第十五章 仮面卿の副声 第一話 面の内の声
灰野を抜け、三つ丘を越えた時だった。
風の層がふっと薄くなり、匂いが抜けた。
草でも灰でも水でもない——紙の無臭。
その無臭が、逆に強い“存在”として鼻腔に刺さる。
ルーシアンが足を止める。「……風から匂いが消えた。塔の帯域だ」
ミレーユは目を細め、空をなぞる。「“副声”の結界。音じゃない、命令の気圧で覆うやり方」
ヨハンは逆薔薇の柄をぽんと軽く叩き、皆へ視線で合図を送る。
「鳴らすな。拍は内側に置け」
ナディアは双穴管を胸に当て、息だけでぽん。
返るこは、遠い。
——結界が“往復”を遅延させている。
ボミエが星杖を傾け、芯の明滅を半拍だけ落とす。
「副声の膜は“急かす”ニャ。ゆっくりで渡るニャ」
◆
丘を降りた先に、低い回廊が横たわっていた。
赤でも灰でもない、白い回廊。
壁には細長い窓が等間隔に並び、そこから覗くのは空ではなく、面だった。
頬のない顔。口のない笑み。
無数の仮面が、壁の裏側でこちらを見ていないふりをしている。
ヴァレリアが盾を少し上げ、角度で反射を切る。
「鏡のようで、鏡じゃない」
ミレーユが頷く。「“名を映し、名を奪う”面。——けど今は“在り方”を狙ってる。温度支配が進んだ証拠」
回廊の真ん中に、白衣の影が立っていた。
細い。背は高くない。
だが、その胸には二枚の札が重ねて吊られている。
片方は黒、片方は白。
札が触れ合うたび、耳の内側でことと薄い衝突音が響いた。
「ようこそ、非鳴の徒よ」
声は柔らかく、遅れて聞こえる。
口が動く前に、意味が胸へ落ち、あとから音が追いかけてくる。
副声——仮面卿が遠隔で操る、声の代行体。
ヨハンが半歩前に出る。「仮面卿はどこだ」
「ここに。どこにも。面の裏に。」
重ね札がことと鳴り、回廊の窓ごとに別の“口”が開いた。
同じ声、違う高さ。
和音にも不協にもならない、合わさらない合唱。
ナディアは胸の内でぽんを抱きしめ、息を整える。
副声は、言葉で殴りかからない。
代わりに「応答欲」を膨らませて、こちらに喋らせようとする。
——鳴らした時点で、主導権を奪われる。
「話すな」ミレーユが口形だけで伝える。
“輪を描かず、間を置け”。
ボミエが星杖で床をこ。
床は返さない。返りを渋る。
副声の膜が、拍の往復を課金制みたいに狭めている。
「塔は学んだ。名は逃げる。
在り方は、温度で縫える。
——君たちは、どちらを差し出す?」
札がことと鳴り、回廊の温度が一段下がる。
頬の皮に薄い冷え。
次いで、火照り。上下を細かく繰り返す温度揺さぶり。
ルーシアンの眉がわずかに動く。「嗅覚が誤差を起こす……気をつけろ。匂いが嘘をつく」
ヴァレリアが盾の裏で手話に似た指図。
“三拍目の後に動け”。
灰の集落で受け取った細い灰札の教えそのままに。
ヨハンが柄で地にぽん。
ナディアが内でこ。
ミレーユが**(間)を置く。
——三拍目の後。
ヴァレリアが踏み出し、盾で窓の仮面を面一に撫でる。
触れていないのに、仮面の影だけがよろめいた**。
副声が初めて息を乱す。
「……“間”で来るか。
だが、ここは“会話”の回廊。
会話なき者に、通路は与えない」
回廊の床に線が現れた。
白い石の間に黒の細線。
線は素早く五線譜を描き、音符の形をした穴が口を開ける。
踏み外せば、拍は記譜され、固定される。
「進ませる気など、初めからない」ミレーユが静かに言う。
「通路は“対話のための舞台”。喋れば落ちる」
ヨハンは逆薔薇を抜かない。
刃は封印のまま、柄で床の線の外にぽん。
ナディアが胸でぽん。
ボミエが杖の尻でこ。
拍はすべて“譜の外”。
五線の外の白、余白を渡る。
「余白に立つと?
ならば、補筆しよう」
副声の白札が揺れた。
空の余白に、見えない追い書きが始まる。
書かれた途端、そこは「道」ではなく「台本」に変わる。
歩けば役を演じさせられる。
ヴァレリアが振り向かずに言う。「——灰だ」
ボミエが頷き、灰袋をぱっと拡げた。
灰は“書かれる面”に先回りして薄膜を敷く。
ミレーユがその上に間を一つ置く。
「灰封。
追い書きを“未記録”の側へ押し返す」
五線譜の穴がひとつ、二つと閉じた。
副声は札をことと鳴らし、声色を変える。
「君たちは、喪失の楽器だ。
記さない、鳴らさない、ただ失う——」
ナディアの目が静かに怒る。
だが彼女は喋らない。
双穴管を胸に押し当て、ぽん、こ。
二音の呼吸だけを置く。
——失っていない。在る。
副声の白衣が、はらりと二重に分かれた。
前と後ろ。
同じ顔、同じ声。
「では、分割しよう。
君たちの在り方を、前後に裂く」
回廊は滑る。
前へ出る足と、後へ退く重心が競合を起こす。
歩幅の矛盾。
一団の列がほどけかけたその瞬間、
ヨハンが逆薔薇の柄を地に二度叩く。ぽん、ぽん。
——同時刻を作る。
前と後ろの間に、もう一つ**“今”**を置く。
「置き直しだ」
ミレーユが即座に輪を解き、
“二重の声”の重なりをほどく。
ヴァレリアが盾面で後足を受け、
ルーシアンが鼻で空気の層を嗅ぎ分けて温度の均一を保つ。
ボミエが星杖でこ、ナディアが胸でぽん。
列は崩れない。
副声の影が一瞬だけ薄くなった。
「“今”を増やすとは、反則だ」
ミレーユが初めて薄笑いを見せる。
「塔は“未来記帳”で未然を占めた。
こちらは“現在の複写”。——反則対反則よ」
窓の仮面がざわめく。
面の内側から、別の命令が滲み出た。
「——副声、収束。
“冷・火・灰”の逆位相、試験開始。
対象:非鳴の徒。」
床の白が灰に、壁の温度が火に、天井の気圧が冷に切り替わる。
三つの律が周波数をずらされ、互いの打ち消しを狙って収束する。
静寂。
音がなく、匂いがなく、熱像だけが脈打つ空間。
ナディアは見えない“耳鳴り”に吐き気を覚えた。
灰の匂いが遠のき、火の熱が記号になり、冷が数字に変わる——
風が「計算」にされる。
ヨハンが短く言う。「鳴らすな。数えるな。置け。」
彼は逆薔薇をそっと構え、
刃を振らず、柄の重みだけをぽん。
“計算できない重み”を床へ。
ミレーユが間。
ヴァレリアが面。
ルーシアンが匂い。
ボミエが光。
ナディアが息。
五つの“記号に還元できないもの”が、同じ一点に揃う。
結界の周波数が滑る。
副声が初めて“声”を上げた。
「痛イ——」
それは命令ではなく、ただの感覚だった。
回廊の窓に掛けられた仮面が一斉にうつむき、
白衣の影から札が落ちる。
黒と白。
床に触れた札は灰に汚れ、命令札ではなくただの紙になった。
ナディアは双穴管を胸に戻し、
静かに、しかしはっきりとぽん、こ。
副声の輪郭が薄闇へ溶けていく。
「君たちは、鳴らさずに答えた……
面の裏で、声は居場所を失う」
ヨハンは踏み出し、落ちた札を拾って灰へ沈めた。
「戻れ。在り方の外へ」
灰が札を包み、灯へ変える。
命令は、保護へと反転した。
◆
回廊を抜けると、空気が戻った。
匂いがある。
風がある。
遠くで、草と砂利の正しい音がしていた。
ヴァレリアが肩の力を抜く。「終わった?」
ミレーユは首を振る。「副声は“切り離し”。本体は上。
仮面卿は、まだにこやかに黙ってる」
ルーシアンが空を嗅ぐ。「塔の上層、蜂蜜と石膏、そして……血の古さ」
ボミエが星杖を抱え直し、軽く笑う。
「でも道は開いたニャ。鳴らさず、数えず、置くだけで」
ナディアは双穴管を日差しに透かし、
音孔の縁に残った赤い灯を確かめる。
——火の座で受け取った“心拍の熱”。まだ生きている。
ヨハンは逆薔薇の柄をぽん。
「次は、面の部屋だ」
彼の声は低く、乾いて、温度を持っていた。
言葉というより、歩幅に近い宣言。
「——鐘は鳴らさぬ。
面を裂かず、間を置け。
声は面の外で、生かす。」
風がこ、くと返し、
遠く、塔の上層からわずかな笑い声が落ちてきた。
誰のでもない、面の笑い。
それは嘲りではなく、出迎えに聞こえた。
(つづく)




