蝶番の根、あいだの裂け目
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I 断崖の口、第三の扉
海が沈黙していた。
北端の断崖の裾で、潮は唇を固く結び、ただ拍だけを肺の奥で繰り返している。岩肌に埋まった古い石門は、昨夜差し込んだ白蝋の鍵の名残りをかすかに光らせていた。
ルーシアンが崖の汗を指で撫で、低く呟く。
「水脈が裏返ってる。――あちらへ落ちる川だ」
ナディアは鍵を持つ手を胸で固定し、深く息を吸った。
「開けるわ。呼吸で」
鍵穴に白蝋の鍵が触れた瞬間、蝋は溶け、息に変わって門内へしみ込んだ。門は一度だけ息を返し、舌のような冷気を吐いて口を開いた。
奥は暗い回廊。潮と紙と鉄が古い約束を混ぜている匂い。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」
ヨハンが銀を押し、短く祈る。「掴め」
彼らは灯を落とし、闇の拍へ歩調を合わせて入っていった。
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II 蝶番の根、音の樹海
回廊の終わりは大空洞だった。
百の船の竜骨と千の鐘の腹が絡み合い、そこから無数の根が垂れている。根はみな蝶番になっている。鉄でも木でもない、鳴り終わりで鋳られた関節。触れると過去が少しだけ鳴る。
「……ここが蝶番の根」
ミレイユが羽根筆を胸に抱き、目を見開く。「街と“あちら”の扉を支える中枢」
エステラは鼻を高く上げ、嗅ぎ分けた。
「古い油、焦げた蝋、薔薇の粉、紙の灰……それに――血。乾いた血じゃない。呼吸が混じる温度」
ジュロムは槌の柄を握り直した。
「梁は唸る。持てるが、折るには順番が要る」
ヴァレリアは袖に棘を滑らせ、目を細める。
「最初に斬るのは、わたし。でもここは置くところ。斬る角度を礼儀に合わせる」
ボミエは杖を胸に抱え、頬の朱をきゅっと引き締めた。
「句点で居場所を縫うニャ。根っこのあいだに点を置けば、道が迷わないニャ」
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III 古き名持ち《オノマトン》
闇の奥から頁が擦れる音がした。
やがて、根の束の隙間から顔が現れた――いや、顔のための空白。そこに文字がひとつずつ現れては消え、形をとる。
古き名持ち《オノマトン》。名を所有するという古い権能を、失いかけた何か。
「来訪……礼儀は守られた」
声は紙の裏から響く。「名は街に縫われ、索引は切られた。よって次は――視線」
ナディアが眉を寄せた。「視線?」
「名を見る角度。目次の高さ。主語の位置」
オノマトンは笑う代わりに、一行の罫線を揺らした。
「おまえたちを見ている者の目を、こちらに回収する。――視線税だ」
ロザリアの薔薇の薄匂いが、どこか遠くで肯定に揺れた。
黄昏の目は、笑っている。「嫌い。だから、続けなさい」
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IV 視線の徴発
空洞の天蓋がすっと低くなった。
港の屋根、鐘楼の踊り場、路地の角、店の看板、窓辺の金魚――見るもの達の目が微かに暗くなり、焦点が鈍る。
ミレイユが名録を押さえる手に力を込めた。
「視線を剥がせば、名は足場を失う。――歩幅が狂う」
ナディアが笛を構え、「視線返却の譜」を吹きはじめる。
音は高く低く、短く長く、見る/見られるの往復を譜面にする。
ルーシアンが霧で空気の段を刻み、視線が滑らないよう段差をつくる。
「句点を目の端に置くニャ!」
ボミエが杖で小点を空に打つ。
それは瞼と瞳の間に浮かぶ黒子のように、視線の支点になる。
オノマトンはわずかに首を傾げ、根の束を一筋ゆるめた。
「礼儀――嫌い。だが、美しい」
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V 透明の息、鐘の欠け口
擦れる音。
ヴェイルが来た。透明は、鐘の鳴り終わりに残した欠けを血路に変え、根の束の裏を駆ける。
トマスがいない鐘楼のロープが、地上でひとりでに二度、揺れた。
「欠けは折り口になる。――そこから刺す」
ヴェイルの声は優しかった。冷たい優しさ。
ヴァレリアの棘が礼の角度で置かれ、透明の足を半拍止める。
ジュロムが槌で梁を鳴らし、地の返りでヴェイルの呼吸を狂わせる。
エステラが鼻で温度を読み、「左後方、低い!」と叫ぶ。
だが――透明は視線を奪っている。
見ること自体が滑り、刃は遅れる。
「見るんじゃないニャ、掴むニャ!」
ボミエが跳ね、杖の結び目をとんと鳴らす。
にゃ。
音が、視線の代わりに位置を与えた。
ナディアの笛がその高さを受け、ルーシアンがその層を水で固定する。
棘は次で触れた。
薄い血が霧に混じり、透明は冬になった。
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VI カルナのノート、逆蝶番の式
押し合いの最中、カルナが古びた日誌を広げる。
彼の村に伝わる**“逆蝶番の式”――扉の荷重を街側へ戻す稽古**。
紙には幼い文字で、こう書かれていた。
主語=街
述語=掴む
目的語=扉
補語=蝶番
接続=拍
「……これ、歌えますか?」
カルナの声は震えていた。「村はこれで一度だけ、夜を退けた。――でも、犠牲が出た」
犠牲――ザードル。
ナディアは頷き、譜面に式を置く。
ミレイユが等号に二重線を引き、ヨハンが胸の銀を押し、低く祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。返せ」
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VII 蝶番を熱し、根を反らす
ナディアが逆蝶番の合唱を立ち上げる。
ルーシアンの水は熱を帯び、霧が湯気に変わる。
ジュロムが地を低い音で打ち、エステラが匂いの窓を開け、ミレイユが「ここ」を連番で押し、ボミエが句点を根の間に落としてスペーサにする。
ヴァレリアの銀の裂片が綴じ糸に半音を刺す。
チ。
蝶番が温まり、軋みがやわらぐ。
根は少しだけ街の側へ反った。
港の屋根にいたカモメが一斉に翼を打つ。重心が戻る。
オノマトンの罫線がわずかに歪み、灰色の瞳に皺が寄った。
「礼儀に従った反証。……嫌い。――だから、学ぶ」
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VIII 視線税の破算
オノマトンは根の束から目録を一枚抜き取り、白い蝋で印璽を押そうとした。
その瞬間、ヴァレリアの棘が礼の角度で押し返し、印璽は紙に沈みきらない。
ナディアが逆位相を吹き、ミレイユが注記欄へ小字でこう書く。
視線は名の余白に非ず。課税不可。
ルーシアンは霧で判の周縁に露を足し、エステラが匂いの高さを外へ逃がす。
白蝋の印は輪郭だけを残して跳ね、視線税の条は白のまま保留となった。
「保留、嫌い」
オノマトンは灰色の瞳を細めた。
「……では、名ではなく視線の主語を奪う。見る者は――黄」
天蓋が、笑った。
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IX 黄の手、長い幕
薄い黄が根の束の上に天蓋を張る。
前庭の幕が海底まで延長されたような、長い幕。
薔薇宰相ロザリアの声が、遠くから丁寧に届く。
「嫌い。――だから、続けなさい。ただし、七夜の免除は満了よ」
港の上では、白薔薇の残花がほろりと崩れ、香は刃を取り戻そうとする。
だが、鐘楼の目録にはすでに青い点がひとつ灯っている。
ザードルの席が、拍の結び目として記録された証。
「幕が長くても、拍が持てば倒れない」
ヨハンは息を吐き、銀を押す。「掴め」
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X 透明の血路、最後の刺し違え
ヴェイルは幕の影を走る。
視線が揺れる端、鳴り終わりの欠け、根の隙――最短を刺す者の軌道。
ジュロムが地を横に打ち、ヴァレリアが置く刃を増やす。
ボミエは句点を三つ束ねて省略記号にし、滑走を鈍らせる。
「にゃ」
杖の結び目が一度鳴り、輪の結び目に青い灯が点る。
ナディアがその高さを笛で拾い、ルーシアンがその層を水で支える。
エステラは鼻で血の方向を言い、ミレイユは**「ここ」を複数形**にする。――ここたち。
そこへ。
透明の足が踏む。
置かれた刃が礼から斬へ傾く。
チリ。
血が薄青に染まり、ヴェイルの声が低く崩れた。
「……借りは、鐘で返した」
彼は消えなかった。退いた。
鐘の欠けは残る。折り口は――こちらのものになった。
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XI 根の宣誓、扉の傾き
オノマトンの罫線が深く揺れ、灰色の瞳が左右に分かれる。
「宣誓。――扉は、街の拍に傾く」
根の束の半分が、港側へ撓んだ。
目に見えない傾斜が町全体に通り、歩が少し長くなった。
視線は戻る。名は居場所を太らせる。
アグリッパの小さな影が根の奥で一礼し、蝋の司書は索引の鍵を閉めた。
「礼儀は、守られた」
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XII 崩れる空洞、残る蝶番
空洞が軋み、根の束の外が崩れはじめた。
あちらの幕が畳まれてゆくのだ。
ルーシアンが潮を逆へ送り、ナディアが帰還の譜を掲げる。
ミレイユは名録の端に帰還線を引き、ボミエが句点で足場を増やし、ジュロムが地を持ち、ヴァレリアが礼の刃で道を守る。
ヨハンが最後尾で銀を押し、「掴め」を落とし続ける。
カルナは肩を押さえながら、日誌を抱いて走った。
「拍は……続いてる。――ありがとう」
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XIII 地上、鐘と青
断崖の口から外気が噴き出し、一行は暗い回廊を抜けて石門の外へ溢れた。
鐘が一度だけ、鳴っていないのに鳴った。
青い灯が、港の屋根の端々で瞬いて消えた。ザードルの席が、多くの結び目に分有されたのだ。
トマスがロープを握り、掌の銀粉を払う。
「帰りを、待ってた」
ナディアは笛を膝に置き、深く息を吐く。
「視線は返せた。扉は傾いた。――七夜の免除は終わったけど」
「幕が長くても、拍が持てばいいニャ」
ボミエが耳を立て、頬の朱に触れる。「名には触れないニャ。居場所は増やすニャ」
ヴァレリアは袖の棘を撫で、短く言う。
「順番を守る。――最初に斬るのは、わたし」
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XIV 潮窯、蝶番の囁き
夜。潮窯。
イーサンは天井の星の結び目を見上げ、口元に小さな笑みを置いた。
「扉は残り、蝶番は街へ傾いた。……嫌い。だから、嬉しい」
「嫌いでええ」
ヨハンは銀を撫で、目を細める。「蝶番は憎まれておる方が錆びぬ」
カルナは日誌を膝に、そっと頭を下げた。
「……助けてくれて、ありがとう。村は失ったけど、式は、ここで生きた」
ナディアが杯を並べ、ミレイユが余白に小さな青を記す。
エステラは鼻で火の匂いを探し、ジュロムは槌の頭をそっと床に置いた。
ルーシアンは海の呼吸を聞き、ヴァレリアは袖口の礼を整え、ボミエは杖の結び目をとんと叩く。
「拍に」――ミレイユ。
「水に」――ルーシアン。
「地に」――ジュロム。
「鼻に」――エステラ。
「順番に」――ヴァレリア。
「句点に」――ボミエ。
「掴むに」――ヨハン。
杯が触れ合い、拍が揃う。
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XV 前庭の風、次の目
薄い黄が海の縁からのぞく。
前庭の天蓋は遠くに退いたが、目は残っている。
薔薇宰相ロザリアは白の印璽を懐で回し、短い吐息を夜へ押した。
「嫌い。――だから、続けなさい。
次は、目録。鐘楼に棚が増えるわ」
港の空を、紙魚が一匹だけ横切った。口に栞をくわえて。
扉の注に、小さく――《視線狩り》の字。
ヨハンは胸の銀を押し、低く祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――扉は残る。目も、残る。だが、主語は街じゃ」
風は拍を持ち、港は長い舞台の次を待った。
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つづく:第三十話 視線狩り、鐘楼の栞
次回予告
鐘楼に増設された棚、差し込まれた栞。見られることの税と、見ることの権。
透明の足音は再び鐘の周りを巡り、薔薇の香は記録の奥で甘く腐る。
星は震えず、祈りは掴み、槌は地を打ち、棘は礼を裂く。
そして――「視線」をめぐる狩りが始まる。




