視線狩り、鐘楼の栞
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I 鐘楼の棚
港の朝は、不自然な静けさで始まった。
夜明けの鐘が鳴るはずの刻に、鐘楼の奥から聞こえたのは──本のページをめくる音。
階段を上ったヨハンたちが目にしたのは、増設された棚だった。昨日まではなかったものだ。
棚には無数の栞が差し込まれ、それぞれに名前が書かれていた。港の住民、仲間たち、そして――彼ら自身の名前も。
「……これは何じゃ」
ヨハンは指で栞をなぞり、眉をひそめた。
ミレイユが栞を一枚抜き、慎重に見つめる。
「“視線税”の徴収記録よ。――誰が誰を“見ている”か、その証跡」
ボミエが杖を抱え、耳を伏せた。
「見られてるニャ……いや、狩られてるニャ」
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II 港の異変
港の通りでは、妙な現象が起きていた。
屋台の主人が気を失い、無言のまま路地に座り込む。
子供たちは同じ夢を見たように同じ言葉を繰り返し、老人たちは目を開けたまま呼吸だけを続けている。
エステラは鼻を上げ、匂いを嗅ぐ。
「蝋、紙、薔薇……それに、視線の焦げた匂い。――誰かが“狩り”を始めた」
ルーシアンが水脈の変化を読み取り、低くつぶやいた。
「潮の流れが逆になってる。外からじゃなく、内側から吸い上げられてる」
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III 古き名持ちの宣告
鐘楼の奥から声が響く。
**古き名持ち《オノマトン》**が姿を現した。
その罫線の目は淡く濁り、灰色の光を宿している。
「視線は税だ。――おまえたちはまだ、主語を返していない」
ヨハンが一歩前に出る。
「税だと? この港の“目”は街のものじゃ。誰にも奪わせん」
オノマトンは冷たく笑う代わりに、ページを一枚破った。
「主語を守るなら、狩りを止めろ。――“視線狩り”は始まった」
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IV 狩りの始まり
その瞬間、港全体が震えた。
見えない影が鐘楼の上を駆け抜け、屋根の瓦を音もなく割る。
透明の気配――ヴェイルではない。もっと鋭く、もっと速い。
ナディアが笛を吹き、仲間たちが一斉に動く。
ルーシアンの霧が港を覆い、ジュロムの槌が地を叩く。
ヴァレリアの棘が礼儀の角度で置かれ、エステラが鼻で影の動きを読み取る。
だが、速い。
子供たちが一人、また一人と姿を消した。
その背後には白い蝋でできた細い糸が揺れている。
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V 抗う者たち
ボミエが杖を掲げ、星の結び目を叩く。
「ここは港ニャ! 誰にも渡さないニャ!」
杖から放たれた光が港の中央に輪を描き、攫われそうになった子供たちを引き戻す。
ジュロムの槌がその輪の外を叩き、足場を固める。
ナディアの笛が合図を送り、ルーシアンが水の壁を立ち上げる。
ヴァレリアが棘を跳ねさせ、透明の影を追う。
エステラの鼻が震え、冷たい声が響く。
「三人目が……奥の路地にいる!」
ヨハンは銀を胸に押し、祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。掴め!」
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VI 敵の正体
港の灯りが一斉に消え、闇の中に現れたのは、白い仮面をつけた女だった。
その背後には、影のように溶けた無数の眷属――透明の獣たちが蠢いている。
ミレイユが息を呑む。
「……“古き視線の主”《レクシコン》……」
オノマトンの声が鐘楼の奥で響く。
「視線の根本だ。――“見る”という行為そのものの所有者」
女は仮面の奥から、淡い笑みを漏らした。
「見られたくないなら、見なければいい。――その目を、私に渡せば済むこと」
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VII 戦いの火蓋
ナディアの笛が高く鳴り、仲間たちが一斉に動いた。
ジュロムの槌が地を裂き、ボミエの杖が星を呼ぶ。
ルーシアンの水が渦を作り、エステラの鼻が敵の気配を追い、ヴァレリアの棘が礼儀の角度で空を裂く。
ヨハンは銀を掲げ、祈りを叫んだ。
「掴め――!」
だが、レクシコンの影は速かった。
港の屋根を渡り、鐘楼の影に紛れ、仲間たちの視線を奪いながら攻撃を繰り出してくる。
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VIII 鐘楼の栞
戦いの最中、鐘楼の棚に差し込まれていた栞が光を放った。
そこには仲間たちの名前と共に、淡い青い印が刻まれていた。
ミレイユが叫ぶ。
「栞を使うの! 名前を読み上げて、視線を呼び戻して!」
ナディアが笛で名前を奏で、ルーシアンが水の壁を押し広げる。
ジュロムの槌が地を叩き、ボミエの杖が輪を描く。
ヴァレリアが棘を投げ、エステラが匂いを辿る。
ヨハンは祈りを重ね、仲間たちの足元に確かな力を与えた。
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IX 逆転の一手
港の空に光が走り、鐘楼の影が裂けた。
仲間たちの視線が戻り、レクシコンの姿が露わになる。
白い仮面の奥の目が、一瞬だけ揺れた。
「今だ!」
ジュロムの槌が唸り、ヴァレリアの棘が軌道を描く。
ボミエの杖が星を爆ぜさせ、ルーシアンの水が刃と化して迫る。
仮面が割れ、女の声が震える。
「面白い……。ならば、もっと深い場所で遊びましょう」
その瞬間、女と眷属たちは霧のように消えた。
港には、静寂だけが残った。
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X 残された痕跡
港の地面には、白蝋で描かれた複雑な紋様が残されていた。
その中心には、一枚の栞が突き刺さっている。
そこにはたった一行だけ、赤い文字でこう記されていた。
「視線を返せ。主語はお前たちではない」
ミレイユが震える手で栞を拾い上げる。
「……狩りは、まだ終わってない」
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XI 夜の誓い
港の中央に集まった仲間たちは、誰も言葉を発さなかった。
ただ静かに、失われた子供たちの名を心の中で呼び続けた。
ヨハンが胸の銀を押し、低く祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――掴め」
ボミエは杖を抱え、涙をこらえながら言った。
「絶対に……取り返すニャ」




