潮鳴りと屍の行進
その夜は、どうにも眠りが遠かった。
横たわれば波の音が胸骨を叩き、目を閉じれば昼間の鐘と走り回る子らの笑顔が瞼の裏でまだ跳ねている。港の外に黒帆が現れたこと、救い出した海人の少女ミラが毛布に包まれて眠っていること、そしてエステラの「三日」という猶予。どれもが、眠りの境界を溶かしてしまう。
寝台から身を起こし、外套を肩に掛けた。窓の金具を音を立てぬよう外し、潮の匂いを含んだ夜の風を肺の奥に入れる。耳が、いつもの波の重なりの中に、針ほどの違和感を拾った。
……騒がしい。
カモメが夜に鳴くことはない。犬の遠吠えでもない。もっと低く、もっと粘ついた、何かが擦れる音。ワシは窓辺の柵に手を掛け、二階のテラスに静かに足を移した。夜のマリナ・デル・ベーラは、灯りの点だけを浮かべた黒い地図のようで、その点と点のあいだを、何かが群れになって流れている。
目が慣れるにつれ、背筋がわずかに縮む。
その群れは、人の背の高さで、揃いの歩調を持っていない。足を引きずるように、片方に体重を預けるように、壁に肩をぶつけながら――だが確かに「進んで」いた。顔は上を向かず、喉は閉じ、目は空洞。鼻腔を這う匂いは、潮に混じった腐りの匂い、塩と血の鉄の匂いの、さらに奥にある冷たい粉のようなもの。
うじゃうじゃと、街に屍が溢れておる。
胸の奥で古い聖句が自然と立ち上がり、喉元まで上がったところで、別の言葉がそれを押し留めた。鐘を鳴らせ。知らせろ。走れ。
ワシは階下へ飛び降りる勢いで駆け下り、扉を開けた。通りに顔を出した瞬間、隣家の窓が開く。ナディアが髪を束ね、裸足のまま身を乗り出してきた。
「ヨハンさん?」
「鐘だ、ナディア。アメリアに。港の鐘の人にも」
彼女は一秒の迷いもなく頷き、布を足に巻くと夜へ溶けた。遠くで短く笛が鳴り、次いで合図の鐘が一度、二度、三度――間を置いて四つ。
路地の向こうから、足音が近づく。屍の足音はばらばらで遅い。だが数が多い。曲がり角の前に、じっとり濡れた手の平が覗き、次の瞬間、よろめきながら三体が姿を現した。漁師の外套、昼の市場で見た服。顔は土気色に膨れ、目は白く濁っている。口元に黒い粉のようなものがこびりつき、そこからぬるりと潮が滴っていた。
ワシは杖を構え、胸の前で十字を切る。
「Vade retro…!」
声が石壁に反射して戻り、屍の動きが一瞬だけ鈍る。だが、止まらん。穏やかな祈りでは、塩に浸かった死者の脚を止められぬ。足元の石を蹴り上げ、杖の石突で最前の一体の膝を払う。骨がずれ、体が崩れる。それでも手は伸びてくる。指は冷たく、ぬるりと滑る。
背後から駆け足の音。短剣が月を弾いた。
「下がって!」
アメリアが横合いから滑り込み、屍のこめかみに釘打ちのような一撃を入れる。二体目が手を伸ばし、彼女の肩口に歯を打ちつけるが、革の肩当てがそれを受ける。ルシアンが水の影から現れ、屍の足を引きずって路地の低い段差へ投げつけた。
「数が悪い」
アメリアが低く舌打ちする。背後の裏通りからも、ぞわりと冷気が這い寄ってくる。扉がばたばたと閉じられる音。窓が打ち木で塞がれる音。誰かの小さな泣き声。
「避難路へ誘導する! ヨハン、鐘をもっと鳴らせ!」
「鐘は鳴っておる。……アーチの下に“何か”がおる。死を歩かせておる“意思”が」
その時、空気がぴん、と細い針で張られたように肌を刺した。路地の奥、階段の最上段の影が濃くなり、その中心から、音もなく一人の女が現れた。
夜の布を切り取ったような黒。
髪は絹の糸のように艶やかで、膝のあたりでゆっくりと弧を描く。肌は白磁、唇は熟れた果実。だが眼だけが、深海のように光を飲み、星を閉じ込めている。裾を踏むような長い外套が、風もないのに波打った。
彼女は微笑み、両腕をわずかに開いた。
屍たちが、その合図であるかのように足を止め、次いで一斉に地を這うように跪いた。
「ごきげんよう、祈りの御方。良い声をしているわ。……わたくしはセラフィナ・ノクティファー。この港の夜の、ささやかな客人」
ヴァンパイア――と、頭のどこかが囁く。
セラフィナの口角が、合図のようにわずかに上がると、屍たちの喉から乾いた音が洩れた。彼らは彼女の意志で立ち、彼女の指の角度で曲がり、彼女の視線の先へ流れる。
「ここは、昔から“良い骨の香り”がする町。古い祈りと、新しい欲望が石に染みている。あなたみたいに、祈りを言葉に変えられる人が来るのを待っていたの」
「この街は、神の前でだけでなく、人の前でも守られるべき場所だ」
ワシは槍のように言葉を投げる。彼女は楽しげに目を細めた。
「素敵ね。では、その祈りで――わたくしの子たちを鎮めてごらんなさい?」
セラフィナが指先で空を撫でると、屍の群れがこちらに押し寄せた。波ではない。網にかかった魚の塊のように、絡まりながらも確実に足元に迫る。
アメリアが短剣を構え、ルシアンが背後の水路へ飛び降りる。ワシは杖を握り直し、胸の中で別の祈りの形を探す。赦しの言葉は、死者には届かぬ。必要なのは、境界。潮と陸、人と死、そのあいだに線を引く言葉。
「御坊!」
高い声が飛び込んできた。振り向くと、アーチの上の影から二つの小柄な影が飛び降り、猫のように軽やかに着地した。肩にかかる耳――三角の、柔らかそうな耳がぴくりと動く。尻尾が、緊張で膨らむ。
「手伝わせてください!」
先に出たのは、毛並みの滑らかな灰色の猫人の娘。瞳は琥珀色で、口元に自信の光が宿る。短いローブの袖口から、細い指に嵌めた指輪がきらりと光った。
「ピックル・ハヤ・ヴィナヤ。魔術学院三等進級、海上術式と星見の課程。だいたいの魔法、使えます!」
その背後に、同じ猫人族の少女が半歩遅れて現れた。毛並みは白に近く、耳は柔らかく折れて震えている。掌には小さな杖――星の飾りが先端に揺れるが、いかにも扱いに不慣れだ。
「ぼ、ボミエ・ルル・ユーミン……です……。未熟で、でも、でも……逃げない、です……!」
この状況で震えながらも引かぬ瞳に、ワシは一瞬、古い偏見の棘が胸の奥でざらりと動くのを感じ、それを舌で押し潰した。今は、手だ。
「ピックル、ボミエ。境界が要る。屍は“こちらへ来られない”と思い込ませろ。星の線でも、潮の線でもいい」
「上から描きます!」
ピックルがアーチの上にひらりと跳び、指で円を描く。星屑のような光が空中に線を結び、路地の上空に薄い天蓋を形づくった。ボミエは震える手で杖を握り、ピックルの描いた線をなぞるように、地面に小さな光の粒を落とす。焦りで何度も線が途切れ、そのたびに彼女は「ごめん……」と小さく呟いた。耳がしぼむ。尻尾が足に巻き付く。
「ボミエ、目を閉じるな。星は上にある。見えなくても、そこにある」
ピックルがさらりと励ます。二人の線が結ばれたとき、屍の先頭が見えない壁にぶつかったようによろめいた。白目がひくりひくりと痙攣し、手が空を掻く。指は空を掴めない。足も、前へ出ない。
セラフィナが片眉を上げた。
「まあ。猫の子にしては上出来」
「猫の子じゃない!」
ピックルがきっぱりと返し、指先をくいと上げる。天蓋の端がぴんと張り、屍の二列目も押し止められる。ボミエが息を詰め、杖の先を握り直す。手が汗で滑り、星の飾りがかすかに鈴の音を立てる。
「御坊、潮を!」
ルシアンが水路から低く叫ぶ。彼は水面ぎりぎりに腕を広げ、海の鼓動に耳を当てるように目を閉じていた。潮の上げ下げの呼吸が、彼の胸で同期する。
「わかった」
ワシは杖を逆手に持ち、石突で石畳を三つ打つ。港で覚えた合図――鐘のない場所で潮を呼ぶ、古い漁師のリズム。ルシアンの喉が震え、水路がうねる。細い水の舌が路地に這い上がり、屍の足首を濡らす。塩は、死の肉を重くする。足が鈍る。アメリアがその隙に一体一体、関節だけを狙って倒していく。リオが背後から釘袋を渡し、レーナが棒で手をはたく。ナディアの笛が短く鳴るたび、路地の窓が開き、子らが一時避難の小窓をくぐる。
セラフィナはその光景を、退屈しのぎの演劇の観客のように眺め、やがて、緩やかに踵を返した。
「今夜はここまでにしましょう。あなた方の“手”は、なかなか美しい」
彼女の外套がふわりと持ち上がり、影が路地に伸びる。その影の先で、彼女は一度だけ振り返った。
「御坊。あなたの銀のペンダント――古い鍵。わたくし、それが欲しいの。三日後、満潮の時刻にまた来るわ。潮は、約束を忘れないの」
その名残の声を最後に、彼女は影の中に溶けた。屍たちは一斉に崩れ、潮の引き際の泡のように、そこにあったはずの重量だけを残して消えた。
静寂。
ワシたちは、しばし呼吸の音だけで立ち尽くし、次いで、互いの無事を短く確かめ合った。アメリアは肩当てに歯形の痕を見つけ、舌打ちしながらも笑う。ルシアンは水路からよじ登り、濡れた髪を払う。ナディアは笛を口から外し、腕組みして空を睨む。
そして、猫人の二人。
ピックルは胸を張り、尻尾をぴんと立てて笑った。ボミエは杖を抱きしめ、耳を半分だけ起こして、おそるおそるこちらを見る。
「……助かった」
ワシは深く頭を下げた。
その言葉を口にした瞬間、胸のどこかに付いた古い埃がひとつ、落ちた気がした。
「御坊、あたしたちは“猫の子”だけど、猫の子は空を見るのが得意だから」
ピックルが得意げに言う。ボミエが小さく頷き、勇気を振り絞るように言葉を継いだ。
「わ、わたしたち……学院の見習いだけど……どこにも入れて、もらえなくて……。人混み、こわいし……魔法、失敗するし……。でも、でも……ヨハンさんの“手”は、優しかったから……」
優しい、などという形容を、ワシはいつ以来もらっただろう。どこかむず痒くなり、咳払いで誤魔化す。
「ワシは……お主らが星を引いたから、生き延びられた。礼を言う」
ピックルがボミエの背をぽんと叩いた。「聞いた? 御坊に“礼”言われたよ!」と、子どものように笑う。ボミエは耳を伏せ、尻尾を丸め、「ぅぅ……」と震えながらも、口元だけは少し笑っている。
「ピックル、ボミエ。……礼拝所に来い。昼は掃除、夜は警戒。飯は出す」
「やった!」
ピックルが勢いよく跳ね、着地で尻尾がテーブルの角にぶつかって「いたっ」と顔をしかめる。ボミエが慌てて撫で、「だいじょうぶ?」と訊ねる。ピックルは「だいじょうぶ」と胸を張り、ボミエの手に自分の手を重ねた。その指は、星の粉をわずかに残して、温かい。
◇
夜明け前。
港の空がわずかに白み、鐘が遠くで一度だけ鳴った。ボート小屋の中に、戦いの余熱と、スープの匂いと、濡れた麻の匂いが滞留している。ミラは毛布の中で眠り、リオは扉の隙間から外を警戒し、レーナは看板の文字の端をもう一度なぞっている。アメリアは壁にもたれて目を閉じ、ルシアンは桶に手を浸し、波の拍を数えている。ナディアは鍋をかき回しながら、肩越しにこちらを見る。
「ヨハンさん。……さっきの女、見た目は綺麗だったけど、匂いが最悪だったわ。血も腐りも隠し香じゃ誤魔化せないわよ」
「ヴァンパイアだ。名はセラフィナ。屍を歩かせる。……銀を欲しがっていた。ワシの鍵を」
エステラの顔が浮かぶ。三日。均衡。代価。
鍵は人を救うかもしれないが、鍵はまた、街を別の色に染めるかもしれない。
「御坊」
ピックルが卓に両肘をつき、頬杖をついてこちらを覗く。琥珀の目が、星の残光で細く光っている。
「セラフィナは、星を嫌う。星の光は“過去”を持たないから。彼女たちは、過去に自分の力を浸して生きてる。だから、星で切ると痛むの。……先生が言ってた」
「先生?」
「学院の星術の先生。“スターライト”っていう、特別な杖があるの。星魔法を安定させる。私は、いつかそれを持つのが夢」
ピックルの声は無邪気で、自信に満ちている。ボミエは小さな杖を抱えたまま、ピックルの横顔を見て、目を細めた。言葉にはしない憧れが、その耳の角度に滲む。
「ヨハンさん」
今度はボミエが、勇気を振り絞るように口を開く。声はまだ小さく、けれど芯がある。
「わたし……星の線、もっと、まっすぐに引けるように、します……。怖くても、逃げない、です。あの女、きらい。……怖い、けど……きらい」
ワシは頷いた。恐れと嫌悪は似ているが、違う。嫌悪は“遠ざける”ための力になるが、恐れは“立ち尽くす”力になる。彼女が選ぼうとしているのは、前者だった。
「ボミエ。星は、まっすぐに引かんでよい。曲がっても、繋げばよい。……祈りも同じじゃ」
ボミエは目を瞬き、尻尾を小さく揺らした。ピックルが「いい言葉」と笑い、レーナが「看板の裏に書いとく」と冗談を飛ばす。リオは鼻を鳴らし、ナディアが鍋を叩く。「静かに。スープが泣く」
アメリアが目を開け、簡潔に言う。
「三日後、満潮。セラフィナは約束を忘れない、潮も。……こっちも、忘れない」
ルシアンが水から手を上げる。滴が指の間から落ち、床に小さな丸を作る。
「御坊。海の底の“礼拝堂”に行くときは、呼べ。潮の道は、陸の地図にはない」
エステラの顔がまた浮かぶ。あの地下の椅子。鼻先をくすぐる香。笑う目。ワシは、胸の銀を指先で触れ、祈りの言葉の順番をいつもと違う順に並べてみる。順番を変えたからといって、神の耳が塞がるわけではない。
鐘が、朝を告げる。ゴーン、ゴーン。
ミラが目を擦り、寝返りを打ち、毛布から顔を出した。目はまだ赤いが、光を映す。ワシは笑い、彼女の額に手を当てた。
「朝じゃ」
彼女は小さく頷き、ナディアの差し出したパンを受け取る。ピックルが「タコは?」と訊き、ナディアが「朝からタコは胃がびっくりするわ」と笑う。ボミエは少しだけほっとして、「よかった……」と耳を撫でた。
ワシは扉を開け、光の端をひと掴みした。街は焼けていない。海はまだある。鐘は鳴る。
だが、夜はもう違う顔を持っている。セラフィナの影。屍の行進。三日後の満潮。
ペンダントが胸で冷たく光る。師の手の温度は消え、代わりに街の子らの体温が、ワシの手にある。掴むための手。殴るためでなく。
ワシは、祈りの一節を静かに置き、そして、鐘の音に合わせて小さく口笛を吹いた。ナディアの笛より下手だが、誰かが笑った。
マリナ・デル・ベーラの朝は来る。
そして夜も来る。
そのあいだに、ワシらは線を引き、結び目を増やし、手と手を重ねる。――セラフィナの影が届かぬ場所まで。
三日後、満潮。
潮は約束を忘れない。ワシも、忘れない。