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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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第九章 東方行 ― 草原に還る風 ― 第3話 赤い月、昼の空に

昼の光はまだ強かった。

それでも、東の地平はどこか薄い。

白布を一枚、空に重ねたような霞が揺れ、草原の端で風が裂けていた。


「ここが“風の裂け目”だ」

アルトがツィンバロンの弦に手を添え、耳を澄ます。

音は出さない。ただ、指先の下で木の盤が、見えない水面みたいに細かく震えた。

「風の形が変わる境目。向こうは……呼吸ではなく、脈で動く」


谷は深くはない。

けれど、手前で音が止む。

鳥は黙り、虫の翅は閉じ、草が擦れる音さえ薄くなる。

ルーシアンが瓶の口を開け、空気をひとすくいしてすぐ栓をした。

「重さが違う。西の空気より、指にまとわりつく。

 水飴みたいな粘度だ。……悪いものじゃないが、濃い」


レオンハルトが肩を回し、半歩前へ出る。

「行くんだろ?」

ヨハンは頷いた。

足下の土は乾いているのに、冷たさが芯まで届く。

――怖れではない。

 ただ、体の奥に触れてくる感じがある。


谷に踏み入るその刹那、

空が、ほんの少しだけ、暗くなった。


「……昼なのに」

ナディアが息を呑む。

薄雲の向こうに、円い影が浮かぶ。

影はゆっくり輪郭を帯び、淡く、しかし紛れもなく赤だった。


赤い月が、昼の空に現れていた。


風が止む。

代わりに、どくん、と地面の下で脈が打ったような気がした。

アルトが弦から手を離す。

音は、要らない――そう言われたように。

「……聴いてる。向こうが」

彼は静かに言った。

「風に歌わせるな。いまは、黙って脈を受けろ」


ヨハンは目を閉じ、胸に手を当てた。

ダーシャから託された「陽煮の核」が袋越しに温い。

赤い粉、野草、蜂蜜の布。

混ぜる順番は風に聞け、と言われた。

風が止んだのなら――


「拍だ」

ヨハンは指先で、自分の胸の二拍を確かめる。

吸い、吐く。

続いて、もう一度。

胸の奥の、水脈みたいな通い路が静かに広がった。


赤い月は動かない。

けれど、見ている。

こちらが「拍」を持っているかどうか、たしかめるみたいに。


ナディアが囁く。

「……怖い?」

レオンハルトが苦笑する。

「分からねえ。怖いって言うには、綺麗すぎる」

ルーシアンは瓶を胸に抱え、蓋越しに耳を当てた。

「音はない。だが、波形は出ている。

 水でも風でもない。血の波形だ」


アルトがゆっくりと弦を撫でる――が、鳴らさない。

ただ弦の張りを、指で確かめている。

「弦は引くだけじゃない。耐えることでも鳴る」

そう言って、彼は微笑んだ。

「大丈夫さ。向こうは、踊り方が違うだけだ」


谷は浅い。

だが、境目は深い。

一歩ごとに、昼の色が少しずつ血色に寄っていく。

草の先に溜まる露が、ほんの僅かに赤を帯び、

石の影は濃く、輪郭を持ちはじめる。


やがて、谷の底に小さな祠が見えた。

誰が置いたのか分からない、黒い石の台座。

上には何もない。

ただ、赤い糸のようなものが一本、空に向かって立っている。

――いや、糸ではない。

光だ。

目で見ると細い線、胸で聴くと拍。

触れれば、たぶん脈。


「道標だな」ヨハンは言った。

「鐘の国で見た“声なき道標”とは違う。

 声はある。ただ、耳じゃなくて、内で鳴る」


祠の前に立つと、赤い月の光はほんの少し強くなった。

ナディアが首を傾げる。

「合図を欲しがってる」

「鐘は鳴らさない」

ヨハンは胸から袋を取り出す。

赤い粉を、指でほんのひと摘み。

野草を砕いて混ぜ、蜂蜜の布を裂き、祠の前に置いた小皿に落とす。

火は無い。

それでも、香りが立った。

陽煮の匂いが、血の匂いに触れて、薄い夕焼けみたいな和らぎを作る。


レオンハルトが目を丸くする。

「燃えてねえのに、温かい……?」

「脈が温度を運ぶ」ルーシアンが唇を歪めた。

「面白い仕組みだ。体内と同じだな。火よりも効率がいい」


アルトはツィンバロンを膝に置き、

初めて、弦を鳴らした。

一音だけ。

風の歌ではない。

短く、深く、中へ落ちていく音。

祠の上の赤い線が、どくんとひとつ、うなずいた。


ナディアが続ける。

笛を唇に当てたが、音は出さない。

ただ、息を通し、管の内圧を変える。

目に見えないが、祠の周りの空気が、

呼吸を教わったように、ゆっくりと膨らみ、しぼむ。


「行こう」

ヨハンが言う。

祠の向こうには、薄い霧が垂れている。

霧の向こうは森か、谷か、あるいは街か。

地形は見えない。

ただ、赤い月の下に続く道が、体で分かる。

拍の道ではない。

脈の道だ。

――その道は、誰かの胸から胸へ、繋がっていく。


境目を越える足取りは、不思議と重くなかった。

重いのは音だけだ。

胸の中の音が、足と一緒に進む。

「ほらな」アルトが笑う。

「踊れる」


最初の林が見えた。

葉は厚く、光は少ない。

けれど、暗さの質が違う。

隠すための暗さではなく、保存するための暗さ。

冷やして、持たせるための温度。

それは塩の国で覚えた保存とは、別のやり方だった。


「……ここでは、人は何で互いを確かめ合う?」

レオンハルトが問う。

「声か? 光か? それとも――」

ヨハンは答えず、自分の胸に耳を当てる。

答えはそこで鳴っていた。

「脈だよ。

 ここでは、速さで嘘がばれる。

 浅さで怯えがばれる。

 だから、落ち着いて――深く」


ナディアが息を長く通し、笛の管内に柔らかな圧を作る。

ルーシアンが瓶の口を少しだけ開け、外気と自分の吐息を混ぜて調律する。

アルトの弦は、楽器というより、身体の延長に見えた。


赤い月は動かない。

だが、木の影がゆっくり伸びる。

昼の背骨に、夜の肋骨が生えていくみたいに。


道の右手に、石で囲った浅い泉があった。

水は濁っていない。

ただ、表面に薄い赤の輪が、ひとつ、ふたつ。

ナディアが覗きこみ、肩を緩める。

「怖い色じゃない。

 眠れって言ってる」

「眠るのはまだだ」

ヨハンは泉に指を浸し、額に軽く触れた。

「ここで眠ると、たぶん起きる場所が変わる」


レオンハルトが笑う。

「起きる場所、ね。起きたら牙が生えてたりしてな」

「牙は、ゆっくり生える」アルトが肩をすくめた。

「選べるのさ、踊り方を。

 向こうの民は、誰も彼もが同じ夜を持ってるわけじゃない」


森は深くなる。

しかし、怖れは深くならない。

赤い月の光は、血を急かさない。

むしろ、整える。

乱れた箇所を撫で、足りないところへ巡らせる。

ヨハンは歩きながら、自分の胸の傷の古い疼きを思い出した。

疼きは来ない。

代わりに、そこへ温かい水が注ぎ込まれるような感覚がある。


「ねえ」

ナディアが、前を行くヨハンの背に声を落とす。

「鐘の国で、あたしたち、夜を止めたよね」

「ああ」

「ここでは、夜で生きるの?」

ヨハンは振り返らない。

答えは歩幅で、呼吸で、もう示されている。

「夜に抗うのではなく、夜と生きる。

 どこまでできるか、試してみよう」


赤い月の下、最初の影が動いた。

人の形にも、獣の形にも見える。

だが、襲いかかってはこない。

影は、こちらの脈を聞いている。

浅くないか、速すぎないか。

――試されているのは、武器でも声でもない。

 拍から脈へ移り替えた、この体そのもの。


アルトが弦の上に掌を置き、低く言った。

「挨拶だ。向こうのやり方で」

彼は息を吸い、胸の奥で三拍を数え、

ゆっくり、掌を胸へ。

ナディアも、レオンハルトも、ルーシアンも倣う。

ヨハンは最後に、頷きだけを足して、一行の前に立つ。


影が揺れ、ほどけた。

木々の間から、白い面差しがいくつか覗く。

瞳は暗いが、淀みはない。

口元に笑み――牙は、見えない。


「昼に来るとは、正直だな」

はじめて、声がした。

枯葉を踏むみたいな、乾いた音色の声。

「あんたらの脈は、落ち着いてる。

 風の国の者だ。……ようこそ、夜の生へ」


ヨハンは剣に触れない。

代わりに、胸の袋を軽く叩いた。

「陽の味を持ってきた。境目の備えだ」

白い顔の一人が、首を傾げる。

「陽?」

「火じゃない。巡るほうの味だ」

ヨハンは袋口を開け、赤い粉と乾いた野草を指に取る。

蜂蜜の布を、ほんの細い一本に裂き、

泉の縁の石に置いた。


赤い月の光が、わずかに明るくなる。

白い面差しが、鼻先で香りを受け取った。

「……忘れていた」

声の色が、ほんの少しやわらぐ。

「夜にも、甘さはいる」


最初の挨拶は終わった。

森の奥に、灯りはない。

けれど、道は見える。

胸から胸へ繋がる、脈の道。

拍が遠のいたわけじゃない。

拍は、深く沈んで、脈になっただけだ。


ヨハンは一歩進み、振り返ることなく言った。

「鐘は鳴らさない。

 ここでは、胸で鳴らす」

その声に、赤い月がひとつ頷いたように見えた。


風は戻らない。

だが、息は途切れない。

草原の終わりで拾った拍は、

いま、夜の森で脈に変わっている。


――東方行の道は、ここで一度終わり、

 同じ道が、夜の生として始まった。


昼の空に浮かぶ赤い月が、

その始まりの印だった。


――第九章 東方行 ― 草原に還る風 ― 第四話 了。

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