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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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第十五章 仮面卿の副声 第一話 面の内の声

灰野を抜け、三つ丘を越えた時だった。

風の層がふっと薄くなり、匂いが抜けた。

草でも灰でも水でもない——紙の無臭。

その無臭が、逆に強い“存在”として鼻腔に刺さる。


ルーシアンが足を止める。「……風から匂いが消えた。塔の帯域レンジだ」

ミレーユは目を細め、空をなぞる。「“副声ふくごえ”の結界。音じゃない、命令の気圧で覆うやり方」

ヨハンは逆薔薇の柄をぽんと軽く叩き、皆へ視線で合図を送る。

「鳴らすな。拍は内側に置け」


ナディアは双穴管を胸に当て、息だけでぽん。

返るこは、遠い。

——結界が“往復”を遅延させている。

ボミエが星杖せいじょうを傾け、芯の明滅を半拍だけ落とす。

「副声の膜は“急かす”ニャ。ゆっくりで渡るニャ」



丘を降りた先に、低い回廊が横たわっていた。

赤でも灰でもない、白い回廊。

壁には細長い窓が等間隔に並び、そこから覗くのは空ではなく、おもてだった。

頬のない顔。口のない笑み。

無数の仮面が、壁の裏側でこちらを見ていないふりをしている。


ヴァレリアが盾を少し上げ、角度で反射を切る。

「鏡のようで、鏡じゃない」

ミレーユが頷く。「“名を映し、名を奪う”面。——けど今は“在り方”を狙ってる。温度支配が進んだ証拠」


回廊の真ん中に、白衣の影が立っていた。

細い。背は高くない。

だが、その胸には二枚の札が重ねて吊られている。

片方は黒、片方は白。

札が触れ合うたび、耳の内側でことと薄い衝突音が響いた。


「ようこそ、非鳴の徒よ」


声は柔らかく、遅れて聞こえる。

口が動く前に、意味が胸へ落ち、あとから音が追いかけてくる。

副声——仮面卿が遠隔で操る、声の代行体。


ヨハンが半歩前に出る。「仮面卿はどこだ」

「ここに。どこにも。面の裏に。」

重ね札がことと鳴り、回廊の窓ごとに別の“口”が開いた。

同じ声、違う高さ。

和音にも不協にもならない、合わさらない合唱。


ナディアは胸の内でぽんを抱きしめ、息を整える。

副声は、言葉で殴りかからない。

代わりに「応答欲」を膨らませて、こちらに喋らせようとする。

——鳴らした時点で、主導権を奪われる。


「話すな」ミレーユが口形くちがただけで伝える。

“輪を描かず、間を置け”。


ボミエが星杖で床をこ。

床は返さない。返りを渋る。

副声の膜が、拍の往復を課金制みたいに狭めている。


「塔は学んだ。名は逃げる。

 在り方は、温度で縫える。

 ——君たちは、どちらを差し出す?」


札がことと鳴り、回廊の温度が一段下がる。

頬の皮に薄い冷え。

次いで、火照り。上下を細かく繰り返す温度揺さぶり。

ルーシアンの眉がわずかに動く。「嗅覚が誤差を起こす……気をつけろ。匂いが嘘をつく」


ヴァレリアが盾の裏で手話に似た指図。

“三拍目の後に動け”。

灰の集落で受け取った細い灰札の教えそのままに。


ヨハンが柄で地にぽん。

ナディアが内でこ。

ミレーユが**(間)を置く。

——三拍目の後。

ヴァレリアが踏み出し、盾で窓の仮面を面一つらいちに撫でる。

触れていないのに、仮面の影だけがよろめいた**。


副声が初めて息を乱す。


「……“間”で来るか。

 だが、ここは“会話”の回廊。

 会話なき者に、通路は与えない」


回廊の床に線が現れた。

白い石の間に黒の細線。

線は素早く五線譜を描き、音符の形をした穴が口を開ける。

踏み外せば、拍は記譜され、固定される。


「進ませる気など、初めからない」ミレーユが静かに言う。

「通路は“対話のための舞台”。喋れば落ちる」


ヨハンは逆薔薇を抜かない。

刃は封印のまま、柄で床の線の外にぽん。

ナディアが胸でぽん。

ボミエが杖の尻でこ。

拍はすべて“譜の外”。

五線の外の白、余白を渡る。


「余白に立つと?

 ならば、補筆しよう」


副声の白札が揺れた。

空の余白に、見えない追い書きが始まる。

書かれた途端、そこは「道」ではなく「台本」に変わる。

歩けば役を演じさせられる。


ヴァレリアが振り向かずに言う。「——灰だ」

ボミエが頷き、灰袋をぱっと拡げた。

灰は“書かれる面”に先回りして薄膜を敷く。

ミレーユがその上に間を一つ置く。

灰封はいふう

 追い書きを“未記録”の側へ押し返す」


五線譜の穴がひとつ、二つと閉じた。

副声は札をことと鳴らし、声色を変える。


「君たちは、喪失の楽器だ。

 記さない、鳴らさない、ただ失う——」


ナディアの目が静かに怒る。

だが彼女は喋らない。

双穴管を胸に押し当て、ぽん、こ。

二音の呼吸だけを置く。

——失っていない。在る。


副声の白衣が、はらりと二重に分かれた。

前と後ろ。

同じ顔、同じ声。

「では、分割しよう。

 君たちの在り方を、前後に裂く」


回廊は滑る。

前へ出る足と、後へ退く重心が競合を起こす。

歩幅の矛盾。

一団の列がほどけかけたその瞬間、

ヨハンが逆薔薇の柄を地に二度叩く。ぽん、ぽん。


——同時刻を作る。

前と後ろの間に、もう一つ**“今”**を置く。

「置き直しだ」


ミレーユが即座に輪を解き、

“二重の声”の重なりをほどく。

ヴァレリアが盾面で後足を受け、

ルーシアンが鼻で空気の層を嗅ぎ分けて温度の均一を保つ。

ボミエが星杖でこ、ナディアが胸でぽん。

列は崩れない。


副声の影が一瞬だけ薄くなった。


「“今”を増やすとは、反則だ」

ミレーユが初めて薄笑いを見せる。

「塔は“未来記帳”で未然を占めた。

 こちらは“現在の複写”。——反則対反則よ」


窓の仮面がざわめく。

面の内側から、別の命令が滲み出た。


「——副声、収束。

 “冷・火・灰”の逆位相、試験開始。

 対象:非鳴の徒。」


床の白が灰に、壁の温度が火に、天井の気圧が冷に切り替わる。

三つの律が周波数をずらされ、互いの打ち消しを狙って収束する。

静寂。

音がなく、匂いがなく、熱像だけが脈打つ空間。


ナディアは見えない“耳鳴り”に吐き気を覚えた。

灰の匂いが遠のき、火の熱が記号になり、冷が数字に変わる——

風が「計算」にされる。


ヨハンが短く言う。「鳴らすな。数えるな。置け。」

彼は逆薔薇をそっと構え、

刃を振らず、柄の重みだけをぽん。

“計算できない重み”を床へ。


ミレーユが間。

ヴァレリアが面。

ルーシアンが匂い。

ボミエが光。

ナディアが息。

五つの“記号に還元できないもの”が、同じ一点に揃う。


結界の周波数が滑る。

副声が初めて“声”を上げた。


「痛イ——」


それは命令ではなく、ただの感覚だった。

回廊の窓に掛けられた仮面が一斉にうつむき、

白衣の影から札が落ちる。

黒と白。

床に触れた札は灰に汚れ、命令札ではなくただの紙になった。


ナディアは双穴管を胸に戻し、

静かに、しかしはっきりとぽん、こ。

副声の輪郭が薄闇へ溶けていく。


「君たちは、鳴らさずに答えた……

 面の裏で、声は居場所を失う」


ヨハンは踏み出し、落ちた札を拾って灰へ沈めた。

「戻れ。在り方の外へ」

灰が札を包み、灯へ変える。

命令は、保護へと反転した。



回廊を抜けると、空気が戻った。

匂いがある。

風がある。

遠くで、草と砂利の正しい音がしていた。


ヴァレリアが肩の力を抜く。「終わった?」

ミレーユは首を振る。「副声は“切り離し”。本体はうえ

 仮面卿は、まだにこやかに黙ってる」

ルーシアンが空を嗅ぐ。「塔の上層、蜂蜜と石膏、そして……血の古さ」


ボミエが星杖を抱え直し、軽く笑う。

「でも道は開いたニャ。鳴らさず、数えず、置くだけで」

ナディアは双穴管を日差しに透かし、

音孔の縁に残った赤いともしびを確かめる。

——火の座で受け取った“心拍の熱”。まだ生きている。


ヨハンは逆薔薇の柄をぽん。

「次は、面の部屋だ」

彼の声は低く、乾いて、温度を持っていた。

言葉というより、歩幅に近い宣言。


「——鐘は鳴らさぬ。

 面を裂かず、間を置け。

 声は面の外で、生かす。」


風がこ、くと返し、

遠く、塔の上層からわずかな笑い声が落ちてきた。

誰のでもない、面の笑い。

それは嘲りではなく、出迎えに聞こえた。


(つづく)

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