。

 ジュロムは槌を肩に担ぎ、視線の抜けた空気を殴らずに、持った。

 ルーシアンが霧を清水に戻し、広間の匂いを洗い流した。



IX 昇り道、蝋の逆雨


 帰路につくと、頭上から逆さの雨が降ってきた。

 雨ではなく、蝋の涙。天井の見えないところで誰かが祈り続け、祈りの熱が蝋を溶かしている。

 ナディアが笛の裏で拍を合わせ、ボミエが句点を雨だまりに置いて滑りを止める。

 トマスは自分の足を見つめ、慎重に一段ずつ踏んだ。主語の重みが踵に戻り、足音が自分のものになる。


 階段の上り際、壁の珠が一つだけ黒かった。

 エステラが近寄り、嗅いで顔をしかめる。「吸血。……ヴェイルじゃない。別の匂い」

 ヨハンは胸の銀を押し、短く頷く。「目は返せても、牙は残っておる」



X 海風の墓標、青い点


 地上に出ると、夜の風が急に軽くなった。港の屋根に青い点がいくつも灯り、子どもらの視線が帰ってきた家々を指し示す。

 歓声は上がらない。泣き声も、まだない。ただ、息が戻る音だけが町を満たした。


 ペドロはナディアの手を握り、静かに空を見た。見るが、誰がの部分はまだ薄い。

 ボミエが膝をつき、彼の目の高さで言う。

「ここにいていいニャ。名前は消えないニャ。……待つニャ。戻ってくるニャ」


 ミレイユは名録の端に小さな鐘を描き、エステラは塩をひとつまみ、門の敷居へ撒いた。

 ジュロムは家の梁を一度だけ叩き、ルーシアンが水差しを置く。

 ヴァレリアは何も言わない。ただ、袖の中の棘を礼の角度で整えていた。



XI 潮窯の夜、灯りの席


 潮窯に戻ると、青い席は空のまま灯っていた。

 イーサンが星の結び目を見上げ、静かに言う。

「主語は、戻るさ。嫌いなほど礼儀を積めば、嫌いなものは去る」


「嫌い、と言い切るのは礼じゃの」ヨハンが苦く笑う。「嫌いと言える居場所を守る。それが街じゃ」


 ナディアが杯を配り、ミレイユが余白に青を打つ。

 エステラは火の匂いを探し、ジュロムは槌の頭で席の足をとんと確かめた。

 ルーシアンは水面に指を沈め、ヴァレリアは袖口の気配を一寸だけ緩め、ボミエは杖の結び目をとんと鳴らす。


「名に」――ミレイユ。

「水に」――ルーシアン。

「地に」――ジュロム。

「鼻に」――エステラ。

「順番に」――ヴァレリア。

「句点に」――ボミエ。

「掴むに」――ヨハン。


 杯が触れ合い、拍が揃った。



XII 前庭の風、深淵の予告


 夜の端で、前庭の天蓋が黄に濡れた。

 薔薇宰相ロザリアの声が、紙の裏から涼しく落ちる。

「嫌い。――だから、続けなさい。視線狩りは本番よ。主語を街に戻したなら、述語は**“裁く”**へ移る」


 鐘楼の棚で、栞が一枚、勝手に差し替わった。

 赤い糸で綴じられた新しい栞。見出しはこうだ。

 ――《眼礼の祭》

 項:鏡の境/備考:主語の審問


 ヨハンは胸の銀を押し、短く祈った。

「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――扉は残る。見る者も見られる者も、ここに立て」


 風は拍を持ち、港は長い舞台の次の幕を、沈黙で待った。



つづく:第三十二話 眼礼の祭、鏡の境


次回予告

白蝋の紋は祭壇に組み替えられ、鐘楼には鏡の屏風が据えられる。

見ることの礼、見られることの罪、そして主語の審問。

星は震えず、祈りは掴み、槌は地を打ち、棘は礼を裂く。

しかし祭が終わるとき、港は自らの主語をひとつ失う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ