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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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第十三章 冷い森と屍鬼 第三話 氷環(ひょうかん)の街道


氷の音は、最初に足の裏から来た。

草を踏んだはずなのに、乾いたきんという音が響いた。

見ると、大地そのものが霜に覆われていた。

細い亀裂のような模様が縦横に走り、それが淡い青光を放ちながら道を形づくっている。


「……これが、“氷環街道”か」

ヨハンが逆薔薇の柄で地を突く。

ぽん。

音が返る――が、わずかに遅い。

遅れて返った拍が、空気を冷やした。


ナディアが笛を胸に当てて息を止める。

「風が“逆流”してる。吹いてるのに、吸われてる……」

ボミエが星杖せいじょうを持ち替え、光を絞るように芯を叩いた。

「地が冷えてるニャ。拍を出すと、温度ごと吸われるニャ」


ミレーユが符を一枚取り出し、

地面に置く前に空へ浮かせたまま止めた。

符の線が、風も触れていないのに凍る。

「……名ではなく、“温度”が契約の媒体。

 塔の連中、屍鬼で足りなくなったから、今度は温度の律を奪ってる」


ヴァレリアが盾を立てて、周囲を見回す。

「塔の魔紋だな。循環してる……環の街道」

ルーシアンは空気を嗅ぎ、低く呟く。

「鉄と蜂蜜。血を凍らせた匂い。——生きてる気配は、ひとつだけ」


ヨハンが目を細める。「どこだ」

「この道の、歌のほうから」



進むうちに、氷の道が微かに旋律を発した。

風ではない。氷が、自らの収縮で鳴っている。

ナディアが一歩立ち止まり、耳を傾けた。

「……この曲、知ってる」


ボミエが驚く。「誰の歌ニャ?」

「昔、私が旅に出る前。

 あの町の祭りで、一緒に演奏したリュースの曲。

 “草原に眠る風の詩”。」


ヨハンが眉を寄せた。「塔に記録された?」

「……リュースは、“歌を記す”吟遊詩人だった。

 自分の曲を、紙じゃなく“氷板”に刻んでたの」

ミレーユが頷く。「氷板……冷却の律媒体。塔の“温度書記”が使うやつね」


そのとき、道の先に人影が見えた。

氷の壁の向こう、白い息を吐く影。

肩からマントが垂れ、

長い笛を持った男が、氷の地面に指で符のような線を描いている。


「リュース!」

ナディアが思わず声を上げた。

男の肩が、わずかに動く。

だが振り返った顔は、凍った表情のままだった。


「ナディア……?」

声は確かに懐かしい音色。

けれど、息の温度がなかった。

「やっと、追いついたのか。

 僕は“記された”んだ。塔に、拍を預けた」


ミレーユが間に入る。「あなた、まだ“契約”の中にいる」

「契約? 違うよ。保存だ。

 塔は言ったんだ、“声は温度で残る”って」

リュースが笛を掲げる。

息を吹き込むと、笛の内部からではなく、

氷の地面から旋律が溢れた。

氷が歌う。


「風よ、眠れ。名は冷たく、美しく在れ。」


ナディアが顔を歪めた。「そんな歌、違う!」

リュースはゆっくり笑った。

「塔は、“正しい拍”に直してくれた。

 ナディアの“ぽん”を、“こ”に合わせてくれた。

 ——僕らのズレを、凍らせて揃えたんだ」


ヨハンの逆薔薇が低く唸った。

刃を抜かぬまま、柄が微かに熱を帯びる。

「塔の温度制御が、彼を楽譜ごと凍らせた……」


ミレーユが符を構える。

「凍結された律を解除するには、間のずれを再び作るしかない。

 ナディア、あんたの“ずれた音”を返して」

ナディアが笛を握りしめ、

息を吸った。

ぽん。こ。

リュースの旋律と違う。

ずれた。それでいい。


氷の街道が震える。

リュースの笛から漏れる旋律が、一音ごとに割れる。

リュースが膝をつき、胸を押さえた。

「やめろ……! 合わせないと、塔の温度が——!」


ナディアが一歩、踏み込む。

「拍は合わせるためじゃない!

 重なるためにあるの!」


風が返す。

ぽん、こ。ぽん、こ。

氷が解け、蒸気が一瞬だけ空へ立つ。


ヨハンがその瞬間、逆薔薇を抜いた。

刃が光を吸い込み、音のない輪を描く。

リュースの背後、塔の紋が凍気とともに剥がれ落ちた。


リュースは胸の中で何かを握るように息をした。

目の霜が、涙に変わって落ちる。

「……僕の、歌……戻った……」

ナディアは笛を下ろし、静かに微笑んだ。

「もう記さないで。渡して。風に。」

リュースは頷き、笛を氷道に置いた。

笛は光の粒となり、風に散った。



街道の氷は音を止め、静寂が戻った。

ボミエが杖をこと突く。

音が、温かい。

「……拍、戻ったニャ」

ミレーユは符を畳み、短くまとめる。

「塔は“温度差”で律を縫う技術を進めてる。

 けど今の崩れで、実験は一時的に止まるはず」


ヨハンは逆薔薇を鞘に納めた。

「塔はもう“名”ではなく、“温度”で人を支配する。

 ——それは“記す”ことすら放棄した支配だ」


ナディアは空を見上げ、目を細めた。

「でも風は、まだ動ける。

 記すんじゃなく、伝うほうへ」


風が答えるように、草の縁を鳴らした。

ぽん。こ。

氷の街道を越え、南から温かい層が広がる。

それはまるで、草原に戻る道のようだった。



「——鳴らさぬ。

 渡す。

 風の拍は、凍らない。」


――第十三章 第四話「呪いの館」へ続く。

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