第十三章 冷い森と屍鬼 第三話 氷環(ひょうかん)の街道
氷の音は、最初に足の裏から来た。
草を踏んだはずなのに、乾いたきんという音が響いた。
見ると、大地そのものが霜に覆われていた。
細い亀裂のような模様が縦横に走り、それが淡い青光を放ちながら道を形づくっている。
「……これが、“氷環街道”か」
ヨハンが逆薔薇の柄で地を突く。
ぽん。
音が返る――が、わずかに遅い。
遅れて返った拍が、空気を冷やした。
ナディアが笛を胸に当てて息を止める。
「風が“逆流”してる。吹いてるのに、吸われてる……」
ボミエが星杖を持ち替え、光を絞るように芯を叩いた。
「地が冷えてるニャ。拍を出すと、温度ごと吸われるニャ」
ミレーユが符を一枚取り出し、
地面に置く前に空へ浮かせたまま止めた。
符の線が、風も触れていないのに凍る。
「……名ではなく、“温度”が契約の媒体。
塔の連中、屍鬼で足りなくなったから、今度は温度の律を奪ってる」
ヴァレリアが盾を立てて、周囲を見回す。
「塔の魔紋だな。循環してる……環の街道」
ルーシアンは空気を嗅ぎ、低く呟く。
「鉄と蜂蜜。血を凍らせた匂い。——生きてる気配は、ひとつだけ」
ヨハンが目を細める。「どこだ」
「この道の、歌のほうから」
◆
進むうちに、氷の道が微かに旋律を発した。
風ではない。氷が、自らの収縮で鳴っている。
ナディアが一歩立ち止まり、耳を傾けた。
「……この曲、知ってる」
ボミエが驚く。「誰の歌ニャ?」
「昔、私が旅に出る前。
あの町の祭りで、一緒に演奏したリュースの曲。
“草原に眠る風の詩”。」
ヨハンが眉を寄せた。「塔に記録された?」
「……リュースは、“歌を記す”吟遊詩人だった。
自分の曲を、紙じゃなく“氷板”に刻んでたの」
ミレーユが頷く。「氷板……冷却の律媒体。塔の“温度書記”が使うやつね」
そのとき、道の先に人影が見えた。
氷の壁の向こう、白い息を吐く影。
肩からマントが垂れ、
長い笛を持った男が、氷の地面に指で符のような線を描いている。
「リュース!」
ナディアが思わず声を上げた。
男の肩が、わずかに動く。
だが振り返った顔は、凍った表情のままだった。
「ナディア……?」
声は確かに懐かしい音色。
けれど、息の温度がなかった。
「やっと、追いついたのか。
僕は“記された”んだ。塔に、拍を預けた」
ミレーユが間に入る。「あなた、まだ“契約”の中にいる」
「契約? 違うよ。保存だ。
塔は言ったんだ、“声は温度で残る”って」
リュースが笛を掲げる。
息を吹き込むと、笛の内部からではなく、
氷の地面から旋律が溢れた。
氷が歌う。
「風よ、眠れ。名は冷たく、美しく在れ。」
ナディアが顔を歪めた。「そんな歌、違う!」
リュースはゆっくり笑った。
「塔は、“正しい拍”に直してくれた。
ナディアの“ぽん”を、“こ”に合わせてくれた。
——僕らのズレを、凍らせて揃えたんだ」
ヨハンの逆薔薇が低く唸った。
刃を抜かぬまま、柄が微かに熱を帯びる。
「塔の温度制御が、彼を楽譜ごと凍らせた……」
ミレーユが符を構える。
「凍結された律を解除するには、間のずれを再び作るしかない。
ナディア、あんたの“ずれた音”を返して」
ナディアが笛を握りしめ、
息を吸った。
ぽん。こ。
リュースの旋律と違う。
ずれた。それでいい。
氷の街道が震える。
リュースの笛から漏れる旋律が、一音ごとに割れる。
リュースが膝をつき、胸を押さえた。
「やめろ……! 合わせないと、塔の温度が——!」
ナディアが一歩、踏み込む。
「拍は合わせるためじゃない!
重なるためにあるの!」
風が返す。
ぽん、こ。ぽん、こ。
氷が解け、蒸気が一瞬だけ空へ立つ。
ヨハンがその瞬間、逆薔薇を抜いた。
刃が光を吸い込み、音のない輪を描く。
リュースの背後、塔の紋が凍気とともに剥がれ落ちた。
リュースは胸の中で何かを握るように息をした。
目の霜が、涙に変わって落ちる。
「……僕の、歌……戻った……」
ナディアは笛を下ろし、静かに微笑んだ。
「もう記さないで。渡して。風に。」
リュースは頷き、笛を氷道に置いた。
笛は光の粒となり、風に散った。
◆
街道の氷は音を止め、静寂が戻った。
ボミエが杖をこと突く。
音が、温かい。
「……拍、戻ったニャ」
ミレーユは符を畳み、短くまとめる。
「塔は“温度差”で律を縫う技術を進めてる。
けど今の崩れで、実験は一時的に止まるはず」
ヨハンは逆薔薇を鞘に納めた。
「塔はもう“名”ではなく、“温度”で人を支配する。
——それは“記す”ことすら放棄した支配だ」
ナディアは空を見上げ、目を細めた。
「でも風は、まだ動ける。
記すんじゃなく、伝うほうへ」
風が答えるように、草の縁を鳴らした。
ぽん。こ。
氷の街道を越え、南から温かい層が広がる。
それはまるで、草原に戻る道のようだった。
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「——鳴らさぬ。
渡す。
風の拍は、凍らない。」
――第十三章 第四話「呪いの館」へ続く。




