深淵の視線、失われた主語
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I 白蝋の紋、濡れた石
白いものは夜になるほど濃く見える。
港の石畳に残された白蝋の紋は、潮がさっと舐めるたび、じわりと輪郭を太らせた。円に似て、しかし円ではない。どこにも中心がなく、見る者の視線が触れた箇所が即席の中心に変わる。
ミレイユは膝をつき、羽根筆の先で紋の溝をなぞった。指は冷たい蝋に汚れ、紙の灰の匂いが立ち上る。
「構文がない。……主語の欄が空白のまま固定されてる」
「じゃが、空白が固定されることはないはずじゃ」ヨハンが胸の銀を握る。
「だから淀むのさ」エステラが鼻先をしかめた。「匂いが回り続けてる。見るが、誰が見るかが決まらない匂い」
ナディアが白蝋の鍵を掌で転がし、淡い青い返照を確かめる。
「――合唱で埋める。主語をわれらで置きなおすわ」
「句点も要るニャ」ボミエが杖の結び目を抱きしめ、頬の朱をそっと撫でた。「居場所を打っておけば、視線は迷子にならないニャ」
港の家々の窓では、何人かが目を開けたまま眠っていた。まぶたは上がっているのに、誰も見ていない目。視線から主語が剥がされると、人はこうなるのかと、ヨハンは胸の奥が鈍く冷えるのを感じた。
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II 鐘楼の棚、栞の血
鐘楼に戻ると、増設された棚は夜気で膨らみ、差し込まれた栞の端が湿って波打っていた。
ミレイユが一枚引き抜くと、その紙片の切り口から赤い点がじわ、と滲んだ。血の色に似ているが、匂いは鉄ではなく蝋と薔薇だ。
「視線狩りは続いてる」
「なら逆手に取る」ナディアが笛を持ち上げた。「栞の名前を呼び戻す。『見られる』を『見返す』に譜を反転する」
ジュロムが槌の柄を握り直す。「地は持つ。名の足場を叩き固めてやる」
ルーシアンは霧を細かく散らし、栞の束に水の膜をかけた。「視線が滑らないように、段差をつける」
ヴァレリアは袖の中の棘を撫で、目を細める。「最初に斬るのは、わたし。――でも、置く刃から始める」
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」
ヨハンは祈りを落とし、胸の銀で言葉の底を指さし示した。
合唱。ナディアの音が棚の隙へ染み込み、ミレイユの筆が**「ここ」を連番で縫い、ボミエの句点が梁の結び目を留める。エステラの鼻が匂いの高さをならし、ルーシアンの水が層を支え、ジュロムの一打が地の呼吸を合わせる。ヴァレリアは礼の角度で刃を置き**、見えない出入り口に躓きを仕掛けた。
栞の赤は薄れ、代わりに青い点がひとつ、控えめに灯った。ザードルの席の返照が、棚のどこかで小さく笑ったようだった。
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III 失われた主語
その時だ。鐘楼の階段から、トマスがよろよろと上ってきた。ロープを握る指がゆるく震え、目は開いているのに焦点がどこにも合っていない。
「……鳴らすのは、だれ?」
少年は自分を指させない。主語が滑り落ちている。
ヨハンは彼の肩を掴んだ。「お前じゃ、トマス。お前が鳴らすんじゃ」
その言葉は、空に落ちて、受け皿を失った音のように漂った。
ミレイユが唇を噛む。「視線だけじゃない。主語を奪う儀式が始まってる」
「読める?」ナディア。
ミレイユはうなずき、白蝋の紋の写しを広げた。「深淵の扉が開いてる。『見る』だけが先に行って、『誰が』がこちらに置き去り。――『主語狩り』」
エステラが鼻で風を切る。「匂いが降りてる。港の地下、古い水門の方へ」
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IV 深淵への降下
港の外れ、使われなくなった水門は、夜露で黒く濡れていた。鉄の格子は歪んでいて、内側から蝋がはみ出した跡がある。
白蝋の鍵を差し込むと、鍵は音もなく溶け、格子の蝶番が一度だけ鳴き、闇が口を開いた。
下は冷たい。石段は潮の塩でざらつき、壁には目のような水の珠が並んでいる。
ボミエが杖の結び目をとんと鳴らした。「句点を打って行くニャ。帰り道が消えないようにニャ」
ナディアが二三/一四の短い合図を吹くたび、壁の珠は瞬き、青い点がひとつ、ふたつと増えていった。
やがて、階段は終わり、水面が現れた。鏡のような黒い水。覗き込むと、自分ではない顔が微かに揺れ、レクシコンの仮面の白がそこかしこに沈んでいるのがわかった。
「見るな」ルーシアンが手で制す。「見返される。視線の主語を持っていかれる」
「掴むニャ」ボミエが杖を掲げ、星の微光で水の表皮だけを撫でる。「触れずに道だけ照らすニャ」
黒い水の上に、細い板のようなものが浮かび上がる。合唱が道を生成し、句点がその継ぎ目を留めた。
彼らはその上を、息を殺して渡った。
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V 視照者
最初の広間は、眼の部屋だった。
壁にも床にも天井にも、薄い瞼のような膜がびっしりと生え、ゆっくりと開閉を繰り返している。まるで巨大な生き物の呼吸に合わせて、視線そのものが収縮しているようだった。
その中央に、背の曲がった影が立っていた。背骨は書見台、腕は物差し、指先は羽根筆。頭の位置にあるのは眼窓――覗き穴だ。
視照者。見るために生まれ、見ること以外を持たない者。
「主語を返せ」ヨハンが言う。
視照者は首を傾げ、覗き穴を順にこちらへ向けた。
穴がこちらを貫く。見られる。胸の奥が一瞬空洞になり、心臓が名を忘れかけた。
「鼻を前に」エステラの声が鋭い。「匂いで居場所を上書きする!」
彼女は懐から小さな布包みを取り出し、焼いた砂糖と潮と紙灰を混ぜて床へ撒いた。甘く、塩辛く、灰の乾いた匂いが層を作る。
ルーシアンの霧が層に厚みを与え、ナディアの笛が層の拍を刻む。
ボミエは句点を視照者の足元に置いた。「ここニャ。動けなくなるニャ」
視照者の膝が半歩遅れ、ヴァレリアの置かれた刃が礼の角度でその手首に触れる。切らない。動詞だけを鈍らせる。
ミレイユが羽根筆で床に大文字の《われら》を書き、ジュロムが地で下線を引いた。
――視照者は、静かに覗き穴を閉じた。見るだけの身体は、見られないと呼吸ができないのだ。
「退け」ヨハン。
視照者は礼をするように背を丸め、壁の瞼の中に溶けていった。
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VI 失語の礼拝堂
次の廊は沈黙で埋まっていた。
音を出せない沈黙ではない。音が届かない沈黙だ。言葉を口にすれば、それは自分の背中の方へ流れていき、二度と戻らない。
壁には古い祈祷文が黒く焼き付けられており、主語だけが欠落していた。
――**( )は赦し、( )は立ち、( )**は掴む。
トマスの肩がふるえた。彼は口を開き、声にならない声で、「ぼくは……」と呻いた。主語が滑り、足元の板から落ちかける。
「句点!」ボミエが跳ぶ。「ここにいていいニャ。あなたはここニャ」
杖の結び目がとんと鳴り、トマスの足元に小さな円座が現れた。
ナディアが彼の背中に手を置き、笛を無音で吹く。音は出ないが、拍だけが背骨を正す。
ミレイユが祈祷文の空白に小さな字で《われら》を書き込み、ルーシアンが霧の綿をその上にふわりと乗せた。
沈黙は薄くなり、言葉が前に落ち始めた。
ヴァレリアが袖の中で棘を撫で、「順番は守られた」と囁く。
ジュロムは槌で床を一度だけ叩き、地の呼吸を震わせた。
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VII レクシコンの聖壇
最後の広間は聖壇だった。
白蝋の床に赤い文字が彫り込まれ、その中央に仮面が置かれている。仮面は誰の顔でもなく、目の形だけが過剰に強調されている。
レクシコンは姿を見せなかった。かわりに、視線だけが四方から集まり、仮面の空洞に落ちていく。
「主語を返せ」ヨハン。
仮面は返事の代わりに、床の文字を一行だけ反転した。赤が白に、白が赤に。
――《主語=(空白)/述語=奪う/目的語=視線》
「嫌い」ロザリアの笑いが遠くで揺れ、黄の天蓋が薄く光る。「だから、続けなさい」
ナディアが笛を持ち、合図を仲間に散らした。
「反転譜でいく。奪うの反対は返す。空白の反対は**『われら』**」
ミレイユが大きく紙を広げ、等号に二重の釘を打つ。
ルーシアンの水が仮面の周囲に輪を作り、ボミエが句点で輪の接点を留める。
ジュロムの槌は低く三度、ヴァレリアの棘は礼の角度で斜に置かれ、エステラの鼻が匂いの高さを換調した。
ヨハンは胸の銀を押し、低く祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――返名」
拍が落ち、仮面の眼窩の底で青い火が瞬いた。ザードルの席が、視線の底に点を置いたのだ。
見るが止まり、見返すが立つ。仮面は軽くなり、床の文字がひとりでに《主語=われら》へと書き換わっていく。
「返せ」ナディア。
仮面の中から、小さな子どもの目がいくつも浮かび上がり、ぽつり、ぽつりと水面のように揺れた。
ボミエが両手で杖を抱え、涙を飲みこむ。「帰るニャ。……こっちに帰るニャ」
目は、いくつか戻った。
――ぜんぶではない。
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VIII 失われたもの
仮面は最後にひびを入れ、音を出さずに崩れた。
レクシコンの声は聞こえない。ただ、見ているという冷気だけが広間に残る。
トマスは自分の胸を叩いた。「ぼくは……ここにいる」
彼の主語は戻った。だが、その隣にいた小柄な少年――ペドロは、瞳の中にまだ空白を抱いていた。
「ペドロ、帰ろう」ナディアが手を伸ばす。
少年はうなずく。だが、その首の動きには誰も乗っていなかった。うなずいたのは身体で、主語は――どこかに置いてきた。
ミレイユが名録に小さな青を記し、余白にこう書いた。
――《主語:保留。返照を待つ》
エステラは鼻で深く息を吸い、薄く首を振った。「返照は来る。……ただ、時間がいる」
ヴァレリアは袖の中で棘を撫で、「順番」とだけ言った。
ジュロムは槌を肩に担ぎ、視線の抜けた空気を殴らずに、持った。
ルーシアンが霧を清水に戻し、広間の匂いを洗い流した。
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IX 昇り道、蝋の逆雨
帰路につくと、頭上から逆さの雨が降ってきた。
雨ではなく、蝋の涙。天井の見えないところで誰かが祈り続け、祈りの熱が蝋を溶かしている。
ナディアが笛の裏で拍を合わせ、ボミエが句点を雨だまりに置いて滑りを止める。
トマスは自分の足を見つめ、慎重に一段ずつ踏んだ。主語の重みが踵に戻り、足音が自分のものになる。
階段の上り際、壁の珠が一つだけ黒かった。
エステラが近寄り、嗅いで顔をしかめる。「吸血。……ヴェイルじゃない。別の匂い」
ヨハンは胸の銀を押し、短く頷く。「目は返せても、牙は残っておる」
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X 海風の墓標、青い点
地上に出ると、夜の風が急に軽くなった。港の屋根に青い点がいくつも灯り、子どもらの視線が帰ってきた家々を指し示す。
歓声は上がらない。泣き声も、まだない。ただ、息が戻る音だけが町を満たした。
ペドロはナディアの手を握り、静かに空を見た。見るが、誰がの部分はまだ薄い。
ボミエが膝をつき、彼の目の高さで言う。
「ここにいていいニャ。名前は消えないニャ。……待つニャ。戻ってくるニャ」
ミレイユは名録の端に小さな鐘を描き、エステラは塩をひとつまみ、門の敷居へ撒いた。
ジュロムは家の梁を一度だけ叩き、ルーシアンが水差しを置く。
ヴァレリアは何も言わない。ただ、袖の中の棘を礼の角度で整えていた。
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XI 潮窯の夜、灯りの席
潮窯に戻ると、青い席は空のまま灯っていた。
イーサンが星の結び目を見上げ、静かに言う。
「主語は、戻るさ。嫌いなほど礼儀を積めば、嫌いなものは去る」
「嫌い、と言い切るのは礼じゃの」ヨハンが苦く笑う。「嫌いと言える居場所を守る。それが街じゃ」
ナディアが杯を配り、ミレイユが余白に青を打つ。
エステラは火の匂いを探し、ジュロムは槌の頭で席の足をとんと確かめた。
ルーシアンは水面に指を沈め、ヴァレリアは袖口の気配を一寸だけ緩め、ボミエは杖の結び目をとんと鳴らす。
「名に」――ミレイユ。
「水に」――ルーシアン。
「地に」――ジュロム。
「鼻に」――エステラ。
「順番に」――ヴァレリア。
「句点に」――ボミエ。
「掴むに」――ヨハン。
杯が触れ合い、拍が揃った。
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XII 前庭の風、深淵の予告
夜の端で、前庭の天蓋が黄に濡れた。
薔薇宰相ロザリアの声が、紙の裏から涼しく落ちる。
「嫌い。――だから、続けなさい。視線狩りは本番よ。主語を街に戻したなら、述語は**“裁く”**へ移る」
鐘楼の棚で、栞が一枚、勝手に差し替わった。
赤い糸で綴じられた新しい栞。見出しはこうだ。
――《眼礼の祭》
項:鏡の境/備考:主語の審問
ヨハンは胸の銀を押し、短く祈った。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――扉は残る。見る者も見られる者も、ここに立て」
風は拍を持ち、港は長い舞台の次の幕を、沈黙で待った。
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つづく:第三十二話 眼礼の祭、鏡の境
次回予告
白蝋の紋は祭壇に組み替えられ、鐘楼には鏡の屏風が据えられる。
見ることの礼、見られることの罪、そして主語の審問。
星は震えず、祈りは掴み、槌は地を打ち、棘は礼を裂く。
しかし祭が終わるとき、港は自らの主語をひとつ失う。




